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「川崎さん、よかったらお昼ご飯ご一緒しません?」
にこやかな微笑みで近づいてきた女子生徒の声かけに、綾香はハッと目を覚ました。
またしても教科書を盾にしてド派手に眠ってしまったようだ。口の端に残るその安らかな眠りの跡を慌ててぬぐって、寝起きのまどろみの中、努めて作った笑顔で承諾する。
女子生徒は小さく笑った。
「もう、またお休みになっていたんですね。もう四時間目は終わりましたよ」
「あら、いやだ。お恥ずかしい」
綾香の苦笑いの裏には、「昨晩夜明け近くまで続いた任務のせいだっ」という気持ちが必死に押し殺されていた。
「もしかして、体調が悪いんですの? 顔色が優れないようですけれど……」
「あ、ええ、少し。でもお気になさらないで」
慣れないお嬢様言葉を慎重に選びながら応対する。ここでの女子生徒の主流がこのようなものなのだから、郷に入っては郷に従わねばならない。
それに浮いた存在になってしまうことは、任務遂行において良いことである場合は多くはない。
「さあ、今日は何をいただこうかしらね、小笠原さん」
「そういえば、新しくメキシコ料理のシェフが食堂に加わったようですよ。ちょっとした話題になっていましたから、きっと人気でしょうね」
ふかふかのアンティーク調高級椅子から立ち上がり、広い教室を二人で出る。
この学校は各階とても天井が高く作られている。それ故に、十七階建てにも関わらず外観がそれ以上の威圧感を与えるのだろう。その高さのある空間を利用して生徒の座席は階段状になっており、どの席からも非常に黒板が見やすくなっている。さながら大学の大教室のようだった。
廊下には昼休みの自由を満喫する生徒らがたくさん居たが、このとても広い長廊下、狭さや窮屈さなどは微塵も感じさせない。
二人は食堂へと向かった。
綾香の隣を歩く丸眼鏡の少女・小笠原 智子は、綾香の転入時から親切にしてくれている女子生徒である。天然の癖っ毛なの、と恥ずかしそうにその長髪を三つ編みで二つに結っている。
彼女の髪と目の色素は一般的な日本人より薄い。彼女いわく、母方の祖母がフランス人で自分はクォーターなのだという。
彼女ははたからみればとても美しいのにも関わらず、人と違うということで自分の容姿に自信を持てずにいるらしく、綾香の黒々した髪と瞳が羨ましいとたびたび口にしていた。
長廊下を階段まで進み、階段脇に一台ずつ設置されたエレベーターで上へ向かう。綾香たちの教室は五階、食堂は十二階にあった。
エレベーターに乗る際、綾香は背後から慣れた匂いを感じた。
海一が二人の後ろを通過して、階段を下りていったようだ。ただでさえ背が高い海一の歩幅は広く、あっという間に引き離されていく。
綾香がそれに言及することも、反応することもない。周りの女子生徒たちは少し騒いでいるようだったが。
「川崎さん、見ました? 今のお方」
小笠原もその例外ではないようだ。エレベーターの中で少し声の調子を上げ、頬を赤らめて綾香の制服のすそを引く。
「一年五組に転入されてきた、神無月様という方らしいんですの。なんて整ったお顔立ちなのかしら、背も高くて……」
とろんとした目つきになる小笠原の言葉に、綾香は「またか」と心の中で溜息をついた。
海一の美形っぷりは折り紙つきだ。どこの学校の潜入調査に行っても海一は女子の格好の話題となる。
「五組のお友達にうかがったんですけどね、とても成績もよくて親切なお方なんですって。是非、一度でいいからお話ししてみたいですわ」
海一の学校時の愛想の良さといったら、任務の時と雲泥の差だ。海一は元々計画性のある性格だから成績は持ち前のものだが、任務の時や普段綾香といる時には一切微笑みやお世辞と言ったものはない。綾香は「いつか化けの皮を剥がしてやる」と内心でいつも舌打ちをするのであった。
「でも、わたくしなんて相手にしていただけないかも……川崎さん? 聞いてらっしゃいます?」
「え、ええ」
どうしても苦笑いになってしまう、ひきつる頬。
「そういえば、川崎さんは丁度同じ時期に転校してこられましたけど、神無月様と何かお話しされたことはありませんの?」
「い、いえ。生憎ご一緒したことはございませんの」
「そうですの……」
残念そうに肩を落とす小笠原。海一の本性を知ったらこの子はどんな反応をするんだろうなぁと綾香はしみじみ思った。
特別な場合を除いて、基本的に任務ではお互い他人として行動することになっている。綾香は中等部一年一組。五組の海一と一緒になることはほとんどない。
十二階に到着し開け放たれた食堂の扉をくぐれば、そこはあらゆる食べ物の匂いのカーニバルだ。ワンフロア全てが食堂となっており、腕利きのシェフを揃えた各国料理店がブースを構えて空腹の生徒たちを待っている。
綾香はここに来るたび、周囲を見回し巨大なシャンデリアを見上げ、「資本主義って恐ろしいわぁ」と思わされるのであった。
予想通り話題のメキシコ料理は人気で混雑しており、二人はその隣のブースのスペイン料理を選んだ。
ブースでメニューを注文して引換の電子カードを貰えば、あとは席について待つだけ。電子カードのセンサーを利用して、この広い食堂内で注文した者を探し出しウエイターが届けてくれる。
二人はパエリアを頼んで、大テーブルの一角に腰かけた。お尻を包み込むような柔らかな椅子だ。
一体ひとつ何十万するのかしら、それがこんなにあるんだからきっと……と、お金のことばかり考えてしまう綾香であった。
小笠原と適当に雑談しながら、綾香は辺りに視線を配っていた。そうして日頃から色々な生徒の顔を認識しておくのだ。事前に文科省からもらった全員分のデータに目は通してはあるのだが、書面だけではなかなか頭に入らない。
いやはや皆おしとやかなお坊ちゃまとお嬢様だこと、と綾香は内心で毒づく。
綾香が今までの任務で潜入した学校の中では比較できない豪勢さ。そしてお勉強以外の苦労を知らなそうな優雅な生徒たち。これほどみんながきちんとした身なりをした学校はないだろう。世界的に有名なデザイナーによりデザインされたというその制服は、アイロンはきき、ボタンは首元まで閉められ、みなきっちりと着こなされていた。
この時期の制服は、男子は赤にストライプの入ったネクタイに、クリーム色のベストのセーター、下は深い緑のズボン。女子は赤い紐のリボンタイを結び、クリーム色のベストとプリーツスカートで、スカートの下部には深い緑色のラインが横に一筋入っている。男女共にシャツのデザインは同じ白い襟のついたもので、学校の校章が入った指定の茶色い靴下にローファーを履いている。
綾香はここの制服を割と気に入っていた。
ここでの会話はみんな小声で、とてもしとやかな笑い声がする。男子生徒も比較的おとなしめの者が多いらしく、男らしい声はなかなか聞こえてこない。
その時、綾香はふと思いついて小笠原にたずねた。
「ねえ、お昼休みに食堂や教室以外で過ごす場所ってありますの?」
小笠原は「そうですわねぇ」と視線を宙にさまよわせた後、
「図書館で過ごされる方や、特別教室のパソコンルームでお過ごしになる方もいらっしゃると思います。体育館や運動施設も解放されていますけれど、ほとんど部活動の方が使用されていますからねぇ」
と、ほほえんで答えた。
部活動ねぇ、と綾香は記憶を探る。
ここはあまり部活動は盛んではなかったという情報を記憶している。一般的にありそうな部活動を名ばかりに少々作っているだけ、といった感じだ。
それに比例してか、もしくはこちらが原因なのか、部活動に所属する生徒数は決して多くはない。恐らく「勉強」という要素が主因だろうけれど。
「屋上は立入禁止ですし、この学校にはお庭などはありませんから、過ごす場所と言ったらあまりないのかもしれませんね。こんなに広い学校ですのに」
恐らく海一は昼飯など手早く済ませ、この学校で過ごせる場所をあちこち探索していることだろう。そしてそこにいる顔ぶれの確認も、と綾香は推測する。
私はお昼くらいゆっくりしたいわぁと思いながら、結局放課後に部活動見学を名目に学校をめぐるつもりの綾香だった。海一ほどストイックではないけれど、綾香も任務にはまじめなのだ。
「神無月様はどこでお過ごしになるのかしら」
目がハートマークになっている小笠原とそれを呆れて見つめる綾香の前に、ふんだんに魚介類を使用したパエリアが湯気をあげて運ばれてきた。
一方海一は、綾香の予想通り昼飯などとっくに済ませ、学校内をめぐり歩いていた。転校してきてすぐの方が学校中をうろついても怪しまれないという考えのもとにだ。
広い学校ではあるが、生徒が自由に入れそうな場所は限られている。任務よりも自分の生活が第一な綾香が既に食堂に行っていると勘で判断し、それ以外の場所を目指すことにした。
まず向かった一階の玄関は、日中の勝手な出入りが禁止されている為に扉が閉められ、一人の掃除夫がせっせと大理石で出来た手すりを磨いているだけであった。
二階に行くと広い作りの保健室があるが、誰か生徒の居る気配もなさそうである。ベッドは多数設置されているが、きっとほとんど利用者は居ないだろう。体調が悪ければすぐに家から迎えの車が来て帰ってしまうだろうから。
保健室の向かいは図書館の入り口になっており、内部は四~五階まで全て突き抜けた造りになっている。圧倒的な広さを誇る図書室だったが、利用者はまばらであった。昼休みも後半になれば混んでくるのかもしれない。
海一は図書室を後にし、また階段をのぼっていく。二階を担当する掃除夫が顔を床に向けるようにして懸命に掃除していた。一瞬こちらをちらりと見たような気がして、潔癖だな、と海一は心の中でつぶやいた。
この学校には掃除夫が多数常駐している。常に学校内を清潔に保つためらしいが、それにしても数が多い。学校というよりまるでどこかの有名テーマパークのようだ。
再び二階の掃除夫がちらちらとこちらを見ているのに気付き、そんなに邪魔かと三階への階段へ急いだ。生徒が邪魔だと思うくらい掃除をするなんて本末転倒ではないのかと海一は思った。
三階からは各生徒の教室が続く。初等部、中等部、高等部と構成されるこの学校であるが、ここの建物に高等部はない。高等部はまた別の場所にそびえ立つビルにある。収容人数の関係で高等部は別にせざるをえなかったと、事前に目を通した文科省からの資料にそう書いてあった。
初等部は人数が少なく、中等部になると急に人数が増える。近年の私立中学受験ブームの波もあってか、クラスが増設されたようだ。初等部はA~F組の六クラスが三階と四階を占める。中等部は一~十組まであり五~七階を占める。
そして七階より上は家庭科室、理科実験室、視聴覚室等の特別教室等が占めており、それは十階まで続く。
十一階には職員室があり、職員専用のトイレやエレベーター、休憩室等が用意されている。教師にとっても働きやすい環境であり、結果として優秀な指導者が集うのだろう。
またこの階には学園長室や理事長室もある。窓のない重い扉に閉ざされ、内部を覗き見ることはできない。
思えば教頭は朝礼でよく見るが、学園長と理事長はまだ顔を見たことがなかったな、と海一はふと思った。
各教室をエレベーターで通過し十一階で降りた海一は、すれ違う教師らに「迷ったのか?」などと声をかけられたが、適当に作り笑顔ではぐらかして階段を上った。十一階はどうやら通常あまり生徒は来ない場所らしい。
十二階は食堂になっており、賑わう生徒らを横目に上の階へ向かった。昼休みも半ばだ。
十三階より上は部活動のための部室が続く。しかし昼休みの為か部活動自体が活発でないせいか、廊下は死んだような空気が占めていた。海一は一応端から見て回る。
男・女バスケットボール部、卓球部、剣道部、柔道部……。そして階段を挟んで向こう側に並ぶ部室の名前にはカラーのガムテープで×印がされていた。
サッカー部、男・女テニス部、野球部……。それは廃部になるだろうな、と海一は眼鏡のブリッジを片手の指先で押し上げて皮肉めいた。それらは屋外で行う競技ばかりだったからだ。
校庭のないこの学校では廃れても仕方がないだろう。初めはきっとどこかの施設を借りたりして活動していたのだろうが、きっと面倒だろうし、そうするくらいなら個人的にチームに入るだろう。金は持っているのだから。
本当におざなりな部活動構成だな、と思いつつ十四階に上がると、今度は文化部の部室だった。廊下の端から、「演劇部」「漫画研究部」「華道・茶道部」と続き、海一はそこで息をひそめ足音を消した。
人の気配を察知したのだ。×印のついた「華道・茶道部」の部室から聞こえてくる、いくつかの男の声。
海一は周囲に他の人間が居ないことを素早く確認して、盗聴体勢に入った。
茶道部の部室内から影が見られないようギリギリのところまで近づき、呼吸を静めて聴覚を研ぎ澄ます。
「ちげえよ、馬鹿だな」
「4組の立川って最近太ったと思わねぇ?」
スナック菓子のようなものを食べる音と、アルミ缶をテーブルに叩きつける音がした。恐らくお菓子とジュースに囲まれて談笑しているのだろう。たまに紛れて麺類をすする音が聞こえる。カップラーメンを食しているのだろうか。
この部室は部活の性質上コンロや調理器具など一式揃っているだろうから、ありえないことではない。
部屋がしめきられているせいか食べ物の匂いは感じられない。
「あー、午後の授業だりいなぁ」
「さぼりてー」
「お前ら、こないだのテストまた金で通ったんだろ。授業くらいは出とかねーとやべえんじゃねえの?」
「さあね。クラスの奴らは勘付いてるみたいだけど、とりあえず教師のメンツがつぶれないようにしとけばいいんだろ」
「ウツダ、どうなんだよ?」
海一はその名に敏感に反応した。
ウツダ。文科省からのデータを脳内の記憶から引っ張りし、結びつける。宇津田。この学園の学校の長、宇津田学園長と同じ苗字だ。
「俺はお前らと違ってちゃんと勉強してっから関係ねぇよ」
「はーあ、いいよなお前は。金持ちで、勉強できて、おまけに運動神経はんぱねえし」
「羨むんだったら、親父にもっと金積めばいいじゃん。どうにでもしてくれるよ。最近の親父、超金欲しがってるみたいだし」
「なんかよ、俺たちの家の金が宇津田んとこに入って宇津田の金になって、こうやってダラダラしてんのってなんか不思議だよなー」
「金っつーのはそうやって循環するもんなんだよ。いいじゃん、お前らの成績も保障されるし、自由に飲み食い出来るし」
海一の記憶力の良さはピカ一だ。会話と共にどんどん情報が繋がっていく。
宇津田学園長には息子が一人居て、現在中等部一年生。確かクラスは五組に属する海一の隣、六組。その名は、宇津田 明良。
海一は思案する。
この会話を聞く限り、学園長は金を欲しがっている。しかし学園長に何か喫緊に金が必要な事項などはなかったはずだ。学園長は妻と数年前に死別してからというもの、再婚もせず静かに暮らしているという情報だ。
会話から察するに中には四人の男子生徒がいるはずだ。
海一はしばらくその四人の会話を聞いていたが、彼らが教室に戻ろうとしているのを察知して、出てくる彼らの死角になるよう足音を殺して物陰に移動した。
室内からは、制服についた菓子の匂いを取るためか消臭スプレーを吹き付けあう音がした。ずる賢いものだ、と海一は呆れるしかない。
しばらくして出てきたのはきちっと制服を着た、いかにも爽やかそうな男子生徒が三人。海一は彼らから見えない位置で観察していたが、先程の会話の主たちだとはとても思えない。
彼らはエレベーターを使って降りて行った。
海一はそこで眉をひそめた。
三人? 確か会話から察するに中には四人居るような気がしたのだが、と海一が死角から足を踏み出した瞬間だった。
一人の男子生徒が海一の目の前に立っていた。
「お前、誰?」
海一をきつく睨みつける、同じくらいの背格好の少年。
先程の記憶を手繰る。声からするに、彼こそが宇津田明良であった。
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