10

「海一は、私の家族のかわりになろうとしてくれたんでしょう?」


 海一は視線を逸らしたまま、ためらいがちに小さく「ああ」とうなずく。


 綾香は笑顔になって、


「最初からそう言ってよね」


 と言う。

 すると。


「違うんだ」


 海一が即座に言葉を返した。

 そしてそれと共に、二人はばっちり視線が合う。


 その彼らしくない焦り方や強引さに、綾香は思わず目をぱちくりさせた。


「……俺はお前と違うから、言葉が真っすぐ伝わらない。憐れんでいると勘違いされたくなかったんだ」


 海一は悩むようにして視線を床に落としたり、脇を見やったりしながら話す。


「お前のことを可哀想だなんて思ってない。綾香が抱える気持ちは俺なんかじゃ分からない。ただ、お前の空白を埋めるだけの感情を俺は持ち合わせていた。そういうことなんだ」


 慎重に選ばれた彼の真剣な言葉を一つ一つ丁寧に聞き終えると、綾香は吹き出すように笑った。


「言葉、真っすぐ伝わってるじゃない」


 綾香の言葉に海一は彼女の瞳を不思議そうに覗きこんだ。


「そうやって、たどたどしくたっていいから、全部思いついたことを話してくれたら私は受け止められるよ。簡単な言葉で済まそうとして、自分の心に仮面をつけないで。……いいえ、むしろ逆なのかしら、自分の心に仮面をつけるために簡単な言葉で済ましてる」


「……俺のつたない言葉になんて、誰も耳を傾けない」


「私が聴く」


 綾香は彼のセリフをさえぎる早さで断言した。


「私も海一を憐れんでなんてないよ。ただ私は、“神無月海一の言葉”が聴きたい。気持ちが知りたいだけ。それは勿論浮ついた感情なんかじゃなくて、海一がしてくれたように、家族のようなものよ」


 海一はただ、眼鏡越しに綾香を見つめていた。


 彼女の長い黒髪が絡まっているのを見つけ、少し悲しい気持ちになった。乱れてしまった、彼女の自慢の艶やかな髪。


 しかし彼女はどんな暴力に晒されても、その瞳の強さと気高さを失っていなかった。

 自分の知るある人にどこか似ているなと、海一は心の奥で一瞬思った。


「知っての通り、私が小学六年生の時。卒業式を間近にして、私の両親と妹は交通事故で他界したわ。その時に現れたのがSSのスカウトマン。両親は駆け落ち同然の結婚だったから、どちらの親戚にも身寄りが無くて。そんな私の衣食住、そして教育までもサポートをしてくれるという彼らに、私は協力するという選択肢しかなかった」


 夕陽は既に落ち、早起きの星たちがきらめき出していた。都会のビル街ではなかなか見ることが出来ない星。

 都心からほんの少し離れるだけでこんなにも空が違う見え方をするのかと、海一は思い知らされる。


 それを自分たちに重ね、目の前に立っている綾香も、立っている位置がほんの少し違うだけで、自分とは見え感じている世界が大きく違うのかと考えていた。


「でもね、違うの」


 綾香は海一の思考をも一刀両断するような、強い決意を伴った言葉を発する。

 海一は彼女に視線を奪われる。


「私はSSになりたかった。正義感とかそんなんじゃないの。誰でもいいから、誰かに必要とされたかっただけ」


 綾香は深呼吸してから、再び海一を見つめて微笑んだ。


「これが、私の気持ち」


 闇に落ちつつある病院の屋上で、二人の影が闇へ溶けていく。


 海一は自分に送られた彼女の真っすぐな気持ちに目を細めていた。


 が、その時。

 海一が異常に気付いて声を上げた。


「おい、お前、点滴の管!」


 綾香が「へっ?」と点滴の管を目視で確認すると、なんと血が逆流していた。


「ぎゃーっ!」


 今にも卒倒しかねないほどの悲鳴を上げる綾香。その悲鳴はまたしても濁点のついたものだった。


「馬鹿か、さっき手をあげたときだろう。胸より高い位置に注射箇所をあげるなときつく言われていたのに」


 海一はパニックになる綾香の背中に手を添えて、屋上から降りるようにうながし、手伝った。そして急いで看護師を呼び出して、点滴の逆流を治してもらった。


 海一は先程の独白に反して、思ったことを思ったままに、十分感情に突き動かされて動いていた。

 そう、誰でもない、自分の今一番そばにいる人物の為に。それにまだ、本人が気づいていないだけだった。





 そして綾香が入院してから五日がたった朝。海一と綾香はSS本部に呼び出しを受けた。


 体を気遣い必死に止めた海一や、あからさまに嫌な顔をする医師の説得の甲斐なく、綾香も無理を押して共に本部へ向かうことになった。


 左腕はギプスをはめ完全固定して吊ったままだったが、綾香は自分の足でしっかり歩いた。


 今日は制服ではなく私服で向かう。

 なぜならSS本部は普通のオフィスビルを数フロア借り切ったところにひっそりとあり、特定の学校の制服の学生が出入りをしていたら怪しまれてしまうからだ。


 綾香は着脱しやすい長袖のワンピースにスプリングコートを羽織り、海一は動きやすいパンツに厚手の一枚パーカーを重ねていた。


 目的地には、電車や地下鉄を乗り継いで二時間ほどで辿り着いた。病院が都心から離れていたことや、本部のあるビルが駅から少し距離のある場所だったこともあり時間がかかった。

 しかし、海一が居て遅刻などありえない。


 呼び出された時間十五分前ピッタリにはビルの前に到着していた。


 この時期は昼だともう春のように暖かい。綾香はその日差しにコートを脱がされ、結局海一が持つはめになっていた。


「藍季学園よりボロいんじゃないの?」


 と悪態をつく綾香を黙殺して、海一は中へ進んでいく。


 中は確かに高級なイメージとはかけ離れていたが、シンプルで清潔感があり、十分立派な建物だと言えるだろう。綾香は華美な藍季学園に慣れ過ぎてしまったのだ。


 海一がフロントで受付嬢にうながされた通り来訪帳に名前を書き、更に指紋を取らされる。そして入室許可証兼カードキーとなるカードホルダーを首から下げる。綾香も同様にそれを真似た。


 綾香からすると、海一は随分とここに慣れているように見える。


 それもそうか、と色々と考えた後に綾香は一人で納得した。


 借り切った数フロアの中では一番上に当たる階に、エレベーターを使ってのぼる。大した階数ではなかったのだが、綾香の腕を心配してのことだった。


 各部屋に部署名を示すプレートがないのが綾香には不思議に感じられた。そして怖いくらいに人気が感じられないのだ。

 それも何もかも、文科省直轄とはいえこの団体が「秘密組織」だからこそだろうか。


 海一は迷うことなくある部屋の前で立ち止まった。そこにも部署を示すプレートなどはない。


 海一は腕時計に目をやる。丁度五分前。


「携帯の電源を切れよ」


 海一は綾香に小さく注意する。

 綾香は「分かってるわよ」と言わんばかりに既に電源をオフにした携帯を、ぐいと海一の目の前に差し出した。


 そして、


「中に居るのは一体誰なの?」


 と小声で尋ねる。


「SSのお偉いさんだ。お前に役職を言っても分かるまい」


 そう言いうやむやにしたが、海一は中に居る人物が相当なランクの重役だということを分かっていた。


 普段からSS本部に呼び出されることなどほとんどない。ましてやこんなレベルの人間に呼び出されることは過去初めてだった。

 それだけ事態が深刻だと言うことだろう。そういう意味でも海一は綾香を連れて行くのを拒んだのだ。


 二人はしばらくの沈黙の後、時計が丁度の時間を打ったのを見て扉をノックした。


「入ってよい」


 と、中から大人の男の低い声がする。かなり年のいった男性だろうと綾香は推測した。海一は相手の顔を既に知っていたのだが。


 海一が扉の脇のカードリーダにカードをかざすのを見て、綾香もそれを真似ようとしたが、そうせずとも扉が開き二人を中へ招き入れた。


 中は藍季学園の教室の半分くらいの広さだったが、そこに机は一つしかなく、大きなチェアに一人の男性が座っていた。机上に両肘をつき、手を組んで。


 きっと相当年配の人なのだろうと思っていた予想に反して、細身で鋭敏そうな顔立ちの、自分たちの父親より少し上ほどの男性だったので、綾香は少し面食らった。

 白髪など一本もない髪を7:3に分け、整えられた髭を鼻下にたくわえた男性で、洒落たスーツをきこなしている。


 部屋には机の他、資料ファイルの沢山納められた本棚がびっしりと壁を埋めている。


 ここは恐らくこの男性の専用の部屋なのだろうと綾香は推測した。

 一体この人はなんの担当なのだろうとキョロキョロとファイル名を盗み見てしまう。SSの悪い癖だ。


 綾香が中に入ったのを確認すると、海一はドアを閉め、男性に向かって一礼した。それを見て綾香も慌てて頭を下げる。


「川崎綾香。身体の具合はどうだ」


 綾香は「大丈夫です」と大きな声で返事をしようとしたが、それより早く海一が、


「お陰様で、回復の経過は良好です」


 と、いかにも社会人との会話らしい言葉を返す。


 海一を視界に入れたらしい男性は、フンと彼の言葉を無視するように鼻を鳴らした。


 それを見た綾香は、この男性が海一に良い感情を抱いていないことをすぐに理解した。

 思えばこの男性の目つきは、獲物を見つめる肉食獣のようである。


 海一とこの男性は初対面ではないのだろうと、綾香は察した。


 海一が綾香に話していないことは多い。

 それは彼が話したくないからなのか、それとも彼が上手に話せないのか、話すつもりがないのかは、綾香には分かりかねたが。


 だが、この場所やここの人々に海一が慣れているのが不思議でない理由は、綾香はよく分かっていた。


 男性が口を開く。


「今回君たちが担当している私立藍季学園の調査だが、任務はここで打ち切りとする」


 彼の言葉に綾香は耳を疑った。思わず身を乗り出して「どういうことですか?!」と、反射的に尋ね返してしまう。


「どういうことも何もあるかね。五日前の事件についてだが、川崎綾香を襲撃してきた男子生徒三人のうち一人が、神無月海一に返り討ちに遭ったことを逆手にとって学園側に訴えを起こしている。事件がどうあろうと普段は素行の良い生徒たちだ。保護者も激怒して謝罪を求めてきた。親を出して直接話し合いをさせろとまで要求された」


「親を?!」


 綾香は目を見張った。


 なぜなら、海一の親は。


 綾香が海一を見上げようとした瞬間、男性は言葉を続けた。


「まさか本当の親など連れださせるはずはない。特にお前の場合はな」


 と言って海一を一瞥する。

 海一がどこを見つめているのかは、綾香からはうかがえなかった。


「転入の際に使った偽の両親役に、大金を持たせて謝りに行かせたよ。そして学園側への対応として退学を申し出た。それはもう既に受理されている」


「そんな! あと少しで解決しそうな事件なんですよ?!」


 あまりに驚いた綾香が感情的に声を上げる。


「あと少しで解決しそうな事件の調査を滅茶苦茶にしたのはお前たちだろうが!」


 男性が強い口調で牽制してきたので、海一は綾香の前にさりげなく腕を出してかばうようにし、無言で「黙るように」と伝えてきた。


 綾香は悔しいながら口を結ぶしかない。


「確かに任務上でのトラブルで戦闘になったのかもしれない。しかしその後の対応や経過はひどいものだ。神無月海一が暴力的に家庭科室のドアを破壊するのを見た生徒がおり、血のついた家庭科室で倒れている三人を見つけたのは次の授業で集まった複数の生徒たちだ。学校中大騒ぎで、生徒三人はそのまま救急車で運ばれた。気は失っていたものの幸い軽傷で済んでおり、金と退学を条件に警察沙汰にしないことを偽の両親役に約束している」


 男性が言うことはひどく事実に忠実で、海一は何の反論も出来なかった。


 綾香はというと、自分の知らなかったことが次々明らかになり、海一がそれだけのことを一人で抱えていたことにショックを隠せなかった。


「お前たちにこの任務はまだ無理だったのだ。一年生の終わりにもなって情けない。二年次になっても一年生と変わらない任務をやらせるしかなさそうだな」


 男性は二人を交互に見て、挑発するように舌打ちをした。


 そして男性はおもむろに立ちあがって海一の前に立った。海一はその歳にしては背が高いだろうが、やはり大人の男性が並ぶと小さく見える。


「そもそもお前にはSSなど務まらないのかもしれないな。お前はどうせ親の憐憫でSSになった身だ」


 海一は男性と目を合わせようとはしなかった。感情を見せず、口を一文字に結んで黙っていた。


「お前は神無月長官の正式な息子でない。長官はお前の置き場所に困ってSSに任せたんだ。捨てられた妾の息子が神無月の姓を名乗って、本当に生意気だと心から思うよ」


 男性の嘲笑が部屋に響き、反論できない海一の握る拳に力が入った時。


「彼を侮辱するような真似はしないで」


 両腕を広げて割って入ったのは、誰でもない綾香だった。


 海一は相変わらずの無表情であったが、自分をかばう綾香の細い背中を見た。


「お偉いさんだかなんだか知らないけど、人間はみんな同じだけの心とプライドを持ってるのよ。子供でも大人でも関係ない。あんたにも、無論誰にも、人のことを馬鹿にする権利なんてものはないわ」


 綾香の鋭い眼光に対抗するように男性が目を吊り上げて睨みつける。


「私が誰か分かっているのかね。SSのほんの一構成員であるお前が、私に意見していいとでも思っているのか?」


「あなたみたいなのが上にいるって知ってたら、こんな組織とっくに抜けてたわよ。末端を大事に出来ない人に指図なんてされたくないわ」


 男性の額に血管が浮き始めるが早いか、海一は綾香の前に出た。


「失礼しました。私のパートナーには後できつく言いつけておきますので、どうかお許しを」


 深く頭を垂れる海一にも綾香は食ってかかる。


「海一っ! あんたもそれでいいわけ?!」


 海一は綾香を片手で制して、「いいんだ」と無言のメッセージを送る。

 綾香は不愉快そうに唇をへの字に曲げた。眉間には深くしわが刻まれている。


 男性は「フン」と踏ん切りをつけるように二人から目をそらす。


「不愉快な二人だ。とにかく何を言ってももう任務は打ち切りだ。お前らはすぐに今のマンションを出る支度をしろ。別の任務に異動だ」


「待ちなさいよ! 事件はあと少しで解決だって言ってるじゃない!」


 大声を出す綾香に男性は、


「……頭が悪い子供は嫌いだ。お前たちにはもうこの任務に関われる資格などない。既に退学処理は済まされていると言ったはずだ」


 と、低い声で淡々と答えた。


 綾香が唇を噛む姿を、海一は視界の端でとらえた。

 そして己を責めた。自分があんなに取り乱しさえしなければ。もっと冷静に対応出来て、二人で連携が取れていればこんなことにはならなかった、と。


 その時だった。


 ピッとカードリーダーのセンサーが反応する音がして、一人の女性が室内に入ってきた。


「失礼いたします、田辺部長」


 澄んだ、芯の強い声。

 三人が彼女を見つめる。

 海一はハッとしたように一瞬ピクリと体を動かした。


 細い眼鏡をかけた、腰まである長髪を持つ、綾香たちと年齢がそう遠くはないであろう女性。背は高く、膝までのスカートにブーツを合わせ、上はセーターを着こなしている。体のラインから、年齢にかけ離れてスタイルが良いことが分かる。意思の宿る瞳を囲う目は切れ長で美しく、白く整った顔に赤い唇と共にバランスよく乗っていた。


「神無月 宮乃(カンナヅキ ミヤノ)です」


 思わず綾香は海一と彼女を交互に見た。

 確かに顔の作りが似ている。眼鏡越しの瞳、通った鼻筋、シャープな輪郭、色白な肌、細身の長身。何よりトータルで美形なところだ。


 綾香は理解した。彼女の正体を。


「SS関東支部長、神無月宮乃か。面会中に断りもなく立ち入るとは無礼ではないか?」


 男性がゆっくりとした動きで自分のチェアに戻って、どっぷりと腰を沈める。


 神無月宮乃と名乗った美しい女性は、コツコツと足音を立てて男性の机の前へ立った。


 身長的には海一とそう変わらない。綾香と海一に背を向けるように立ち、口を開いた。


「神無月海一、川崎綾香ペアの任務は続行が決定いたしました」


 その場にいた全員が彼女に視線を注いだ。


「何を言っているんだ、私の報告書にはこいつらの任務は解任だと……」


 慌てふためく男性に向かい、神無月 宮乃は追い打ちをかける。


「長官のご指示です。それから、私の部下たちを“こいつら”呼ばわりするのはお控え下さい」


 迷いのない真っすぐな言葉と姿勢に、男性は思わずたじろぐ。


「任務は明日から再開です。川崎綾香の早期退院許可も特例で下ろさせました」


 悔しさに顔を真っ赤に染めた男性は、衝動的に手元の資料を半分に千切った。言葉にならない声と紙が千切られる音が室内に響く。

 大人げないその行動を、三人は冷たい視線で見つめていた。


「長官の娘だからといって生意気を言ってられるのも今のうちだ」


「あなたも、偉そうにその椅子に腰かけていられるのも今のうちかもしれませんね」


 宮乃は微笑み一つなくそう言い放つと、海一と綾香についてくるように促し、部屋を出た。


 ドアが閉められると、男性は「クソッ!」と大声を出して机を叩きつけた。

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