start of student solver

「遅い」


 見下ろすは、宝石箱をひっくり返したような都会の輝きときらめき。立つは、近代的な十七階建ての建物の殺風景な屋上。


 まだ肌寒い初春の夜風にその身をさらしながら、長い黒髪をなびかせた制服姿の少女はいらだっていた。両腰にあてがった細い指は冷気によって赤みを帯びている。


 制服のひだを風に遊ばれながら、少女は一人の少年を待っていた。


「海一ったら、いつもは私の遅刻をなじるくせに……。ったく、なんなのよ」


 鼻をすすってから、口をへの字に曲げる。集合時間は〇時丁度だったはずだが、今はもう十五分も過ぎていた。


 星ひとつ見えない夜空を見上げて「もう帰ろうかしら」などと思考しはじめた瞬間であった。


 少女は屋上へ接近してくる何者かの気配を感じ取り、屋上入口ドアの死角に素早く移動した。そしてそこに気配を溶け込ませ、神経を研ぎ澄ます。


 足音からするに恐らく二人。一人はそう年のいっていない女性だろう。ヒールの奏でる挑戦的な足音がする。もう一方の人間は恐らく中年かそれより上を行く年齢の男性だろう。歩行スピードで分かる。


 少女の待ち人、海一でないことは明らかだった。


 屋上の施錠を解除して何者かが現れた気配を感じる。こちらからは姿はうかがえず、少女は目を伏せ嗅覚と聴覚に意識を注ぐ。


 風に漂うほのかな、しかしきついフローラル系の香水の香り。そしてそれに混じった喫煙者独特の臭み。少女のつけたあたりは大きく外してはいないようだ。


「中川先生。それで、あの生徒はどうなった?」


 くぐもったような低い男性の声。恐らくふくよかな体型なんだろう。

 少女は全身を耳にするようにして固まっていた。


「こちらの条件を全て飲みましたわ。確かに確認いたしました。問題なく進んでいます」


 透き通るような声。そしてほんのりと色香が漂う。その優秀さを武器に、得意げに澄ました顔が浮かんでくるようである。


 含ませるような小さな笑いの後、男性が続ける。


「完璧だな。あと三人落とせば我々の勝ちだ」


「おっしゃる通りです」


 女性はまるで優秀な秘書のように相づちを打つ。


「ところで、この間二人ほど生徒が転入してきたようだが?」


「はい、川崎綾香(カワサキアヤカ)と神無月海一(カンナヅキカイイチ)ですね」


 急に自分の名前が出され、心臓が跳ね上がりそうになる少女、綾香。己の鼓動が妙に大きく聞こえてきて、荒くなりそうになる息遣いを抑える。


「あの二人の身辺調査は既に済ませてあります。あなた様のお心に留めておくほどの生徒ではございませんわ。至って普通の家庭の子供です。本校に転校してきた理由はそれぞれ両親の仕事の事情での転居と単純なことです」


 すらすらと生徒の個人名やそのプロフィールなどを並べるところから、中川という女性はかなり学校の中枢に通ずる職員なのだろう。


 それを聞いた男性は「そうか」と小さく返事をしたきり、その話題から興味が逸れたようだ。


 しばらく沈黙が続き、綾香は自分の鼓動を再び大きく感じながら、彼らの動きを待った。


 冷たい夜風は容赦なく綾香の頬を打っていったが、彼女は微動だにしなかった。彼女は今は壁であり影であり闇である。気配を溶け込ますとはそういうことだ。


 男性が屋上の手すりに近づいていく足音と、それに追従する女性の足音を感じ取る。


「見てみなさい、この輝く街を。眠らない怪物のようだ。喜怒哀楽なんてものは価値基準になく、人々を丸ごと飲み込んでいくんだ」


 自分の饒舌ぶりに陶酔するように続ける男性の話を、女性はしっかりとうなずいて聞いているようだった。そうでなければ人からこれだけ言葉を引き出せまい。


「……そしてそこにそびえたつ、この学園」


 男性がにやりと微笑んだのを、綾香は直感で察知した。


「この学園を支配するのは――この私だ」





 大都会の繁華街、その中にまるでオフィスビルのように立つこの背の高い建物、《私立藍季学園》。初等部、中等部、高等部からなる、都内でも有名な名門私立だ。



 巷では有名な話になっているが、この学園の入学に問題になるのは「金」だった。入学は寄付金の額で決まるようなもの。



 しかしここの教師陣、設備、教育プログラムは群を抜いて秀逸であり、結果的に全国から優秀な学生が多く集っていた。初等部から在学する者も進級には試験が課せられ、超難関と言われる転入試験を突破し中等部・高等部から入学してくるものも少なくはない。



 無論、いずれの試験にも「金」というものがまとわりついてくる。結局この学園を占めるのは優秀な生徒たち、そして一部は財力だけでここまできた生徒たちということだ。


 また、設備の面では、ビルのような外観をしてすましているが、一歩中に入り込めばそこはまるで中世の城を思わせる豪勢ぶりだ。


 入口には宝塚張りの大階段。生徒の数よりシャンデリアが多いのではないかと思わせる長廊下に、床には「お金持ち」にはお決まりの赤じゅうたん。大人の背丈よりも遥かに大きなサイズの絵画が飾られ、吹き抜けになった図書館には、国が持つ重要文書より遥かに価値のある物があるとかないとか。


 いたるところに宝石があしらわれ、教室も座席は階段状になり、雰囲気はまるで高級ホテルの一室のような豪華さだ。


 加えて食堂には各国のシェフが待機し、昼休みには忙しなく腕を奮う。さながら万国博覧会のよう。


 そして複数の掃除夫がエリア毎に常駐しており、いずれの場所にも常に一点の汚れもない。更に地階は地下鉄駅改札と直通しており、送迎車をとめる専用の地下駐車場も併設している。







 この豪勢な学校の屋上で、二人は早々に会話を切り上げると屋上を後にした。




 綾香はその足音を見送ってしばらくしてから体の緊張を解いた。ゆっくりと深呼吸して新鮮な空気を肺に取り込む。まだ少し、女教師のきつい香水が空気の中に残っているように感じられた。



 長い黒髪を耳にかきあげるが、相変わらずな夜風の縦横無尽さに再び髪は宙を舞う。


(中川か……)


 綾香はその名を心に刻んだ。この学校の全教師のプロフィールデータは、文科省から入手し転入前に全て目を通したはずだったが、記憶に結びつかない。


 記憶の海に潜り眉根を寄せる綾香に、どこからか突然言葉が投げられた。


「綾香」


 暴れる風のせいで声のした方向が分からず、前後左右をきょろきょろと小動物のように見回す。


 すると、ここより少し背の高い隣のビルの屋上に、こちらを見下ろす一人の少年の姿があった。細い眼鏡をかけた無表情なその顔は細く整っており、中学生ながらに気品を漂わせるようだった。


「あっ、海一!」


 へたり込んでいた綾香が彼の遅刻を非難しようと唇を尖らせるや否や、海一は軽く助走をつけ綾香のいる屋上に飛び移ってきた。


 無駄な動きは一切なかった。膝の汚れを払ってから、綾香を見下すような真正面の位置に立つ。


 その顔には表情と呼べるようなものは浮かんでおらず、綾香は「何よ」と彼を睨むように見上げた。


「この馬鹿」


 開口一番がこの一言である。まるで温度を持たない彼の冷淡な言いっぷりに、綾香は飛び起きて反論を開始した。


「馬鹿とは何よこの大馬鹿! 待ち合わせの時間にめっずらしく私が早く来てみたらあんたは大遅刻で、その間に怪しい人たちは来るし大変だったんだからねぇ! 何より寒いしっ。冷えは女の大敵なんだからね! 私が病気になったらあんたを訴えてやるわっ!」


 感情の塊を丸ごとぶつける綾香。最後は論点がずれているが、海一はそれにも無反応だった。


「なんとか言いなさいいよ、この海眼鏡!」


 綾香が独自に編み出したよく分からない悪口にカチンときたのか呆れたのか分からないが、海一ようやく口を開いた。


「お前の脳みそに海馬はないのか。待ち合わせ時刻は確かに〇時だが、場所は学校の“隣のビル”の屋上と言ったはずだ。そして更に、今夜は“教師たちが来るのを予期しての張り込み”だと言った。予め屋上の死角部に高感度の超小型盗聴器を仕掛けておいたから、わざわざ俺達が危険を冒して同じ屋上に行く必要はない」


 すらすらと出てくる海一の言葉は、綾香からすると「言われてみれば確かに……」といった内容らしく、何の反論もできず口を結ぶしかない。


 海一は片手で顔を覆って肩を落とす。


「お前はいつもこれだ……。一体どうして俺と同じstudent solverになれたのか」


 綾香は悔しいながら今回の件で反論はできず、論点をずらしての反論になる。


「私がなりたいって言ってなったわけじゃないわよ! 何度も言ったでしょうが! いきなり文科省のお偉いさんの使いとやらがきて、勝手にStudent solverの説明をして、聞いた以上は辞退は出来ないとか言い出しやがるのよっ。人権侵害もいいとこよねぇちょっと! 日本政府は何してんのよ!」


「今、俺たちは日本政府の犬なんだけどな」


 綾香はクッと顔をしかめた。




 Sudent(スチューデント) solver(ソルヴァー)。通称SS。


 文部科学省直轄の秘密組織であり、構成員は全国各地の現役中学生たち。


 全国の学校で起こる不祥事、凶悪化する学生間のトラブル、いじめ、教師の汚職に至るまで、警察に代わって学校関連のあらゆる事件や問題の調査・解決を行う団体だ。


 ただしその存在は性質上明るみにされてはおらず、大臣経験者の国会議員でさえも知らないことが稀ではない。




 今回、SSの任務として二人が転入させられた学校が、ここ《私立藍季学園》。生徒及び保護者への圧力などが噂されており、その実態調査と解決が今回の任務だ。


 転入など文科省直轄組織にとって簡単なこと。二人の経歴、家族、転入理由も全てウソ。それらは決して見破られることはない。そうやって何度も様々な学校に転入しては任務を遂行しているのだ。


 そして、この艶やかな漆黒の長い髪がトレードマークの川崎綾香と、整った顔立ちに細いフレームの眼鏡が特徴的な神無月海一は、SSのパートナーである。


 SSはそれぞれ男女のペアで行動することが基本となっており、それは上層部により決定される。


 二人が初めて顔を合わせたのは中学一年生一学期の初任務の時。そして今、中学二年生になろうとしている年度も終わりの三学期。ペアを組んでようやく一年が経とうとしているのだが、この二人はというと。



「っていうかね、誰であれ問題を起こすんだったら警察が動けばいいのよ、警察がっ。この国家公務員! 公僕! 働け!」


「警察では出来ないことがあるから俺たちが存在するんだろう。そもそも俺たちも今は公務員と同じ立場だ」


「私たちは公務員である前にまず“学生”なのよ、が・く・せ・い! 学んで生きる存在なの! こんな真夜中に学校の屋上で、しかも大都会のビル風を受けながら、人の話を盗み聴きしてる場合じゃないのよっ」


「ほう。学生と連呼してくれるが、お前のその紙やすりのように吸収力のない脳みそのせいで、秀才が集まるこの学校への転入手続きにSS本部がどれだけ苦労したことか」


「わ、私は任務で体を張ってるからいいの! 運動神経抜群、俊足の川崎綾香の右に出る者は居ないんだから!」


「そういえば、前回の任務で逃亡する学生を取り押さえたのは確か俺だったような気がするが?」


 と、こんな具合に言い合いが絶えず、本人たちには決して相性がいいという自覚がないペアなのである。


 そしてこのような言い合いに綾香が勝ったことは一度もない。


 不服そうに唇を曲げた綾香が、話の軌道を元に戻す。


「とりあえず報告しておくわ。中川という女教師、年齢は二十代後半から三十代、それからその目上に当たるであろう存在の四十代後半~五十代の年配の男性が会話していた。タバコと香水臭かったわ。どちらも銘柄は特定出来ない。話していた内容は、よく分からないんだけど『生徒を一人落とした』という報告と、『あと三人生徒を落とすことによって自分たちは勝利をし、学園を我が物にする』といった感じ。私たち二人の転入に関しても言及されていたけど、特に怪しまれてはなかったみたい」


 綾香はそう報告して、海一の反応を待った。


「分かった。設置しておいた盗聴器とお前の証言に違いが無いか後で検証するとしよう」


「あんたって奴はっ!」


 海一は自分めがけた小さな拳が宙を掻くのを一歩下がって見送った。獲物を捕え損ねた拳は、しばらくして不機嫌な綾香により引っ込められる。


「さあ、盗聴セット一式を外してしまおう」


 屋上入口の天井部を見上げた海一は背伸びをして腕を伸ばし、仕掛けを探った。彼は中学生にしては背が高く、すぐに目的の場所に手を触れることが出来た。


 しかし、ふっと顔つきが変化した。


「海一?」


 それに気づいた綾香が彼の手元を覗き込もうとするが、綾香の身長ではそこまでは詳しくうかがうことが出来ない。中学生女子の平均よりは背が高い方なのだが、ぴょんぴょんと繰り返しジャンプして海一に「ねぇ何なのよ」と迫る。


 そっと腕を引っ込めた海一は、一言こういった。


「無いんだ」


 しばらく言葉の意味が理解できず、少し遅れて間の抜けた相づちを返す綾香。


「はい?」


「仕掛けたものが一式丸ごとない」


「ないって……あんた、ちゃんと仕掛けたんでしょう?」


「ああ。マイクロサイズだからパッと見て分かるようなものではないが、確かにここに仕掛けた」


「ってことは、人為的に誰かが……」


 綾香の言葉が途切れ、二人の間を一陣の風が吹き抜ける。


「海一はあっちのビルの屋上から見てたんでしょう? 二人が外すような素振りはなかったの?」


 海一は首を横に振った。


「いいや。外す素振りどころか、確認できたのは女教師のわずかな後ろ姿だけで顔も分からず、会話相手の男性の容姿も死角になって見えなかった」


 海一の言葉に唇を噛む綾香。


 お互い虚空を睨んでいた。


 三月のまだひんやりとした風が、制服のそでに、えりに、ひだに触れて飛んでいく。


 夜空を突き刺す三日月が、二人をあざ笑うように見下ろしている。


 私立藍季学園――この《宮殿》での任務には、今までにない、得体の知れぬ障害が待ち受けていることを二人は体で感じ取っていた。

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