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 まるでスローモーションのようだった。

 頸動脈から噴き出す鮮血は作り物めいて、冗談のようにすら見える。噴き出した血を浴びて呆然と立ち尽くす警官は、役に立たなかったナイフをまだ構えていた。その手も、ナイフも、血にべったりと濡れている。そのシーンだけを切り取れば、あたかも彼が凶悪犯を誅殺した英雄のように見えた。

 ラスはピクリとも動かなかった。

 蛇口をひねったような勢いで断続的に温かな体液が吹き出し、弧を描いて、ラス自身をずぶ濡れにした。が、それもたったの数秒のことで、優雅に両腕を広げて、まるで空に舞うように、ゆっくりと天を見上げて、仰向けに、美しい男は倒れていった。

 ──そこで、クラウディウス・ファウストは撮影を終えた。カメラを破壊された景色に向け、揺らめく炎と吹き上がる消火栓の水飛沫、今にも崩れ落ちそうなビルと一通り派手な画を撮りながら、余韻を残して、密やかに……

 ソロモンは弾かれるように駆け出した。血に汚れるのも構わずラスの体に縋りつく。

 ああ、と呻きが零れた。

 ああ、ああ、ああ……

 やっと、つかまえた……

 もう自分だけのものだ。

 永遠に、自分だけのもの。

「ラス……」

 ソロモンは、初めて、ラスを抱きしめた。

 頸動脈を切断されると十数秒で意識を失うと言う。もう、その程度の時間は経った。心臓はまだ弱く拍動しているが、それもじきに止まるだろう。血は、まだ溢れている。人は約二リットルで失血死する。頸動脈から流出する血液は、およそ一分でその量に達するとも聞いた。

「ラス……ラス……」

 ソロモンは動かないラスを抱きかかえて、優しく呼びかけ続けた。

 もしも彼に意識があったなら何と言っただろうか。ラス・マドリガルは最愛の人の胸に抱かれて死んだ、と豪放に笑っただろうか。それとも、やっぱりおまえは俺が好きなんじゃないか、と皮肉に……

 ギムレイは、わなわなと震える両手を面前に差し出して、溺れて窒息する者のように喘いだ。

「僕が、やった……」

 そうだ。自分が殺した。ラスの頸動脈を、〈能力〉で──風の刃で切り裂いてしまった。考える間も無かった。反射的に、衝動的にやってしまった。

「彼を殺してしまった。そんな……そんな……なんという事を……」

 赦されない。恐ろしい。罪深い事だ。衝動で人の命を奪うなど正義の名に悖る。赦されない。赦されない。決して……

「なんという事を……」

 ギムレイは戦慄き、両手で顔を覆った。

 彼はソロモンを尊敬してきた。今、彼がしたことは、かつてソロモンがしたと同じ事。ソロモンを人殺しと陰で謗る者もあったが、ギムレイは一度として同意したことは無かった。あのテロリストを殺害した行為は正当防衛である。それに、フィーネの仇を討ってくれた恩人だ。ソロモンに伝えたことは無かったが、その恩義の為に、ギムレイは、ソロモンが望むなら何でもしようと決めていた。そのソロモンの命を救ったのではないか。

 それなのに、恐ろしい──

 人を殺した。殺してしまった。根源的な嫌悪と恐怖が渦巻き、ギムレイを呪う。

 もう、今までの自分ではいられない……

 二度と幸せには笑えない。顔を上げることなど出来ない……

 ああ、もう世界を愛せない……

 絶望に、声も無く慟哭したとき、肩に優しく手が置かれた。

 銀色の髪が緩やかな風に揺れる。〈彼女〉によく似た暗い海のような瞳が、じっと彼を映していた。

「ギムレイ……いいのよ、いいの。苦しまなくていいの」

 座って、と戦闘の余波で転がってきた椅子を立て直し、ギムレイを誘う。

「でも……」

 いいから、と強引に手を引かれる。椅子に座ると、慰めるように頬を撫でられ、背もたれに体重を預けるよう促された。従うと、そっと目元に手を翳される。目を閉じろ、という意味だろうか。

「シスター・セレン?」

 淡く問いかけた時、天が裂けるような無音の落雷に撃たれた。


   †††


 遠くから微かに警察車両のサイレンが響いてくる。もうすぐ、殺害された彼等が車を降りる直前に呼んだ応援が現場に到着するだろう。犠牲にならずに済んだ運の良い人々……

 横転した車のエンジンから引火した炎は次第に燃え広がり、舐めるようにビルの壁面を這い上がっている。チラチラと火の粉が散り、焦げ臭い黒煙が辺りに漂い始めていた。

 小路の入口には無残な遺体が転がり、血溜まりを作っている。ただひとり生き残り、英雄に仕立て上げられた警官は、いまだ血塗れのナイフを握って惚けたようにしゃがみ込んでいる。

 ラスは小路の中央に横たわり、ソロモンは彼の頭を膝に乗せて抱いていた。二人とも、全身が鮮やかな赤い血に染まっている。

 撮影を終えたファウストはねぐらの裏口からとうに脱出しているはずだ。映像は確認していないが、失敗したと言わずに消えたということは成功したのだろう。

 ギムレイはうたた寝でもするように椅子に深く腰掛けている。昨日、ファウストが座っていた椅子だ。ギムレイが座ると随分上等な品に見える。

「綺麗な子ね……」

 一点の血にも汚れていないギムレイは、相変わらず絵本の王子様か天使のようだ。キラキラと純金を溶かしたような金髪が輝き、彼の周囲にだけ眩い陽光が射したような錯覚を覚える。

「綺麗過ぎて、血塗れの私達が触るのは恐い気がするわ」

 自身も血の汚れを浴びていないシスター・セレンが独り言のように暗喩を呟き、

「そうね……」

 ソロモンは、ラスを見詰めたまま頷いた。

 シスター・セレンが何か慰めを口にしようとした時、ファウストが逃げたであろうビルの、おそらく裏口から、黒いスーツを上品に着込んだ浅黒い肌の大男が現れた。二ブロック先に待機させておいたソロモンの護衛の一人である。シスター・セレンがソロモンの端末を使って呼び寄せた。彼女が目の動きだけでギムレイを指し示すと、彼は無言で金髪の青年にフード付きのコートを着せ、美しい顔と特徴的な豪奢な髪を隠した。そのままギムレイを抱きかかえ、来た道を戻って行く。警察が到着する前に、地元民しか知らない裏道を通って密かにギムレイを連れ出すのだ。離れた場所にジャンヌ・ダルク・コーポレーションの車も用意させてある。そこにはソロモンの第一秘書も待機しているはずだ。その足でギムレイを系列の病院へ運ぶよう、あらかじめ指示してあった。

 これで、ギムレイ・ワイズマン──シグルト・コミューンの御曹司は、ここに存在しなかったことになる。

 ともかく、やるべき事は、やった。

 それにしても、あのクールビューティーのソロモンが全身血塗れで見れたものじゃない。

「あそこに噴水も出来ているし、構わないからすすいできたら?」

 壊れた消火栓を指して彼女は言った。ラスの顔も洗ってやれば、という含みを込めて。

「ポリスに現場保存がどうとか言われたら、それこそ、あなたの権力で黙らせればいいのよ。彼は元クラスメイトなんだし、不幸な再会をしたとはいえ、その程度の情は、まあ、不自然じゃないと言い張れるわよ」

 ソロモンは、そうだね、と言ったがラスを抱いたまま動かなかった。

 ふう、とシスター・セレンは溜息を吐く。こんな場面は昔もよく見た。そう、力を振るって生きる道ではよくある事だ。だからソロモンは立ち上がる。大丈夫だ。この程度で立てなくなるわけがない。

「少し、講義をしてあげる……」

 シスター・セレンは独り言のように、現状にまったく関係の無いことを淡々と語り始めた。

「ペリクレスだけが何故、民主制のアテネで三十年以上にもわたって僭主としての権力を維持できたと思う? 彼は民衆に愛されたの。きっと弱味を見せるのがうまかったからよ。民衆は完全な支配者が嫌いなの。どんなに能力が高くても、どこかしら不完全でさえあれば、対等だと思って満足する。対等な相手になら恐怖も感じないし、支配はされないと安心するのね。だから、ソロモン、うまくペルソナを被り続けなさい。目先を逸らしてやれば彼等は決して真実には気付かない。民主制なんてものは所詮、虚構の制度なのよ……」

 ソロモンが聞いていようがいまいがお構いなしで、その声は聖書を暗唱するように静かに、淡く、遠く、微かに響いた。


   †††


 警察と消防は現場に駆け付けた時、その惨状に戦慄した。若いポリスは嘔吐し、辛うじて耐えた者達も青褪めて言葉を失った。

 更に事件現場に〈ソロモン・アスカリド〉を発見した彼等は、要人暗殺テロをも疑ったが、ソロモン自身の供述で、不幸な偶然、と納得した。友人のシスターと共に貧しい人々へのボランティアで訪れた場所で、偶々オストロス刑務所を脱走した囚人と遭遇し、あわや殺害されそうになった、と……

 幾分落ち着きを取り戻した現場責任者は、

「ミスター、お着替えを用意いたしましょうか?」

 と、ひどく丁寧に尋ねたが、ソロモンは首を振って断った。

 そして、ラスが黒い化学フィルム製の遺体収容袋に入れられ、無造作に運ばれていくのをじっと見詰めていた。

「ここに居たのはお二人だけですか?」

「ええ、そうです。いつもこの辺りに友人達がいるはずなんですけど、今日はどういうわけか居なかったんです。他の地区で炊き出しがあるのかもしれません」

「そうですか……」

「彼等が巻き込まれなくて良かったですわ……」

 沈痛な面持ちで語るシスター・セレンに、ポリスは頷きながら、そうですな、と人の好い返事をした。


   †††


 ギムレイは、〈オラクル地区〉にあるジャンヌ・ダルク・コーポレーション系列病院のベッドで目を覚ました。付き添っていた看護師が慌てて医師を呼びに走る。その部屋は、消毒薬の臭いがしなければ、ホテルと見紛うような贅沢な個室だった。豪華な応接セットまで設えられている。

 時刻は午後八時を回ったところ。陽はすっかり暮れ、白いカーテンがかかった窓の外には、ダークブルーの宵闇が広がっていた。星ひとつ無い曇った夜空。結局、雨は降らなかったようだ。

 視線を移すと、足元には星の海のようなディアナポリスの街が広がっている。乱雑で、濃密で、華麗で、自由だ。今にもネオンの熱帯魚が迷い出てきそうな幻想的な風景である。

 軽いノックの音が響いて医師と共にソロモンが現れた。

「突然倒れたから心配したのよ。念の為に検査入院だって」

 あっ、とギムレイは顔色を変えて叫ぶ。

「犯人は?」

「大丈夫。もう終わったのよ……」

 ソロモンは飛び起きようとするギムレイの肩を抑え、努めて穏やかな声を出した。

「でも……」

「犯人は死んだわ」

「え……?」

 ギムレイは、警察官三人が犯人に殺害される前後から、事件の経緯を全く覚えていなかった。ソロモンと同行した医師から精密検査の結果を説明され、どこにも異常は無い、軽い脳震盪だと診断された。そのせいで少し記憶の混濁が起こっているのだろう、とも。

 医師は、お大事に、と優しい笑顔で挨拶して退室して行った。

 困惑するギムレイに、あなたが犯人を足止めしてくれたお陰で自分たちは助かった、とソロモンは説明した。彼はとうに警察の聴取を終え、シャワーを浴びて身支度を整えていた。血の名残はもう無い。

「ラスは三人のポリスを殺害した後、私とシスター・セレンに向かってきたわ。辛うじて彼女の防御障壁で攻撃を防いだけど、彼のスピードが速すぎて、私の火炎の〈能力〉では反撃が出来なかった。逃げようとしたけど、犯人が追いかけて来て、あの小路を滅茶苦茶に破壊したの。追い詰められた時、あなたが攻撃を仕掛けてくれて、犯人の気が逸れた。でも、今度はあなたが危なくなって……」

 ギムレイは不思議そうに瞬きをした。ソロモンの話にまるで実感が湧かない。他人の身に起きた話を聞いているような気分だった。

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