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 破壊された消火栓は間断無く激しい水飛沫を撒き散らしていた。スコールに似た音が耳障りに響く。

 立ち昇る水柱の向こうから、ゆっくりと男がこちらを見た。白い水煙がけぶって顔は見えない。しかしその瞬間、彼が笑っていると直感した。目に映らなくとも本能がそうだと告げたのだ。

 ぞわり、と背筋に悪寒が走る。得体の知れない恐怖と嫌悪が肌を這い上がる。ギムレイは無意識に半歩の距離を後ずさっていた。

 ハッ、と周囲を見回す。

 状況を把握しなくては……

 シスター・セレンはギムレイの隣にいた。ソロモンは後方、小路の奥に近い方向に一人離れて立っている。

 男は静かな足取りでゆっくり近付いてきた。降り注ぐ水飛沫を大回りに避けたから、より一層、歩く姿が優雅に映る。

 十メートルほどの距離を置いて男は立ち止った。正面から向かい合う位置になって、その端正な顔がはっきり見える。

 ラテン系特有のオリーブ色と称される艶やかな肌。緩く波打つ黒髪が額にかかり、青味掛かった瞳は夜空のように深く澄んでいる。憂いを湛えた皮肉めいた表情。男性的な強い輪郭。美しい鼻梁。薄い唇は不思議と官能的で、欲を舐め取るように舌が、ちろり、とその端をなぞった。

 纏っている衣服は着古しているように見えるのに、立ち昇る気配も仕草も嫌味なほど気高い。長いコートの裾が、王のマントのように威厳を放ってひるがえった。

 男は、目の前の三人をひとしきり眺めて、ひたと視線を一人に据えた。射るように見据えられて、ソロモンの手から通話中の端末が滑るように落下する。

「ソロモン? ソロモン・アスカリドか!」

 ぱっと喜色が男の満面に散った。

「まさか、こんな場所でおまえに会えるとは。神に感謝しなければ」

 男は両腕を広げ、懐かしい友と再会した人物が自然にそうするように笑った。

「ラス……」

 ソロモンは怯む。怯まずにはいられない。彼が、再び目の前にいる。記憶を消されても、昨日と同じように、懐かしい、愛しい、とそんな眼差しで自分を見る。

 なんという誘惑……

 二度目でなければ、この場で崩れ伏してしまったに違いない。

 来たのだ。彼は本当に来たのだ。ここに。この場所に。

 ソロモンが、死の罠を張った舞台に。

 どうやってここまでたどり着いたのだろう。彼の足元は酷く汚れていた。シスター・セレンが手配した車を盗んでハイウェイを通って来たのだろうが、その後どこかで乗り捨てたのか、見える場所に車の影は無い。操られるまま、どんな思いでここまで来たのか……

 なんとも言えない感情が込み上げる。怒涛のような激しいうねり。

「知り合いなんですか?」

 青褪めるソロモンに、ギムレイが不審の問いを発した。

 ええ、とソロモンは短く答えて、唇を引き結ぶ。血を吐くような思いで、激しい動揺を飲み込んだ。

「どういう事です?」

「彼はラス・マドリガル。私のハイスクール時代のクラスメイト。そして、懲役二百年の連続殺人犯。オストロス刑務所に収監されていた……」

 それだけ告げて、再びソロモンは沈黙した。

「まさか、さっきのニュースは?」

 ギムレイが疑問を投げ、

「ええ、彼がニュースの脱獄犯に間違いありません」

 シスター・セレンが断言した。

 彼等の遣り取りを、ラスは困ったような微笑を浮かべて聞いていた。長い髪を鬱陶しそうに指先で除ける。首筋から背後にその一房を流して、内輪話はもういいかい、とでも言うように唇の片端を上げた。艶めかしい仕草。色気を纏うとはこれを言うのだ。

「ああ、ソロモン、やっぱり綺麗だ。今でも綺麗だよ」

 歌うように、昨日と同じ言葉。彼は忘れてしまったはずなのに、繰り返す。

「ラス……」

 慟哭にも似た愛しさが、瞬間込み上げて、喉に詰まった。

「どうした? 再会を喜んでくれないのか? さあ、ハグをさせてくれ」

 じわり、と額に汗が浮く。彼は、ソロモンを抱いて、そのままくびり殺すつもりだ。

 どうする、とシスター・セレンを見ると、彼女もまた迷いの表情を浮かべていた。防御障壁を使うか否か、決めかねているのだ。使えば、犯人の他にも〈ディアボロ〉がいると露見する。カメラはもう回っている。舞台の幕はとうに上がっているのだ。

 手詰まりに思えたその時、ようやく待ちに待った音が響いてきた。

 けたたましく響く悲鳴にも似た警察車両のサイレンの音。警戒を煽り、緊張をより一層強いる。

 ちっ、と鋭い舌打ち。ラスが忌々しげに首を回す。邪魔を厭うて苛立つ獣のように。

 白と黒に塗り分けられた車が二台、青く明滅する警告ランプを灯しながら、滑るように小路の入口に走り込んで来て急停車する。軋むタイヤの蹂躙で、道路に溜まった雨水が弾ける銀になって飛び散った。

 バンッ、と乱暴にドアが開かれ、勢いよく警察官達が飛び出す。

 四人。全員壮年の男だ。鍛え上げられた逞しい体をしている。

 彼らは開いた車のドアを盾にして、マニュアル通り光学銃を構えた。

 シスター・セレンはそれを見てやっと満足気に口元をほころばせた。夜の海がうねるような妖艶で凄惨な笑みだった。

 ──ああ、遂に、舞台は整い、役者も全て出揃った。


   †††


「両手を高く上げて、足を開け。抵抗すれば撃つ! 聞こえないのか! 両手を高く上げて足を開け!」

 ドラマの台詞のように、警官は有り触れたチープな警告を発した。

 ゆらり、とラスは振り返った。

 流麗な動きは酷く蠱惑的で、幻でも見ているようだ。ふわりと長いコートの裾が風を孕んで舞う。

 青い光が弾けた。

「マズイッ!」

 助けなければ──

 いや、しかし、彼女は防御障壁を張るから動くなと言った──愚かで場違いな思考が刹那の瞬間ギムレイの脳裏をよぎる。

 それは誓って一瞬だった。

 ギムレイは迷わなかった。迷わなかったと言っていいはずだ。即座に覚悟を決めて飛び出した。

 しかし、出遅れたコンマ数秒が命運を分けた。迷いとも言えぬほどの些細な迷いが、ほんの一瞬ギムレイの足を縛った。それだけだったのに……

 行動は遅きに失した。


   †††


 ──次の瞬間。

 ラスが目の前から消えた。

 濡れた物が潰れる鈍い音が連続して、それから赤い飛沫が散る。何が起きたのか、見えない。分からない。

 瞬きをした後、三人の警官の姿が消えていた。いや、正確には倒れていた。元居た場所に崩れるように。

 ラスは、さっき居た場所から十メートルほども離れた場所に忽然と立っていた。青い燐光が恒星のコロナのように噴き出している。

 ギムレイは攻撃の勢いを奪われてまろぶように立ち止まる。二歩、三歩、ふらふらと歩き、立ち尽くす。

 速い。そして、圧倒的な破壊力。青い光の残像を目で追うのがやっとだった。発動の瞬間は、見ることすら……

 至近であの能力を向けられたら避けられない。上空へ飛んで距離を取るか? しかし、それでは反撃が間に合わない。あのスピード。ならばこちらも相手の思考反応が間に合わないほどの至近から奇襲を掛けるしかない。

 習い性になった戦況分析が素早くギムレイの頭を巡った。それから、ハッ、と警察車両のドアの陰になった路面を見る。

 人間が不自然に倒れている。あるべきものを失った部分から血が流れている。ゴポッ、と一瞬、そこから奇妙な噴出が起こった。赤い奔流が溢れて、溢れて、あっと言う間に、三つの血溜まりが出来る。

 あ……

 ああ、間に合わなかった。間に合わなかった──

「貴様ぁぁぁっ!」

 ギムレイの絶叫。

「なぜ殺したっ!」

 ぶわっ、と彼の体から青い光が弾けた。渦を巻いて風が吹き出す。

「ギムレイ! 待って、駄目。彼は速い! 正面から突っ込んでも勝てないわ。皆で力を合わせるのよ! 自重して!」

 シスター・セレンの悲鳴が響き、またもギムレイの足を縛る。彼女の言は、完全に間違っている。戦場で流れを止めることほど愚かなことは無い。ギムレイは無闇に従ってしまった自分に歯ぎしりしたが、止まってしまった以上、次の一手を待つ形勢になってしまった。

 ラスはそんなギムレイには構わず、祈るように両手の指先を唇に当て、光を仰ぐように天を仰いだ。そこは絶望的に暗く曇った黒い空。

 ディエゴ・ベラスケスが描くキリストのように官能的で優美な、甘い、苦悩の表情。

 肌に散った赤い色が、風に吹き散らされた薔薇の花弁ように匂い立つ。

 視線が流れる。小路の奥へ。

 ソロモンへ……

 薄く、唇が動いた。何か言っているのだ。

「ラス……」

 ソロモンは我知らず呟いていた。

 ああ、ラス……

 彼の声が聞こえないことが、死よりも辛い。ソロモンは両手を差し出す形で震えた。

 一番左端に居た警官一人だけが、無表情で立っていた。彼だけが、まだ生きている。なぜか。シスター・セレンがラスに暗示をかける際に、警官を一人残すよう指示したから。ただそれだけの幸運。問う者は無く答える者も無いが……

「走って! 早く! こっちに来るのよ!」

 生き残った警官に向かってシスター・セレンは叫んだ。この指示も間違っている。袋小路の奥へ向かって逃げ込むなど自殺行為に等しい。自ら罠に飛び込むようなものだ。冷静な状態なら彼は従わなかっただろう。しかし、彼はすでに冷静でなく、彼女の声には抗い難い魅力があった。

 警官は転がるように走り出し、シスター・セレンの横に荒い息を吐いて倒れ込んだ。

 警官を助け起こし、シスター・セレンは彼に鈍い鉛色のナイフを手渡す。女性が護身用に持つ類の装飾刀だ。

「無いよりはマシでしょう」

 言うと、警官は恐慌を来した目で頷きながら押し抱いた。不意に、ブルッと感電したように全身を震わせる。そして、次の瞬間には表情を失った。

 最後の駒を……

「ソロモンッ!」

 女の声で名を呼ばれて、ソロモンは唐突に現実感に襲われた。人が死んだ。目の前で、また、殺された。ぶわっ、と突風のように足元から頭の天辺へ向けて、その感覚が駆け巡る。鉄錆に似て、その癖、饐えたように甘い臭気が鼻孔いっぱいに広がった。

 ──血腥い。

 ぐっ、と反射的に戻しそうになる。

「吐くな、ソロモン! 黙って前を向いて立っていろ!」

 言葉の鞭。シスター・セレンの鋭い怒声がソロモンを打ち据える。立っていろ。お前が望んだことなのだから。すべてを網膜に焼き付けて、真っ直ぐに見ていろ。そう残酷に命じる。

「ギムレイ、あなたも! もう動かないで! 動かれると空間認識が狂う!」

 青い燐光が彼女の瞳に燃えていた。能力を発動させようとしているのだ。

 強い力が行使される。つまり、防御障壁が。

 動くな。動かなければ護られる。

 ゾッと背筋に震えが走った。

 ギムレイの脳裏に、少年の頃フェンシングの試合で対戦相手にこっぴどく打ち据えられた時の記憶が駆け巡った。成す術無く敗れ、そして自信を失って、何も出来なくなっていた。動けなくなっていた。そんな絶望的な気分の時〈彼女〉が勇気をくれた。真剣に励ましてくれた年上の幼馴染みフィーネ・ハイゼンベルク。憧れのエヴァ・プリマ。愛しい初恋の人。彼女のお陰で自分を信じて努力を続ける気持ちを取り戻せた。挫けた心の呪縛から抜け出せた。自由になれた。動けるようになったのだ。

 彼女はもういないが……

 だからこそ、もう二度と、動けなくなるのは嫌だ。

「ギムレイッ?」

 足は自然と動いていた。考えるより先に。

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