細い腕にはめた腕時計で秒針の進みを確認する。心の中でカウントダウンしながらその時を待つ。緊張に寒さも忘れて、制服姿で膝小僧を夜風にさらしていた。


 本当に大丈夫なのかしら、といぶかしむ綾香の隣には海一が立っている。


 綾香は海一に一瞥をくれてやってから、再び腕時計を確認した。


「あと五秒」


 口に出してみて、改めて自分の動悸を感じる綾香。これは緊張からくるものなのか、はたまた興奮から来るものなのか判断出来かねたが、口がカラリと乾いている。


 学園裏の通用口に制服姿で立つ二人。いくらセキュリティを落としたとはいえ正面突破は危険すぎる。用務員の通用口のカギなら簡単にコピーを入手することができた。


 学園の裏は周りの繁華街と同じように油臭い匂いがし、いつ大きなネズミが出てきても不思議ではないような不潔さだった。


 そして二人は同じタイミングで天を仰いだ。真夜中の天空にそびえ立つこの学園を。


「本当に大丈夫なんでしょうね?」


 綾香が問いかけるも、海一はそれより早く通用口に鍵を突っ込み、素早く中二入り込む。綾香も若干の遅れをとりながら彼に続いた。


 通用口より続く道は用務員たちが利用するところであり、学園の豪華さとは全くの無縁で、雑居ビルのようなシンプルな作りだった。


 掃除用具などの倉庫がありはするけれどさほど広いスペースはなく、入ってすぐに階段を駆けのぼることになる。

 丸裸の蛍光灯が階毎にぶらさがっていた。常時灯っているらしいそれは、チカチカと目に悪そうな光を二人に落としている。


 用務員のためのエレベーター等はなく、十一階まで階段を駆け上がることになる。


 スカートをひるがえしながら海一の後を追う綾香。女子でありながら全く遅れはとらない。“俊足”を自負するだけある。ただ今回はそこに持久力も要求される。二人は会話をすることもなく、足音を控えさせながら階段を駆けのぼる。


 途中、八階まで着た辺りで綾香と海一の距離が少し開きだした。海一はそれに気がついて少し速度を落としたが、綾香は負けじと力を振り絞った。頭の中で不満をたれるような余裕もない。


 十一階までダッシュしきった二人の息はすっかりあがっていた。それを静めつつ、用務員用階段から学園の中に通ずるドアに耳を押し当てる。物音は一切感じられない。


 そっと海一がドアを押し開ける。真っ暗な廊下を非常口の緑色が点々と照らしていた。


 綾香が後ろ手にそっとドアを閉めると、暗闇は一層増して感じられた。


 廊下を進んで職員室の戸を開ける。本来ならばここもオートロックがかかっている場所であるが、何の反応も示さない。SS本部の手続きにより本当にセキュリティが全停止されているのだ。


 事前の打ち合わせ通り綾香は教員の机を一つ一つ回り、海一は職員室の一番奥に位置する教頭のパソコンを慎重に起動させた。


 限られた時間だ。海一と綾香は無駄口をきくことなく、腕時計を気にしつつ作業に集中していた。


 暗闇に包まれた職員室を、綾香の腕時計備え付けの懐中電灯が照らす。窓から光が漏れぬように注意を払いながら、教員の机を見回る。机には各教員の名札シールが貼ってある。


 学園長の息子・宇津田明良のクラスである六組の担任の机。理事長の娘・今泉 麗と海一のクラスである五組の担任の机。そして今泉をいじめているという疑惑がある齋藤真奈美と綾香のクラスである一組の担任の机。

 まずはそれらを探り、重要だと判断した書類は次々暗視対応小型カメラで撮影していく。これらの特殊な道具は全てSS本部からの支給品だ。


 日誌や小テストの順位といった電子データにはのらないであろう情報を中心に探っていく綾香に対し、海一は教頭のPCから大方のデータをコピーしていた。分析は家でやればいいということで、出来るだけ多くのデータを写ししていく。


 作業中に綾香は気になる机を見つけた。名札は貼られていないが誰かに使われているらしく、机上に荷物がある。


 机上のテキスト類を探るとどうやら担当教科は英語のようだ。この机の主の情報を引き出しなどから探し出そうとするが、まるで故意に消そうとしているかのように何も決定的な情報は出てこない。

 少し五感に気にかかる部分があるが、それが何かかはハッキリしない。


 二人が二十分ほど作業に没頭していた時だろうか。既に制限時間は半分を切ろうとしていた頃、二人は小さな足音に敏感に反応し全ての動きを静止させた。


 それがこちらへ近づいてきている足音だと理解するや否や、二人は薄闇の中で視線を合わせ、職員室から通ずる隣の部屋に飛び込んだ。そこは応接間だった。


 極力音を立てないようドアを閉め、綾香が小声で尋ねる。


「パソコンの電源は落としたの?」


「いや、まだデータを移しているままだ。ディスプレイだけ消して、明かりの灯っている部分は隠れるようにしてきた」


「そう」


 ここまでしておいてなんの成果もなく帰るなど、二人の意地が許さなかった。


 足音は確実にこちらに近づきつつあるのが分かった。二人はドアに耳を押し付け、気配を読み取る。


 恰幅のよい男性が革靴で奏でる早めの足音。そしてそれと一緒に、小さくて聞こえづらいがとても小刻みな足音がする。

 廊下に絨毯が敷き詰められているせいで足音が聞き取りづらい。


「向かっているのは職員室ではないな……」


 海一が綾香の耳元に口を寄せて最小限の声量でつぶやく。


 足音は職員室の入り口を通り過ぎた。そして乱暴にドアが開く音がしたと思うと、二人のいる部屋の更に奥から声が漏れてきた。


「まったく、向こうに何人落とされていると思ってるいるんだ。こっちはまだ二人しか落としていないんだぞ!」


 ギシィと椅子に大きくもたれかかる音がし、部屋を挟んでもはっきり聞こえてくる大声がした。


 綾香と海一は物音を立てずに移動し、奥の部屋側の壁に耳を押し当てた。


 その奥の部屋とは“理事長室”だ。


「少しは父の役に立とうと思わないのか、麗」


「ごめんなさい、お父様」


 綾香と海一の脳内で、スイッチを入れた回路のように素早く情報が繋がった。これは理事長とその娘・今泉 麗の会話だ。


「母親に似て本当に鈍臭いな。親子なんて嫌な所ばかり似るものだ」


 そう吐き捨て、閉口する娘を尻目に鳴り出した携帯電話に出る理事長。


「なんだ、お前か。こんな時間に電話なんぞかけてきよって」


 とても苛立った空気が部屋中に満ちているのが分かる。壁越しに聞き耳を立てる綾香は唾を飲んだ。


「麗はここにいるわ! いちいち騒ぐな、こっちは忙しいんだ」


 そう言い捨てて強引に電話を切った様子の理事長。机をドンと叩いた。


「いいか、麗。今こそお前に出来ることがある。お前がうまくやれば全てがうまくいくんだ、分かるな?」


「はい、お父様」


 今泉麗の消え入るような声がわずかに聞こえた。


「だったらとっととやるんだ! これ以上向こうに引けを取るわけにはいかないんだぞ!」


 理事長は思いっきり怒鳴りつけたきり娘に話しかけようともせず、今泉が黙り込んでいると、


「分かったら今すぐにでも出て行け」


 と冷たく言い放った。


 キッと睨むような理事長の視線に追い出され、今泉麗が理事長室から出て行く様子が目に浮かぶようだった。


 小さくトコトコと逃げていくような足音が消えていく。理事長はフンと鼻を鳴らし、一人事務作業に取り掛かったようだ。


 時計を確認すると、残り時間はあと十五分だった。


 二人は職員室に戻り、理事長室を常に気にしつつ、PCからデータをコピーする作業を遂げることを優先した。何も言わずともお互いすぐに自分のやるべきことを判断した。


 パソコンを静かに素早く操る海一。対して理事長対策で見張り役に徹する綾香は、壁の向こうの気配を確認しつつ、先程の今泉の様子を思い出していた。

 友人からも親からもこんな状況ではさぞ毎日が辛いだろう、と憐れみすら覚えていた。


 それと、妙に気になる何の情報もない謎の英語教師の机のこと。作為的なまでに個人情報が隠されていた。一体どんな人物の机なのか。


 綾香の頭が回転する。しかし結論にはたどりつかない。


 海一がPCの電源を落とし切った時にはもう残り時間五分。セキュリティを解除している間にこの学園を抜け出せるか、かなりギリギリだった。


 二人は理事長室に神経を注ぎつつ用務員用の通用口へと向かい、とにかく階段をがむしゃらに、しかし音を立てぬよう駆け下りて行った。


 この調子でいけば間に合う、という時。予想だにせぬことが起きた。


 突然五階につながる用務員用扉が開いて、人が入ってきたのだ。


 とても驚きはしたが、二人は咄嗟に死角に身を隠すことに成功した。


 しかしこの狭い空間、近い距離ではほんの小さな息使いでさえ伝わってしまう。二人は息を止めていた。


 入ってきた背の高い男性は掃除夫の正装をしており、雑巾のかかったバケツを持ってキャップを深くかぶっていた。


 掃除夫は階段をゆっくりと下って行く。3階差くらい着いた頃だろうか、綾香が空気をゆっくり吐いて新しい酸素を取り込んだ。海一も同じく限界に達したのか呼吸を静かに繰り返しながら、酸素をめぐらす。


 セキュリティを解除出来ている時間はあと一分を切っている。


 二人は黙ったまま視線を合わせた。


 ダッシュしたとしても用務員に見つかってしまうし、このまま待っていれば外へ出るドアを開けた瞬間に警報が鳴ることだろう。そして備え付けられた防犯カメラも生きかえり、二人の姿をとらえてしまうだろう。


 抜き差しならぬ状況に眉をひそめた二人。


 タイムリミットは刻一刻と迫っていた。

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