ヒューマンファンクミュージック
僕は生まれた時から猿だった。
それに理由は全くない。ただ、生まれた時から猿だった。
手に持ったラジカセの音量はいつもマックスで、みんなから嫌がられるけど、僕は至って、普通な気持ちで、そのラジカセから聞こえる音楽を聞いているのだけれど、今日は何回殴られるか、それだけが気がかりで、足元も覚束ない。
僕の唯一の友達、奥田さん、この間、顔にヘラクレスオオカブトムシが引っかかって取れなくなったとかで、大騒ぎしていた。
奥田さんは確か、蛇だった。生まれた時から蛇だと言っていた。詳しいことは僕も知らないし、理由も特にないのだけれど、生まれた時から蛇だった。
ヘラクレスが顔に引っ付いて取れんくなるって、どんな状況なんだと吹き出しそうになったが、本人と話した時、死にかけたと言っていたから、きっと大変だったんだろうなと思って、あまり触れないようにしている。
ラジカセから音楽が聞こえる。ヘットフォン買えばいいのにと、毛虫を見るような目で近所の女の子から小声で言われるけれど、そんな金があったら、もっとマシなもの食べて、パチンコなんか絶対に行かないのだけれど、お金はないしパチンコにも行く。ふざけた僕。
あ、噂をすれば奥田さん。電車の長い椅子に、わざわざ僕の隣に座って、フランケンシュタインみたいになった顔で、僕と目が合う。
「相変わらず、大爆音だね」
まるで、ノルマンディーに上陸したばかりの兵隊みたいに、僕の耳元で、皺くちゃで醜い僕の耳に、口を近付けて大声で話しかけた。
「この曲、大好きなんです、みんなに聞いて欲しくて」
「イカすね」
奥田さんは、フランケンシュタインみたいになった顔を歪ませて笑った。笑った瞬間に、顔の縫い目から、真っ黒い血が滴って、電車の床に飛び散った。
その瞬間に真っ青になって、奥田さんは赤く滲んだ手拭いで、自分の顔を拭いて、それから、慌てて電車の床を拭き始めた。
奥田さんは、可哀想。そんな風にしか、笑うことができないのだ。本当の意味で笑う、誰かを嘲るとか、そういうんじゃないのに、馬鹿にしてると誤解されて、とうとう、歩いてる時は、いつも顔を伏せて、自分を守るために、仏頂面でいる。
「奥田さん、痛くないんですか」
「痛いよ。痛いけど、我慢してる、みんなそうだと思うから」
ラジカセから、救急車のサイレンみたいな音が聞こえる。
思えばみんな、誰かと目を合わせないようにするために、スマホに目を落としたり、本を読んだり、寝たふりしたりしてる。
ウサギみたいな人、ネズミみたいな人、理由なんかないのに、理由を探してる。
男として生まれたこと、女として生まれたこと、猿みたいになったこと、ネズミみたいになったこと、ウサギみたいになったこと、蛇みたいになったこと。
奥田さんの顔にヘラクレスがくっついたことにも、理由なんかない。あったのかもしれないけれど、そんな理由、知らないし、知りたくもない。
そうやって僕も奥田さんも、絶対に衝突しない電車みたいに、絶対に交差することなく、ただ一切をやり過ごしていく。
「奥田さん、病院には行ったんですか」
奥田さんは、電波塔の向こうの夕日に照らされて、赤く滴り続ける血を光らせながら、言った。
「行ったけど、これでいいんだってさ。ちょっとイカれてるくらいが、いいんだって」
蛇だしね、と寂しそうに、奥田さんは笑った。
笑った瞬間にまた血が飛び散って、てんやわんやの大騒ぎ。僕のラジカセにも、その血が飛び散って、盛大に僕のラジカセが真っ赤に染まったから、僕も一瞬、これは壊れたんじゃないかと冷や汗をかいた。
次の駅で降りるんだよ、と奥田さん言った。
君はどこまでいくの、と痛み止めを水なしで飲み込みながら、奥田さんは言った。
「次の次の駅ぐらいで」
「何しにいくの」
「買い出しに」
そっか、と奥田さんは言った。
奥田さんは、僕が大音量で音楽を流しても、全然怒らなかった。いい曲だねって、一人、笑っていた。
そんな人が、いきなり、物理的に笑えなくなってしまったのは、少し悲しかった。電車の床は、まだうっすらと赤い。
「じゃあ、また。元気でな」
僕は、自動ドアの向こうで軽く手を振る奥田さんに手を振りかえしてから、少しの間、魂が抜けたみたいに俯いた。
電車を降りて、駅前の街はもう暗かった。銀河の星みたいに、街灯とか、ネオンの光が光っていた。それは歩くけば歩くほどに、渦を巻いて、無重力になって、ゆらゆら揺れ続けた。
鼓膜を揺さぶるくらいの音楽が、ずーっとリピートされて再生されていて、人の話す音も、バスのエンジン音も、横断歩道の鳥の囀りも、その音楽の中に飲み込まれていく。
そんな時に、僕はふと思うのだけれど、本当の人間って、いったいどこにいる?
辺りを見回しても、ウサギみたいな人ネズミみたいな人、龍みたいな人蛇みたいな人、猿みたいな人。
そういう人たちが、渦を巻いて、無重力になって、街の光の中に消えていった時に、僕という猿みたいな人が、ただ一人取り残されて、道路の隅っこにできた水溜りを、ちょっと見下ろしてみて、ああ、やっぱり猿だな、と一人、落胆して、僕もこの街の無重力の中に飛び込んで、ブクブクと、泳いでいきたい、本当の人間とか、本当の言葉とか、本当の音楽とか、本当の、本当の、みんな本当なのに、本当だから、本当じゃないのかもしれない。
ブクブクと泳いでいく。昔から、泳ぐのだけは得意で、体育の先生から、お前はずっと泳いでろと言われたのを思い出した。
そのまま、帰り方がわからなくなって、途方に暮れた僕は、行けるところまで突っ込んでしまえと、訳もわからず、がむしゃらに、泳ぎ続けた。
パンダリズム 心太 @today121
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