パンダリズム
僕の部屋の出窓は、三枚のガラスが向かい合うように設置されていて、その両側の二枚に取っ手がついていて、開くようになっているのだけれど、左側の窓が今日の朝壊れた。開けようと思って、取っ手を捻ろうとしたら、取手がぽろっと外れてしまって、根本からぼきりと折れてしまっているのがわかった。
面倒なことになった。
これから病院に行かなければならないのに。
僕はオオカブトムシがくっついたままの頭を、重そうにもたげながら、業者に電話をかける。
午後に約束をして、痛む顔を摩りながら、病院に出かける。
外は快晴だった。案の定、台風は直撃しなかった。一昨日の午後ぐらいに来ていたみたいだけれど、全然わからなかった。ただ雨が降ったり止んだりして、薄気味悪いくらいに、ジメジメしていた。
朝起きた時に部屋が息苦しかったのは、そういう感じで、今日だけまた、真夏日に戻ったからかもしれない。まるでタイムマシンで、八月の真ん中くらいに戻ったみたいだった。
カブトムシを顔に引っ付けたまま街を歩くのは苦痛でしょうがなかった。こんな苦痛を味わうために、何年も何年も、苦しみを耐えてきたのかと思うと、何だか憂鬱だった。
すれ違う人すれ違う人、僕をみて、言葉になるかならないかの微かな声で、陰口叩きながら、過ぎ去っていく。
もう終わりにしたい、そのために病院に行く。多少の痛みなら、全然耐える。好奇心で張り付けてしまったカブトムシを、顔から引き剥がすためなら、何でもする。お金も出す。
ただ一つだけ、道端でばったり、あの父親に出会さないか、それだけが、気がかりだった。
会ったところで、適当にはぐらかすしかないのだけれど、どう見たって、不自然だ。ちょうど、息子のヘラクレスが居なくなって、それとほぼ同時に、顔にヘラクレス引っ付けた僕が歩いていたら、どう考えても、疑われる。
僕は、パーカーのフードを目深に被って、マスクを目元ギリギリまで引き上げて、このクソ暑いのに、冷や汗かきながら小走りで病院に向かう。警官が見たら間違いなく職質されると思う。なるべく、気配を消して、物陰に隠れながら、病院に駆け込んだ。
「カブトムシ、ですか」
僕は、顔が熱くなるのを感じながら、弱々しく、はいと呟いた。
「最近多いんですよね、顔とか腕にカブトムシがくっついて、そのまま取れなくなるって」
いや、そうなのかなと思って、本気で多いのか、気を使って言ったのか、細かいことをちみちみ気にしていたら、先生がものすごく重要なことを言っていたのに、聞き逃した。
「そういえばね」
先生は一通り書き物を終えたところで、僕に向き直った。
「この間、パンダの子供が抱きついて離れなくなった飼育員さんが担ぎ込まれてきた事があってね」
後ろで、助手の看護婦さんが笑い出した。
「あれは困ったよね」
パンダの子供、と僕がつぶやくと、先生は僕の顔に引っ付いたヘラクレスをむんずと掴んで、少し困ったように頬を人差し指で掻き始めた。
「これも相当難儀しそうだよね」
それ以上触られると、激痛が走りそうだったので、僕は堪らず話題を逸らした。
「その、パンダはどうやって、引っぺがしたんですか」
徐に立ちあがった先生は、振り向きざまに、笹の葉でさ、こう、釣って、と悪そうな顔をしながら、カーテンの奥の治療台の方に消えていく。
嫌な予感がしてきたところで、早くこっちと促されて、僕はその寂れた治療台に腰掛ける。
治療台の上に寝そべりながら、僕は笹の葉を食べるパンダの姿を想像していた。
そうすれば、気も紛れる気がした。もしかしたら、先生が気を紛らわすために、わざと嘘をついたのかもしれないと、どうでもいい人の悪意を敏感に感じ取っては、はあ、とため息ついて、どうでもいいから早く終わって欲しいと力なく外の景色を眺める。
飛行船が飛んでいた。ちょうど飛行船には、パンダのマークが描かれていた。あれは確か、アメリカにある中華料理屋のマークじゃなかっただろうか、何とかエクスプレス、何だっけ、と考えている間にも、ガチャガチャと何やら物騒な音がする。
ドカドカと重いものを運ぶ音やら、しまいには、歯医者が使うドリルの音みたいなのまで聞こえてきて、僕は、思わず震える口元をグッと噛んだ。
「お待たせしましたね」
あれだけめちゃくちゃな音を立てていたのに、先生が持ってきたのは銀のプレートとその上に何本か置かれたメスとハサミぐらいだった。
「さっき説明したかもしれませんけど、麻酔は使えません。この間同じようにカブトムシが顔にくっついた小学生の男の子も耐えられましたから、そんなに苦労しないでしょう」
よく見ると、本当に悪い顔してるなぁ、と僕は先生を見上げた。
何人見殺しにしたんだ。
先生が僕の枕元に立った時、アルコールの匂いが、ツンと鼻をついて、貞子みたいに、グッと下を見下ろした白眼の浮き出た血管、一生忘れられそうもない、そう思っているうちに、冷たい刃先が、僕の目のすこし下くらいに、ブスリと食い込んで、激痛を絵にかいたみたいに、真っ赤な鮮血が、先生の顔に、ビシャっと跳ねた。
家に帰って、テレビを付ける。そうするとちょうど、保護されたパンダの子供を育てるドキュメンタリーみたいな番組がやっていて、僕は目をしばしばさせながら、空を見上げた。
飛行船は相変わらず、ふわふわと熱帯魚みたいに浮かんでいる。新装開店したレストランの宣伝みたいだった。
行ってみようかとも思ったけれど、生憎僕の顔はもう人間のそれではなかった。
鏡に立って、僕は思わず悲鳴をあげて、鏡をグーで殴って割ってしまった。
カブトムシが居た部分は、血が死んで黒ずんでいて、縫合した跡だらけになった顔は、まるでフランケンシュタインだった。
もともとかなり醜い顔だったけれど、この怪我でもっと汚い顔になってしまった。小さな子供が見たら、泣くかもしれない。
それに、しばらくの間は笑ってはいけないときつく先生に言われてしまった。
広角を上げようとすると、顔全体がぐにゃりとずれるような感覚があって、それから激痛が走り、血が噴き出す。
その度に、痛み止めを飲んで、顔にタオルを巻いて血が止まるまで安静にしているしかない、そんな感じだった。
これがあと一ヶ月ぐらい続くのだと思うと憂鬱になった。足元で僕の鞄に顔を突っ込むヘラクレスが、心底憎たらしく思った。
でももう仕様がない。自業自得だ。
それから少しすると、取手の修理屋がやってきた。ぼくは思わず、息を飲んだ。
「あ、先日の」
青い作業着に身を包んで、ガチャガチャと腰のポーチにラジオペンチやらモンキーやらを挿した男は、この間の父親だった。
少し困った顔をした父親は、僕の顔を見た瞬間、まるで妖怪でも見たように、一瞬固まった。
僕は今にも心臓が止まりそうだった。
咳払いをして、深呼吸したあと、屈託ない笑顔で父親はお辞儀をした。
御用命ありがとうございま、とまで聞いたところで、僕は足早に居間に引き返し、慌ててバックと戯れているヘラクレスをそのままバックに押し込み、チャックを閉める。
「あの、どうかなさいました?」
い、いえ何も。
と言いかけたところで、顔がズレる感覚がした。愛想笑いを反射的にしてしまった瞬間、傷口が思い切り開いて、爽やかな秋空と、それに似た綺麗な青い作業着に、僕の真っ赤な鮮血が、ビシャっと飛び散った。
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