13
翌日学校に復帰するも、ギプスをつけて腕を吊った綾香に労わりの声をかけてくれたのは小笠原だけだった。
皆何事も無かったかのように、綾香など初めから居なかったかのように振舞っている。
綾香は仕方がない事だと思っていた。この怪我は齋藤に刃向かったことにより負ったものだと皆が知っているのだ。だから近寄って来ない。
小笠原さえも少しよそよそしくなってしまったくらいだ。
綾香はそれを責め立てたりしない。人間、身を守ろうとするのは性なのだ。
それに小笠原は、少し距離を置いてはいるが近づこうとしてくれている。それだけで綾香は十分だった。
海一と昨晩時間をかけて話し合った結果、綾香は今日は中川の情報収集をすることになった。学園長の傍にまるで秘書のように付き従う、臨時の英語教師。彼女に関しては情報が足りなさすぎる。
そして海一は齋藤真奈美と宇津田明良の動きを張ることになった。同じクラスとはいえ、綾香ではもう齋藤を観察するのは難しいと思われたからだ。
優先順位からどうしても、今日は掃除夫と今泉はマーク出来なかった。
そんな海一に張られることになった齋藤は、綾香の姿を見ても表情一つ変えなかった。
何だか憎らしい気もしたが綾香は無視をした。齋藤も綾香を無視したし、お互い様だった。
綾香は授業以外、許される限りの時間を中川の情報収集にあてた。ほんの些細なことでも構わない。まずは彼女の行動パターンを把握することだ。
彼女は担任を持っていないため、決まったクラスに束縛されていない。休みの時間も多々あれば、様々な学年・クラスに授業をしにいく。
綾香はあの不鮮明な古い写真からでも、すぐに中川を見つけることが出来た。
人間はいくら化粧や整形をしようと目鼻立ちのパーツなどは大きく変化しないため、ある程度の部分を押さえておけば特定することは可能なのだ。何より彼女のつけているきつい匂いの香水が確信を持たせてくれた。
そんな彼女は今日は深い赤のスーツに、長い明るめの栗色の髪をバレッタでまとめてアップにしていた。痩せた体にそのうなじはとてもセクシーに見える。
綾香としては学校でそんなに色気を振りまかなくても、と思うのだが。
昼休みになると中川は学園長室へ入って行った。やはり学園長側の人間、昼食と報告を兼ねているのだろうか。
これだけ自由な仕事パターンだったら、脅迫や機密を詮索することも容易いのだろうと綾香は推測した。
昼休みの十一階。
元々生徒はあまり来ないところだが、腕に怪我を負った綾香のことを教師はなるべく無視するように通った。
きっと職員会議か、通達か何かで綾香にあまり干渉しないよう指示が出ているのだろう。お金の力での復帰というのは恐ろしいものだ、と綾香は自然と険しい表情になるのだった。
「あら。あなた、腕をどうしたの?」
思考が遠くに行きかけていたその時、綾香の元に意外な人物が近寄ってきた。
それはなんと、中川本人だった。学園長室から意外にも早く出てきた中川に、綾香は戸惑ってしまう。
「あ、この腕は、ちょっと怪我をして……」
綾香はなるべく顔を隠すようにうつむいて応対する。
もし学園長サイドとして中川と齋藤が繋がっているのだとしたら、中川は綾香を襲撃した側の人間だ。
「怖がらないで大丈夫よ。ひどい怪我みたいね……」
中川は慈愛に満ちた声と優しい指先で綾香の肩に触れた。
それが意外にも本当に母性に満ちていて、心配してもらった綾香は泣きそうになってしまったくらいだ。
「何かあったら先生たちに何でも言うのよ、力になるからね」
綾香は恐る恐る顔をあげてみる。
中川の二つの丸い眼がこちらを見つめている。“お姉さん”からは外れるかもしれないが、年齢相応の大人の色気を持った女性だった。
きっと神無月宮乃関東支部長も将来はこういう風になるのだろうなと、綾香は思った。
「ありがとう、ございます」
綾香はぎこちなく頭を下げて思考した。
あの夜屋上で風に乗って香ってきた香水の匂いが、彼女から感じられる。
間違いなく中川である。
ならば、この労わりは何なのだろう。
憐れみなのか、それともからかって楽しんでいるのか。はたまた本当に何も知らないのか。
綾香が混乱する中、そこに更に混乱要因が現れる。
学園長室に入って行く、齋藤真奈美を見つけた。
綾香と中川など一切無視をして学園長室の扉を叩き、中に入った。
中川はその様子を目で追っていたようにも見えたが、頭を下げていた綾香にはよく察することが出来なかった。
「職員室に何かご用なのかしら?」
「あ、いえ、もう済みましたから」
中川の自然な微笑みに、綾香は思わず早口ででまかせを言う。
「そう。その怪我のこともだけれど、何か人に言えないような問題があったら、是非頼ってちょうだいね」
中川は正体不明。綾香の至った結論は今の所まだそれだけだった。
中川は学園長室に入って行ったし、確かに学園長側ではあるのだろう。しかし本当に恐喝を行うような人なのか。
そして同じく学園長室に入って行った齋藤真奈美とは繋がりがあるのか。
ただ、あの母性は本物だったと思う。
母の愛に恵まれて育った綾香には分かる。あれは人を愛したことがある女性の慈しみ方だった。
その後、会話の流れ的に立ち去らざるを得なかった綾香は、トイレの個室で海一にメールを打っていた。
『昼休み。中川、学園長室へ。出てきた後に齋藤、学園長室へ。二人のコミュニケーションはなし』
海一からのメールの返事は早く、
『了解。齋藤、学園長室入室後退室までをマーク。滞在時間約十分。会話は盗聴出来ず』
と、綾香の携帯に届く。どうやら海一も近くで張っていたようだ。
トイレの個室に入っていると、色々な人の会話を聞くことが出来る。
特に女子生徒は複数名でトイレに行くから尚更だ。
どうでもいいことから少し気になることまで。皆はトイレを完全なる密室だと勘違いしている。と、いうか、完全な密室などありえないのだと綾香は思っていた。どんな場所にも壁に耳あり障子に目あり。
早速、それを象徴するような会話を耳にする。
「ねえ。川崎さんの吊ってる腕って、やっぱり、あれですわよね……」
どこか聞いたことのある声だった。恐らくクラスメイトだろう。
「ちょっと、およしになって。どなたがきいているか分かりませんわ。何もなかったように振舞わないと、今度はわたくしたちが……」
焦ったように友人の言葉を止めるもう一人の女子生徒。
やはり教師だけでなく生徒の間でも、暗黙の了解で綾香の怪我については触れないようになっているのだろう。
綾香の傷への憐れみは、イコール怪我を負わせた人間である齋藤を責めることにつながるのだから。
「そういえば、五組の神無月様ってご存知?」
その女子生徒は制止にも応じず言葉を続けていた。
相変わらずの海一のモテっぷりはこれまでの各地の反応でもう慣れたが、この学校でのお嬢様口調による「様付け」はまるで王子様扱いのようで、やはり気に食わない綾香であった。
「え、ええ。そういえば退学だか停学だか……」
「川崎さんと同じ日に学校にまた登校し出したんですのよ。噂じゃあ川崎さんのあの怪我が原因で、神無月様は停学処分になったとか」
妙に鋭い噂だった。
今まで海一とは学校では他人のふりを貫き通し、夜に二人で会う時も細心の注意を払っていた。やはり原因はあの怪我をした日のことだろう。
海一が鍵のかかった家庭科室のドアをぶち破ったところを見ていた生徒もいたというし、何より相手の三年生がしっかり記憶をしている。そしてエレベーターで綾香を背負って運んでいる時も、いくら授業中とはいえ誰にも見られていないという確証はない。
ちなみに綾香を襲撃した三年生男子たちは今も平然と学校に通っている。変わらず優等生として。
綾香は思わず舌打ちをしたくなる
「ちょっとお待ちになって」
友人の言葉にハッとする女子生徒。
「じゃあ川崎さんは、神無月様と何かしらの関係にあるということですの?」
「女子の間ではもっぱらの噂ですわ。あまり好感持てませんわね、川崎さん。せっかくこの学園に美形の殿方が来たかと思っていたら、同じ時期の転校生だからと言って取り入って……」
そう言う女子生徒の言葉には棘が多々あった。綾香はそれを聞きながら何とか息を殺していた。
「じゃああの怪我もきっと、嫉妬からきたものなのかしら」
「恐らく……。あのお顔で神無月様とお並びになろうなんて考えるからいけなかったんですのよ」
綾香がキレて個室を飛び出る直前に、彼女たちは出て行った。
綾香は肩で息をしながら、彼女たちが居なくなったあとを睨みつけた。ふと鏡を見つめれば、醜く獣のように怒り狂った自分が居て、ふいに悲しくなる。
違う、私はこんなんじゃない、と綾香が自分に言い聞かす。
彼女たちのような人の会話を聞いてしまうと、この学園を助ける気も失せてしまう。綾香だって聖人君子ではない。被害にあってしまえと、自分の中の悪魔が囁くのだ。
綾香は首をブンブン横に振って大きく息を吐いた。
こんな人たちばかりじゃない。いじめられていた今泉のことを思い出し、私がやらなくてはならないという気持ちを何とか取り戻すと、トイレから出て次の授業へと向かった。
放課後。海一は今聞いたその会話に思わず耳を疑った。
地下駐車場にて、遅い時間に帰りの迎えの車を待つ齋藤を張っていたところ、宇津田も現れ、二人きりの会話が展開されていたところだった。
どうやら付き合っているらしいという噂は本当らしく、お互い下の名前で呼び合って親しげにしている。
齋藤を一日中張っていた海一は、彼女の様子がおかしいことに気がついていた。
綾香は彼女を女王様のように言うが、彼女はどうも脅えを抱いているように見えるのだ。
いじめを行っている現場は今日のところは目撃しなかったが、今になって重要な会話を耳にした。
「ねえ……。あのこと、いい加減どうにかして」
すがるような口ぶりでそう言う齋藤は、切実という言葉に背を押されているようだった。
言われた側の宇津田は、面倒臭そうに後頭部を掻く。
「なんだよ、もうその話はするなって言ったろ」
宇津田の言葉にショックを受けたのか、齋藤はその吊りあがった目を大きくさせて大声を出した。
「あたくしが学校にこれなくなってもいいっていうんですの!?」
「うるせえな、他の奴らに聞かれたらどうするんだよ」
迷惑そうに宇津田が周囲を見回す。齋藤は相変わらずじっと宇津田を見つめたままだった。
「あたくしたち、付き合ってるんじゃないんですの……?」
海一からは彼女の顔は確認出来なかったが、涙目になっているだろう声をしていた。
高飛車でいじめっ子、学年のボスの彼女という肩書きを持つ女子とは思えない態度だった。
「嫌だったら別れたらいいだろ。面倒くさいんだよ、親父たちの金うんぬんの話は。俺には関係ねえよ」
「明良には関係なくてもあたくしが関係してるんですのよ! あたくしは貴方の恋人ですのに、関係ないだなんて……」
弱々しくなっていく語尾。
宇津田は面倒臭くて話を終わらせたい様子だ。
対して齋藤は本当に助けて欲しいから訴えているのに、彼の態度にガッカリしているのだろう。
しかし、ここまで齋藤を怯えさせるものとは一体。
海一は聞き耳を立てつつ目を細めて思考していた。
「ねえ、お願いしますわ。もうこんな脅迫を繰り返す日々はこりごりですの。明良の力で彼女を止めて」
彼女? と海一は脳内で繰り返した。一体、誰のことなんだ。
宇津田は面倒そうに、早く迎えの車が来ないかと遠くを見つめていた。
きっとこの二人が付き合うことになったのも、齋藤が告白し宇津田が断るのが面倒で承諾したに違いないと海一は推定する。
「ねえ、明良!」
齋藤は宇津田の片手を両手で取って懇願する。
「お願い。もう残っているのは私の所だけだって言うんですの」
「俺は親の話は知らねえって言ってんだろ!」
宇津田はその手を振り払って齋藤を怒鳴り付けた。親関連の話をされることがそんなに嫌なのだろうか。
「献金だか何だか知らねえが、好きな側にしてもらえばそれで済むんだろ? だったらそうすればいいだろ、家が金持ちなんだからよ」
齋藤は宇津田の態度に言葉を失いながら、かろうじて声を絞り出した。
「そんな簡単に言ってくれますけれど、献金の額がいくらかご存知ないんですの? それにあたくしにはどちらに献金するかなんて選択の余地はないんですのよ」
ついに、感極まってぽたぽたと涙をこぼす齋藤。それを無表情のまま見つめる宇津田。
「お願いですわ、彼女を止めて……」
震える彼女の声に、宇津田は口を真一文字に結んでいた。
「今泉 麗を、止めて」
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