5
思考を巡らす綾香と海一。
その時ふとひらめいた綾香が海一の耳元に口を寄せた。
「ねえ、おかしくない?」
海一が視線だけで「何がだ」と訊き返す。
「どうしてこんな時間に掃除夫がいるの?」
言われてみれば確かに、といった感覚を拭えない海一はすぐに思考態勢に入る。
こんな夜中に掃除夫が学園内をうろうろしていることは普通ではないだろう。自分たちでさえセキュリティを強制的に止めて動いているのだ。
だとしたら、あの掃除夫は何をしていたんだ。このセキュリティだらけの学園をどうして自由に移動していたのだ。
海一の目が細められる。
「よし」
海一は小さく呟いてから、綾香に「一芝居打つぞ」とささやいた。そして足音をドンドン立てながら、普通に歩くようにして階段を下って行った。それはまるで「気づいて下さい」と言わんばかりの主張の激しい歩き方だった。
「ちょっと!」と注意しかけた綾香だったが、口を結んで追従することに決めた。今はもう海一の作戦に乗るしか手はないのだ。
綾香も同じようにしてドンドンと足音を立てて階段を下って行く。
そして案の定、二人に気づいた掃除夫がその足を止めたのが分かった。綾香は自分の心臓の高鳴りで呼吸がしにくいくらいだった。
海一が掃除夫の前で立ち止まる。
帽子を深くかぶった掃除夫は近くで見るとなかなか長身で、その背を猫のように丸めていた。帽子のつばのせいで人相はほとんど確認できなかったが、顎に剃り切れなかったような青いヒゲのあとがあり、手を観察すると肌の色が濃くまた割と年齢が上なのだと分かった。
対峙して最初に口を開いたのは海一だった。
「あれ? 何をされているんですか、用務員さん」
学校モードの海一になっていた。ここは海一に合わせるしかないと、綾香もきょとんとした顔をして見せる。
掃除夫は少し口ごもったように見えたが、
「君たちこそ、こんな夜中にどうしたんだい」
と低い声を返した。
「僕たちは理事長先生に呼ばれて、夜中に来るようにと言われたんです。その際には、夜はセキュリティシステムが作動しているから用務員用の通路を使いなさいと鍵を貸して下さいました」
海一は綾香が驚くほどすらすらと、作りたての嘘を言ってのける。綾香はなんとか海一と同じような表情を作りながら、彼が作り出そうとしている状態を理解しつつあった。
理事長がいま理事長室に居ることは本当だ。呼び出されていることは嘘になるが、この時間に学校にいる正当性はとりあえず証明できる。そして絶対に生徒が持っているはずのない用務員通路のカギを持っていることも一応成り立つことになる。
しかし、理事長にその事実を確認されたら終わりだ。夜学校に居る理由も、鍵を所持している理由も全て虚偽であるということが発覚してしまう。用務員ならば理事長と話す機会がないことはないだろう。
ただ、海一にはその懸念される事項が達せられないという自信があった。
それは、
「用務員さんは何をなさっているんですか? こんな夜中に」
ということだ。
掃除夫は海一の台詞に少し詰まりながら「ちょっと大事な忘れ物をね……」とごまかすように言葉を濁す。
そう、この掃除夫は今ここにいること自体がやましいのだ。だからわざわざ自分がその時そこにいたと証言しにいくような真似は絶対にしないだろうという自信が、海一にはあった。
それらが段々と理解出来た綾香は、この短時間に流石の頭の回転だ、と感心してしまった。
そして三人は黙って共に一階まで下り、用務員用の入り口を掃除夫が開け、掃除夫はそそくさと去って行った。
綾香は時計を確認する。完了予定時刻ギリギリに、なんとか無事潜入調査を終えることが出来た。
ほっと胸をなでおろす綾香に、海一が遠くを指差して言った。
「見てみろ、あの掃除夫。バケツを持ったまま出て行ったぞ」
掃除夫の小さな後ろ姿には、確かにバケツが握られていた。
深くかぶられた帽子のせいで分かりづらい人相を確認しようと必死だった綾香だが、バケツの中身にまでは注意が向いていなかった。
「まず、忘れ物を取りに来た用務員がなんでバケツを持つ必要があるんだ。それに、掃除夫が清掃場所にする忘れ物でわざわざ夜中に入り込んでまで取り戻そうとするものなんてあるか?」
綾香は「そうね」とうなずいた。
「バケツの中身は、後ろに居る俺でも見えないようにうまく持ち歩かれていた。あれは何か確実にやましいことがあるな」
二人はそのまま薄汚い裏口の通りを出て、賑やかな街を夜風に吹かれながら歩いていく。
制服姿の学生がこんな時間に居ても怪しまれないこの街は、すっかり退廃しているのだろうと綾香は思った。
学校があるにはあまりに都会すぎるであろうこの場所。目の前は車のヘッドライトとテールライトの星たちが輝く大通りが横たわり、周囲には飲み屋だっていかがわしげな怪しい店だってすぐ近くにある。繁華街の中心地に位置する利便性は、このような弊害を生み出していた。
二人は肩を並べて歩き、しばらくしてその天の川の賑わいが減ってきた頃、綾香が口を開いた。
「ねえ海一、あの掃除夫の着ていた制服は本当にここの用務員さんの制服だった?」
「ああ。それは確認した。生憎名札着用の義務がないから名前は分からなかったが、勝手の分かり具合といい、恐らくここに本当に用務員として務めている人間だろう」
「ただ、顔がほとんど分からなかったわね……」
綾香が口惜しそうに言う。
掃除夫たちは学園の至る箇所に担当を持ち多くの人数が働いているため、ほとんど判断がつかないのだ。
「とりあえず学園に掃除夫を派遣している会社のデータをSS本部から転送してもらうことにするが、こういう職業は回転が早いからな……あてにはならないだろう」
海一は眼鏡のブリッジを押し上げ、少し表情を曇らせた。
謎の用務員。理事長とその娘・今泉 麗の会話。そして何の情報もない英語教師の机。綾香は様々なことに思いを巡らせていた。
「理事長も、あの屋上で盗み聞いたことと同じようなことを言ってたわね。何人落とすとか」
「加えて今泉 麗ににその“落とす”という行為をするよう促していた。しかも激しくだ」
「恐らく理事長は、あの夜女教師と屋上に居た男と争っているのね」
「構図が見えてきたな……」
海一が腕組みをし足元に目線を落とした。考え事をするときのお決まりのポーズで、この時に海一に何を言ってもあしらわれる。
綾香はその様子を見ながら、今更になって体中に溜まった緊張と疲労を実感するのであった。
「疲れたー!」
綾香は勢い任せに大きな声をあげた。ようやく息ができているような感覚を得る。
海一はもう慣れっこといった感じで、綾香のその大声を無視していた。
「……川崎さん、川崎さん」
遠くから聞こえる自分を呼ぶ声に、綾香は喃語にも似た甘ったるい返事を返した。
「川崎さん!」
目の前を急に明るい光が支配した。
驚きのあまり思わず上半身が飛び跳ねる。
「ひゃいっ」
奇声を発して目を見開いた前には、目を吊り上げた女教師が。
クラスメイトの数人はクスクスと笑っており、少し席の離れた小笠原がそわそわと見守っていた。
黒板に所狭しと数式が書かれていて、女教師の手には綾香の白紙に近い数学のノートが握られていた。
綾香は内心で、ゲッ! 私が眠りの盾にしてたノートじゃないの!と驚き、一気に眠気が覚めた。
「あのですね、そのですね、これはですね……」
「問答無用ですっ!」
綾香がとっさに椅子から立ち上がって弁解するが、女教師は一喝する。
ギャラリーは「いい見せ物だ」とばかりに視線を注いでいた。「また川崎さんが先生につっかかられてるよ」と小さい笑い声も聞こえる。「頑張ってー、川崎さん」という応援の声すらかかるくらいだった。
綾香がそれらの声に「あはは、どうもどうも」と苦笑いしながら頭を下げていたところに、ヒステリックに女教師が叫んだ。
「顔洗ってらっしゃい!」
綾香は逃げ出すようにして「すみませえん!」と駆け足で教室を飛び出した。
周りの生徒は小さく笑い、小笠原だけがその中で唯一心配そうな表情をしていた。
そして綾香は気付いていた、ドアを閉める際に感じたあの鋭い視線に。そう、齋藤真奈美が自分を睨みつける視線に。
重いドアをしめると、授業中の廊下は妙な静けさに包まれていた。目を閉じてふうと息をつく。赤い絨毯が敷き詰められた廊下には、響く足音一つない。
「教室、追い出されちゃったな……」
後頭部を掻く綾香。自分の学力はこのままだとどうなってしまうのだろうと本気で悩み出す。
しかしこんな貴重な自由時間を無駄には出来ないと、SSとしての自覚が悩みを吹き飛ばした。
よしっ、と心の中で掛け声をかけて校内を闊歩しだした。
「追い出されたからには元をとんなきゃね」
と、小さく拳を作って天を仰いだ。
その時、ふと齋藤の鋭い視線を思い出した。
一昨日、理科実験室でいじめの現場を目撃してからというもの、主犯格であろう齋藤の態度は非常に厳しかった。厳しいというよりも、眼中に入れてもらえないのだ。ちょっとした用事で声をかけても無視をされるし、齋藤と仲のいいグループを形成している女子生徒たちからもあからさまに冷たい扱いを受ける。
その不自然さを感じ取った小笠原には今朝、何かあったのかと問われたが、綾香はあえてはぐらかした。恐らくあのことは、安易に話して良い事ではないと判断したからだ。
小笠原の話によると、齋藤は女子の大半を仕切る存在らしい。小笠原は齋藤が怖く、あまり近づかないようにしているとか。
恐らく齋藤も、そんなびくついた小笠原のような人間は気に食わない対象だろう。小笠原ももしかして彼女からいじめにあっていたのかもしれない、と綾香は推察した。昨晩盗み聞いた、あの今泉の脅えたか細い声を聴けば分かる。びくついた人間ほど、人はいじめたくなるものなのだ。綾香は任務でそのような現場に何度も立ち会ってきた。
そして小笠原から聞いた情報の二つ目に、齋藤は学園長の息子・宇津田明良と付き合っているそうだ。
小笠原も、宇津田、齋藤、今泉と同じく初等部からのエスカレーター組。情報は確かだろう。それに女子を束ねるトップと男子のカリスマがくっついているのはむしろ道理なくらいだ。
とりあえず綾香は教師に見つかっては面倒だろうと、階段を使って目立たないところまで下ることに。綾香の教室は5階。とりあえず2階まで下ることにした。
5階。それは昨晩、用務員用階段で謎の掃除夫と出会った所だ。
あの時この階で、あの掃除夫は何をしていたのだろう。この階は中等部の教室しかない。一体、何を。
その時綾香は3階で妙に速足な足音を聞きつけ、足を止めた。
複数名の足音。短い歩幅と軽い革靴の響きからして、恐らく女生徒だろう。と、考えてから思い出す。
ここは3階、初等部の教室が並ぶ階だと。体重が軽いからといって女生徒とは限らない。
授業をやっているはずの時間に複数名の生徒がこんな所に居るということはとても気になることである。
綾香は少し迷いながら耳を澄ました。彼ら、もしくは彼女らに会話はない。そして綾香のひそむ階段に差し掛かることなく、彼らはトイレに入って行った。
綾香がすぐさま確認をすると、そこは男子トイレだった。
綾香は唇を皿型に曲げる。そして真隣の女子トイレに忍び込んだ。
トイレの作り上、男女のトイレ間はどの学校も非常に会話が響くのだ。先程の笑みは、女子で良かった!の笑みであった。
人が入ってくるという万が一を考え、個室に入り込み鍵をかける。エレベーターがあるこの学校では相当なことがない限り、他学年の階のトイレを使用することなどないのだ。
「お前、その話マジなのか?」
入って早々に切り出される、深刻そうな男子生徒の声。まだ声変わり前なのか、高い声だ。普段声変わりを終えた海一の低い声を多く聞いているため、余計に子供のように幼く感じてしまう。
切羽詰って相手に詰め寄る様子が手に取るように分かる。だからこそ二人は速足だったのだろう。
「うん、C組の吾妻が……」
「一千万、献金したっていうのか?」
様子からしてこの幼い男子生徒は二人きりのようだ。声色に焦りがにじんでいる。
「一千万って……もう、分からないよ、とにかくすごいお金なんだよね……」
この情報を告げた方である男子生徒は、己でも事の重大さを把握しきれていないようだ。もう一人の生徒は大きくそれを肯定していた。
「すげぇお金だよ! すげぇ、ものすげぇお金! それを吾妻の家が献金したっていうのか?!」
「うん」
消え入りそうな声で、彼は返事をした。
「吾妻の家は確かに、特に金持ちだって聞いたことあるけど、一体どうして……」
言葉を失った相手に、情報を握っていた男子生徒はまた重い口を開いた。
「中等部の、齋藤真奈美さん」
綾香は意外な名前が彼の口から飛び出てきたことに驚き、目を見張った。そしてより一層聞き耳を立てた。
「齋藤さんが、脅したらしいんだ……齋藤さんのバックには、あの人がついてることで有名じゃないか」
彼が訴えかけるように語尾を強めて言うと、相手も少し脅えたのか、
「そ、そうだよね……」
と、言葉の勢いが衰えていた。少し震えてる様子さえ声からうかがえる。
「俺、怖いんだよ! 吾妻みたいに脅されたら、どうしよう。中等部の人にいじめられたら、もう学校でやっていけないよ」
「俺だって怖いよ……」
二人はそのまま言葉を失くしてしまった。
綾香は二人にバレない程度にそっと息をついた。
まとめ役的存在である齋藤が献金するよう生徒を脅す。そのバックには大物がついている。そう、学校のリーダー的存在であり学園長の息子である、宇津田明良、齋藤の彼氏だ。
綾香の中でどんどん点が線になっていく。
吾妻という生徒への恐喝は、恐らく学園長に向けての献金要請だろう。
海一が盗み聞いた話によると、学園長は今非常に金を必要としているらしいし合点がいく。そして宇津田が表に出ず齋藤が脅迫の代役を務めるのも、直接学園長の名を汚さないためだろう。
綾香は齋藤に強い反感を覚えた。トイレの壁を隔てて、脅える下級生たちの心が伝わってくる。
許せない。
綾香は使命を帯びた目つきになっていた。
絶対にこの学園の謀略を暴いてやる、と。
屋上での女教師と何者かの会話。姿の掴めない女教師。個人情報の無い謎の英語教師の机。齋藤や理事長に虐げられる今泉。謎の用務員。そして、献金強要。
彼ら二人が居なくなってから綾香はそっと女子トイレを抜け出した。
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