海一は家庭科室のドアに鍵がかかっていることが分かるやいなや、助走をつけてドアを体当たりで破壊した。その破壊力はすさまじく、たった一度でドアがバリバリと音を立てて壊れた。


 彼は細身だが背は高く、SSとしてしっかり活動できるよう訓練され鍛えているため、いざというときの瞬発力や筋力は並みの学生とは比べ物にならない。


 ほとんど転がり込むようにして飛び込んだ家庭科室。気を失った綾香に男子生徒がバットを振りかざそうとしていた、まさにその瞬間だった。


 男子生徒は海一の登場に驚いてその腕を止め、彼を凝視していたが、綾香は一切動いていない。


 海一はそれを瞬時に確認すると、素早く男子生徒に近づいて思い切り顔面を殴った。


 予想外の闖入者に呆気にとられて動けなかった男子生徒も、その一撃でようやく我に返り、


「邪魔すんじゃねぇ!」


 と叫んでバットを振りかざす。


 しかし海一はその全てをかわし、瞬時に彼の懐に入り込むとその巨体を背負い投げた。


 男子生徒は受け身も上手に取ることが出来ず、痛みにうめいている。


 海一はそのバットを拾い上げると、彼らがつかむ危険のない場所であろう部屋の奥へと投げ置いて、綾香に駆け寄った。


「綾香!」


 彼女の頬に軽く片手を添えるが、反応がない。


 焦りながらも救命救急のステップを踏み、海一は彼女の耳元で大きく名前を呼んで、何度も肩を叩く。


 すると綾香は、短く細い悲鳴を上げて意識を取り戻した。


 海一はその痛みようから彼女の左腕の負傷を知り、


「すまない」


 と、謝ってからもう一度、


「遅れてすまない」


 と、綾香の前で頭を垂れた。


 言い訳などしない、海一の取り乱したような表情。綾香はその必死さをしっかりと理解していた。


 しかし、全身の痛みで今はそれどころではない。


「謝るのは、後で、いいから、病院に……」


 綾香が切れ切れになりながら言葉を発すると、海一は元の機敏さを取り戻し、


「分かった、とりあえず撤収だ」


 と、手を貸して、何とか彼女を立たせた。


 けれど彼女は痛みでまともに歩くことが出来ず、結局の海一におぶされた。左腕はだらんと伸びたままで、右腕を海一の首に巻きつけて。


 階段移動の振動の多さを懸念して、エレベータを使用する。


 幸い昼食後の五時間目の授業が始まっているおかげでエレベーターには誰も居なかったが、こんな姿を見られたらどう言い訳をしてよいか見当もつかない。


 海一は携帯電話を取りだしてSS本部に救援要請をしようとしたが、その時自分の手を見て絶句した。


 血が、ついていた。


 綾香の体を支えるその手が赤く染まっていたのだ。海一はその掌をじっと見つめたあと、ぐっと拳を握った。


 地下一階の駐車場まで下り、救援を待つことに。

 SS本部へ連絡をした海一は、綾香の今の状態を手早く説明した。


「海一……、ごめん」


 電話を切った彼に、小さな震える声で綾香が言う。


「傷に障る、話すな」


 海一が制するも、言うことを聞く綾香ではない。朦朧とする意識の中で話し続ける。


「齋藤に、呼び出されて、行ったら、男たちに……」


「あとで聞く」


「スタンガンは、使ってないよ」


「そういう時こそ使え、お前は馬鹿だ」


 海一が珍しく感情的になって怒っているのを見て、綾香はおかしげに少し口元をゆるめた。


「だって、使ったら、任務出来なくなっちゃうじゃない。私、この問題、解決したいよ」


 彼女がまばたきをするたびにわずかに白眼をむくのが、海一はとても気になっていた。強引にでも黙らせないと駄目だな、と思った。


「分かった、分かったから今は静かにしていろ。頼むから。お前は今、自分が思っているより酷い状態だ」


 手についた血を隠したまま、海一はなるべく優しく説明するように言った。


「やっぱりそうなんだ……。さっきからね、目の前が暗いの。明るかったはずなのに。あと、目まいと、吐き気と、ぐるぐるして……」


 また沢山喋り出したところを海一が制しようとした刹那、綾香は糸を切られたマリオネットのように、目をふせ脱力し、パタリと動かなくなってしまった。


 海一は自分のブレザーを脱いで彼女の体にかけてやり、早く救援がくることをひたすら祈った。


 この時間帯、駐車場には滅多に人は来ない。

 しかし念のために奥に隠れていた二人を、SSの救援部隊はすぐに発見し、車に二人を乗せてSS提携の病院へと搬送した。





 綾香は頭を縫うほどの怪我を負っていた。


 あれから二日間昏睡状態に陥り、脳しんとうが深刻なことから、目覚めた後にすぐに体が動くことは奇跡に近いだろうと担当医師に言われていた。


 だが、そんな不穏な予測にも関わらず、目覚めた綾香は大胆にあくびと伸びをして、左腕の痛みに鈍い悲鳴をあげたのだった。


 左腕にはやはりヒビが入っており、ギプスの着用を余儀なくされた。


 綾香は、ギプスをしたまま任務は出来るのか、学校は今どうなっているのかなど気になっていたが、海一も二十四時間付きっきりで綾香のそばにいたため、それに答える術はなかった。


 加えて、海一には懸念事項が多々あった。


 まず、家庭科室のドアを明らかな暴力により破壊してしまったこと。それからそれを何のフォローもなく放置してしまったこと。


 冷静さを欠いていたが故、自分が力づくで破壊したところを誰かに見られていたかもしれない。


 そして二人が居なくなったあと、気絶した男子生徒たちが血のついた教室に倒れているところを、誰かが発見していたのなら。


 何より彼らが学校側にどんな報告をしたのか。彼らの親はどう出るのか。


 海一はその前後のことについて、綾香に一切話していなかった。

 綾香は強く聞きたがったが、その度に「治療に専念しろ」と言い聞かせていた。


 綾香は彼を信頼していたからこそ、そう言い切られてしまうと押し黙るしかなかった。





 綾香が入院してから四日目。


 沈みかけの夕日が照らす病院の屋上で、海一は一人空を眺めていた。


 都内でも郊外にあるこの総合病院はSSと協力関係にあり、任務時に不慮の事故に遭った学生などを理由を訊かず受け入れてくれる。


 無論、そのために文科省から少なくはないお金が流れているのだが。

 何も探ることなく、守秘義務を遵守し、公にせず治療をしてくれる機関は、SSには絶対に必要だった。


 海一は遠い山の端に滲む夕陽に目を凝らした。


 夜風へと変わりつつある初春の風は、こんな日ばかりはゆるやかで、彼の全身を包み込んでいた。


 風がどこで始まりどこで終わるのか。海一はふと、久々に田舎の匂いを連れてきた風に思いを馳せた。


 きっと綾香なら、「私の感じる風なんて、私が歩くから生まれるんだわ」と訳の分からないことでも言うのだろうと思い、心の中だけでふっと小さく笑った。


 眼鏡を外してみると、夕陽と山の境界線などほとんど見えない。

 非常に視力が悪い彼の裸眼では、夕陽の場所すらおぼろげだった。


 鳥や犬がどこかで遠く鳴いている。大きな雲が動いて見える。

 しばらくずっと大都会のビルに囲まれた生活をしていたから、こんな風景や空気は久々だった。


 海一は今の気持ちを言葉にしてみようとしたけれど、直接的な感情を表わす言葉は出てこなかった。


 思うように感情をストレートに出せない自分に、悲しささえ覚えた。


 綾香が羨ましいと思った。感じたことを感じたままに言える彼女が。感受性が豊かで、瞬時に切り替わるようにころころ笑ったりへそを曲げたり、表情にあふれた彼女が。


 いつからだろう、自分が思ったことを思ったままに言えなくなったのは。


 感情で動けなくなったのはいつからだろう。

 というより、自分が感情で動けていたことなど今まであったのだろうか。


 海一は眼鏡を片手にぶら下げたままじっと、空に溶ける橙色を見つめる。


 綾香が入院してからというもの、意識を取り戻すまで海一は片時も彼女のそばを離れなかった。

 広い個室にはもう一つ簡易ベットを借り同室で眠っていたし、彼女が少しでもうめこうものなら夜中でもすぐにそばに寄った。


 これは彼女へ恋愛感情といったような薄っぺらいものではない、と海一は自覚していた。


 これは。


 そう心の中でつぶやきかけた時、海一は夕陽の眩しさに背を向けた。


 病院内へ繋がる階段から、「ぎゃっ!」という鈍い悲鳴を聞いたからだ。


 海一が不思議そうに眉間にしわを寄せる。


 屋上のドアから転がるように飛び出てきたのは、パジャマ姿の綾香であった。眼鏡をかけていなくたって分かる。


 海一は駆け寄って彼女を叱った。


「馬鹿、冷えるぞ。それにどうやってこの階段を上ってきた。エレベーターはここまで届いてないだろう」


 綾香が杖代わりのようにして握っている点滴を示して、ハッキリこう言う。


「こんな階段くらい、ガッツでのぼれるわ」


 綾香はギプスをしていない右腕で小さな拳を上げるが、そちらには点滴のチューブの針が刺さっていることを思い出し、慌てて引っ込めた。


 入院するほどの大怪我を負っても全く変わらぬ彼女に、海一はため息をつかずにはいられなかった。


「お前は本当に馬鹿だな。それから女子が悲鳴に濁音を使うな、キャにしろ、キャ」


 海一が額に片手を添えて呆れて見せると、綾香は軽く頬を膨らました。


「あんたは私に何回馬鹿って言ったら気が済むわけ、この海馬鹿」


 時々、綾香はよく分からない悪口を編み出す。


 海一は深く勘ぐって海馬か何かにかけているのかと一瞬思ったが、この綾香がそんな高等なことが出来るはずないと、すぐに考えるのをやめた。


「いいから部屋に戻れ。じきに夜になる、もう既に風は冷えている」


「海一、何で眼鏡してないの?」


 綾香は海一の言葉を一切無視して、きょとんとした表情で問いかける。


 そう言われて裸眼だったことを思い出した海一は、眼鏡をかけ直す。


 くっきりと綾香の顔が見え、彼女の顔や鎖骨あたりに残る傷跡が痛々しかった。


「考え事してたんでしょう?」


 綾香がいたずらっぽく笑いながら、鎌をかけるかのように尋ねる。


「うるさい、お前には関係ないことだ」


「あ、うるさいって返す時は図星の時だわ」


「……うるさい」


 海一は顔を背けて腕を組んだ。


 綾香はその様子を見てちょっと勝ち気になって、ニッと笑った。

 そしてその後、柔らかい表情に戻って言葉を発する。


「お礼を言いに来たの」


 海一はその言葉に、再び彼女と視線を合わせた。


 綾香はうっすらと微笑みをたたえている。


「私の意識がなかった時、海一が四六時中ずっと付き添ってくれてたって、看護師さんたちから聞いたわ」


「SSのパートナーとして当然のことだ」


 彼のの即答に、綾香は首を横に振る。


「違う。分かってるくせにどうしてそうやって嘘をつくの? 私の為でしょう?」


 じっと瞳を見つめてくる綾香に、海一は視線を逸らした。


 感情をストレートに出せないという、先程の独白を思い出していた。


 誤解されそうで怖いのだ。だから無難な答えをいつも選んでしまう。


 海一はそれらを考慮した上で、言葉に気をつけながら言う。


「別に、お前を憐れんだわけじゃない」


「憐れみだなんて誰が思うっていうのよ。ありがとう、って言ってんの」


 自分より背の高い海一を見上げるようにして、綾香は真剣に言った。


 二人の間を風が通り抜けて行く。

 それは冷たい風で、病室でしか活動しない綾香のパジャマ姿ではとても寒いだろうに、震えも見せずに海一の端正な顔を見つめていた。


「私に、家族が居ないからでしょう?」


 綾香は夕陽の眩しさからか、目を細めて海一に言った。

 口調は尋ねているが、明らかな確信を持っている響きがあった。

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