きっとあなたの星だった

位月 傘

 エルは、いつも花の香りがした。彼女の夜を閉じ込めた黒髪が揺れて、回想に耽っていた意識が呼び戻される。顔をあげれば柘榴みたいな瞳と目が合った。


「どうしたの?ぼーっとして。キミが夢心地なのはいつものことだけれど」

「……ちょっと初めて会った時のことを思い出していただけだよ。それに、そんなにぼんやりしているつもりはないのだけれど」

「そうかしら。私の目にはそうは見えないけれど」


 お前の見目が現実離れしているのが原因のひとつなのだ、とは言わなかった。どういう訳だか、それを伝えることは自分の弱みを晒すようなことだと思ったから。


 現実離れしていると言えば、この場所もそうだ。空に浮かぶ月に照らされた、夜だというのに不自然に明るい花畑。そこに向かえば居るのはいつも彼女ただ一人。


「初めて会った時と言えば……キミが死にそうになってたとき」

「あなたが自殺幇助したときと言った方が正しい。それか心中を持ちかけて来たとき」

「あら、人聞きが悪いわ。私はちょっと世間話をしただけじゃない」


 エルは怒っていますとわざとらしく頬を膨らませている。流石にこれが本気ではないとは、誰であってもわかるだろう。いくら彼女が分かりにくい冗談を言うようなひとであったとしても、だ。


 その日はなんてことのない夜だった。いつも通りバイトから帰ってくる途中、唐突に家に帰るのが無性に嫌になった。いや、家に帰ることだけじゃない。

 バイトに行くこと、学校に通うこと、電車に乗ること、誰かと顔をあわせること、朝に目をさますこと。そのすべてを、今までに積み重ねてきたものをすべて投げ打ってでも、捨ててしまいたくなった。


 そのことに気づいたときには、既に足は見知らぬ場所へと向いていた。行先も決まっていないというのに、不思議と足取りが衰えることはなかった。

 自分が暮らしているここは田舎ではないはずなのだが、隠れるように存在していた入り組んだ森をずんずんと突き進む。樹海と呼ぶにふさわしい景観が延々と続いていき、ついには道すら出来ていない小道を抜けた場所で突然視界がひらけた。

 

 暗い森の中にはなかったものがいっぱいに広がっている。白い花だ。花畑だ。月の光を反射して、白い花弁がきらきらと輝いている。吸い寄せられるようにその中央に向かう。下を向いていたわけでもないのだが、なぜだかきっと自分はこの花を踏み荒らすことはないだろうという自信があった。


「キミ、こんな夜中にどうしたの?」


 誰もいないとすっかり思い込んでいた僕は、突然背後から声をかけられ思わず肩を揺らす。驚きすぎて声も出なかったが、情けない悲鳴をあげるよりは、いくらかましな結果だろう。 

 振り返れば黒いワンピースの、子供とも大人ともつかない美しい女がまるで花の一本であるかのように佇んでいた。


「こんな夜中にひとりでいたら、わるいこに連れていかれちゃうかもよ?」

「……ここは、あなたの花畑なんですか?だったら勝手に入ってごめんなさい。すぐに出ていきます」

「私の……まぁ、私のものか。私はエル。キミが良いならもうちょっとここに居なよ。ひとりで月を見上げるのは寂しいでしょう?」

 

 彼女は僕のすぐ隣に腰をかけ、ぽんぽんと地面を叩いて催促をした。未だに帰る気になれなかった――今思えば自暴自棄だったのかもしれない――のもあって、突然現れた彼女を不審に思いながらも、抗いもせず腰を下ろした。


「それで、キミはどうしたの?」


 腰を丸めた体育座りのままこちらを覗き込んで、彼女はそう言った。このときの僕が、彼女不完全な言葉の意味を正しく受け取れた理由は分からない。

 

「ただ、何もない場所に行きたかったんです。それであてもなくふらふらしてたら、ここに」

「ふーん」


 エルは無関心なようにも、言葉を探しているようにも見えた。ひどく非現実的だ。美しいものはごく一般的な感性を持っているから好きだけれど、それに執着している性質でもない。

 そのはずなのだけれど、自分はこの女のため生まれてきたのだと思わせる魔性が彼女にはあった。


「百合の花に囲まれて眠ると、美しいままに死ねると知っていて?」


 僕は黙って頷いた。もっとも、それが迷信であることも知っていたが、それを口にするのは野暮だと言うことも分かっていた。

 それに、彼女だってそんなことは知っていたのだろう。分かっていて、僕に誘いをかけている。


 エルはそのままごろんと寝転んで、期待の瞳で僕を見つめた。恐る恐る、それでも迷うことなく、僕は彼女に続いた。

 視界には白が揺れ、月が僕たちを照らしている。こうしていると、自分がまるで白百合のひとつになった気分だ。


 ちらりと横目で彼女のほうを見る。近くで見ると彼女の頬は自分のものよりもずっと青白くて、死人のようだ。だけど不気味に感じることはなく、彼女は毎夜ここに訪れているのだと、この月の光を身に閉じ込めているのだと、ただ漠然と理解した。 



 どれほどそうしていただろう。随分長い時間が過ぎたが、お互い何も口にすることは無かった。眠気が訪れることはなく、じっと眺めていた月はもう消えようとしている。


「もう、行きますね」

 

 どうして朝日を待たずにこんなことを口走ったのかはわからない。帰りたくなったわけでもなかった。むしろこの時間は、これ以上ないくらいに穏やかで心地よいものに違いなかった。

 すっと起き上がってそんなことを言いだした僕を、どこか驚いたように大きな瞳を瞬かせて見つめて、それから花がほころぶように、エルは微笑んだ。


「えぇ、またね」


 道を覚えていなかったにも関わらず、まっすぐと家に帰ることが出来た。これがエルとの出会いだ。

 それから時々、僕は吸い寄せられるように、覚えていないはずの道を通って、あの花畑に行っている。

 

「あの日のキミは治らない奇病にかかったみたいな顔だったわ」

「人との出会いを嫌なふり返りかたしないでほしいんだけど」

「今日は元気そうでよかった」

「そういうことじゃないんですよ」

 

 はぁ、とため息を吐く。振り返ってみれば随分と気安くなったものだ。それによく知りもしない、夜中に森に一人でいるような相手と、しかも二人きりで夜を明かすなんていうのも、常識をもってすれば有り得ないことだ。自分は決して危機感のない人間ではないはずなのだけれど、気が付かなかっただけで当時は相当参っていたのだろうか。


 信じられないと言えば、こうやって何度も会っていることもおかしなことだ。惚れたとかそういう話なら分かりやすいけれど、なんだか違う気もする。

 むずむずとした感覚をどうにかしたくて必死に考えてみるけれど、答えは出ない。だから諦めて彼女の方へ向き直った。


「そういえば、ここの花畑はあなたの物だと言っていたけれど、花の世話もしているの?」

「そうね。水をあげるだけで、特別なことは何もしていないけれど、ここの花はいつも綺麗に咲いてくれる」

「へぇ……花が好きだから育ててるの?」

「花は好きだけれど、手入れをしている理由は違うかもしれない」


 妙に歯切れの悪い返答に首を傾げる。待っていても彼女が自ら続きを話すつもりはなさそうだ。

 

「別の理由?」

「そう、別の理由。知りたい?」

 

 こちらが困惑していることに気づいたのだろう。エルは少し黙って、それから真剣な面持ちで僕を射抜くように見つめた。


「本当に、知りたい?」


 エルは、肯定してほしいようにも、拒絶してほしいようにも見えた。なぜだか隣で寝転がって、僕を見つめて来たあのときのことがフラッシュバックした。

 きっとこの問いかけに応じてはいけないのだろう。理性がけたたましく警鐘を鳴らし、本能ががたがたと怯えている。


「……知りたい」


 それでも、ここで頷かないという選択肢を選ばなかった。断ることが正解だとして、いつかに後悔しないとは限らない。後悔しながら正しい道を生きるくらいなら、選びたい道を選んで死んでしまいたい。

 僕は愚か者なんだろう。頭の中で僕の大事なひとたちが、尊敬するひとたちが、口汚く罵ってくる。


 正に混沌と化している僕の胸中とは裏腹に、エルは一層美しく笑って見せた。彼女はすっと立ち上がり、どこかへ向かっていく。その後を着いて行っている最中、頭の中に響く警鐘はますます強まるばかりだ。今なら戻れるのだと彼女の背中も言っている気がした。


 たどり着いたのは、あばら家と言って差し支えない小屋だった。鍵を取り出すこともなく彼女は扉を開けると、家に招待するように一度こちらを振り返り、スカートのすそを小さく持ち上げてみせた。

 家の中でも隙間風が吹き抜け、ところどころに蜘蛛の巣がはっている。床は歩くたびにぎしぎしと不愉快な音を鳴らし、積まれている分厚い本のせいで今にも抜けてしまいそうだ。


 そんな中で、ひと際異質さを放っているものがあった。――――棺桶だ。

 蓋の部分が少し凹んでいて、それは無理矢理十字架を剥がしたあとのようだった。


 エルは重そうな棺桶の蓋を軽々と外し、放り投げるように脇へと置く。その瞬間、彼女の香りがぶわりと広がった。


「これが、私があの花を育てる理由」


 棺桶の中には美しい花が、あの白百合がびっしりと敷き詰められていた。エルはそこへ入り、僕へとにこりと微笑みかける。まるで絵画の一枚みたいな光景だった。美しいのと同じくらいおぞましい。本能で理解する。これはただの人間が見て良いものじゃない。

 

 エルは僕の手に指を絡める。期待するような瞳だった。

 

「百合の花に囲まれて眠ると、美しいままに死ねると知っていて?」


 僕は黙って頷いた。死ぬというのがどういうことなのか、何もわからないままに。

 棺桶の中へと引きずり込まれる。そして僕は、確かに自分の意思で彼女に身を任せた。


 棺桶の蓋が、ぎぃ、と音を立てて閉まる音が聞こえた。

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