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 ──翌朝。

 前日から降り続けた霧雨は止んでいたが、空は薄く墨を流したように曇っていた。分厚い雲が上空に重く居座っていて、夜が明けたというのに辺りが暗い。雲は流れていないように見える。淡い雨の前線が停滞しているのだ。

 けれど、目が覚めたとき、彼はなぜかとても晴れ晴れとした気分だった。

 鉄格子の嵌った窓から差し込む光は弱く、監房も相変わらず寒々しく薄暗かったが、夜明けの光明を見たような気がした。

 ずっと濃密に立ち込めていた暗い霧が晴れたような、ドロドロに濁っていた水が一気に浄化されて透き通ったような、奇妙にクリアな多幸感、一点の曇りも無い青空に遥か高く舞い上がるような昂揚感がある。

 ラス・マドリガルは感嘆の溜息を吐く。

 ああ、歌でも歌いたい……

 ふと、ある人物の顔が浮かんできた。綺麗な少年だった。彼が、生涯で唯一人愛した相手。

 ソロモン・アスカリド。

 サラサラと揺れる絹のような黒髪。象牙色のしなやかな躰は華奢で繊細な彫刻のようだった。自分より低い所から、堂々と生意気な視線を投げてきた、あの強い意志を秘めた瞳。アメジストのように蠱惑的で、その癖、清廉に透き通った光に揺れていた。潔癖でありながら、目的を遂行する為には手段を選ばない冷徹さと情熱を予感させる、刺すような眼差し。

 あの瞳に、惹きつけられ、虜にされた。

 彼の細い首に牙を突き立てる様を何度妄想したことか。

 彼の成長した姿もメディアで見た。犯罪者仲間は、昔の少女のようだったソロモンと見比べて、野郎になって見る影も無い、と酷評したが、ラスはそうは思わなかった。彼の目に映るソロモンは、相変わらず美しかった。あの瞳は少しも色褪せていない。女言葉のふざけた態度の向こうに、変わらない光。目を灼いて、心を抉る。

 会いたいな、とそんな言葉が零れた。

 行こう。今日なら、会える気がする。

 もしも今日ソロモンに逢えたら、いいかげん自分のものにしよう。彼を殺して、自分の腕に抱く。もうこの衝動を押し殺すのには飽きた。疲れた……

 手に入らない面影を求めて、似たような容姿の女を何人も抱いた。男も試してみたことがあるが、ソロモン以外には遂に自分は反応しなかった。やはり性的には女が好きなのだと思い知り、それほどにソロモンが特別だったと痛感した。あれでなければ駄目なのだ。自分の渇きは癒えない。他の誰も癒してくれない。救ってくれない。赦してくれない。

 ソロモンを殺して、自分だけのものにする。考えたら胸の奥が濡れて震えるような気がした。

「俺はおまえに人生の全てを捧げたんだ。そろそろご褒美をくれてもいいだろう?」

 かつて、美しい季節の中で、身を焼くほどに愛した。狂おしく深く盲目的に愛して、溺れ過ぎて、身を滅ぼした。それでもまだ愛している。

 ソロモン……

 もう、赦してくれても、いいだろう……


   †††


 その事件が深刻化したのは不幸な偶然が重なった結果だ。

 神の思召しとしか説明のしようがないと責任者は言った。この場合、責任を負うべき者は二人いた。

 オストロス刑務所長と、ディアナポリス道路交通管制局長である。

 オストロス刑務所では早朝に職員によるサイバーテロが起こり、刑務所員のほとんどが対応に追われていた。その隙を突くように脱獄者が出た。どういう巡り合せか、その囚人の独房に設置された監視センサーだけが故障していたのだ。為に、何時何分、彼の脱獄が決行されたのか正確には分からない。収監されていた監房の壁を、〈ディアボロ〉を使って素手で破壊して逃亡するという雑で荒っぽい手口だったが、防音壁に囲まれた管制棟にほとんどの人員が集っていたせいで、派手な破砕音が響いただろうに誰も気付かなかった。見回りの刑務官が、囚人が消えた事に気付いたのは──午前九時十七分。

 その後、刑務官の一人がプライベートで使用していた車が盗まれている事実も発覚。脱獄犯が逃走に使用した可能性を考慮し、道路交通管制局に通報、協力を要請。

 しかし、同じ頃、道路交通管制局でもトラブルが起こっていた。ディアナポリス全域の要所毎に配備された、端末の下を通過した車両のナンバーと通過時刻を記録する装置とプログラムのメンテナンス中、一斉にシステムがダウンし、データの記録と検索が不可能な状態になっていたのだ。人為的なミスが引き起こしたトラブルだった──これは、ソロモンの依頼を受けてノーラが手配した事故である。ラス・マドリガルを目的地まで警察に阻害されずに到着させる為と、前日からソロモンが使用している社用車の通行記録を抹消する為に、幾分荒っぽい手段を講じた。

 用意されたトラブルであるから、当然、信号その他の管制システムに異常は波及せず、交通そのものに影響は出なかったが、警察関係者にしてみれば道路封鎖は遅きに失し、恥ずべき失態となった。平素であれば五分と待たずにディアナポリス中の全車両の位置をほぼ特定できるはずが、逃走に使用されたと目される車両を完全にロストしたのだ。

 凶悪犯ラス・マドリガル、消息不明。

 ──午前十時十二分。ディアナポリス市内に厳戒態勢が敷かれた。

 警察通信を悲鳴のような指令と怒号が飛び交う。

『逃亡中の脱獄犯を至急発見逮捕せよ!』


   †††


 その朝、ソロモンが見上げた空はどんよりと暗く曇っていた。雨は降っていない。

 憂鬱な天気だが、作戦遂行には最高の状態だ。晴れていれば影による位置の露見と予想外の陽光の反射を恐れねばならず、雨が降っていれば不可視がメリットである気流の刃が雨粒のせいで現出してしまう可能性もある。どのみち、どんな天候であろうと今日決行するつもりだったが、それにしても、この曇天は神の恩寵としか思えない。

 事が済むまでは降らないでくれ、とソロモンは天に祈る。

 気象庁の予報では降水確率は高くない。降るかも知れず、降らぬかも知れぬ。

 暗い雨の予兆のような気配は、彼等の上に不遜な顔で居座っていた。

 シスター・セレンが用意した朝食は軽いクラッカーとポタージュだった。胃に負担をかけない意図で。物騒な気配を感じ取ったのはソロモンだけで、ギムレイは少し物足りなげに質素なメニューを平らげた。

 紳士たるもの、出された食事に文句はつけない。

 それでもやはり足りないようで、朝食後の珈琲を飲んでいる時、ギムレイは少し困ったように唇の端を親指の腹でなぞった。小腹が空いている子供の仕草だ。目敏く見つけて、シスター・セレンは微苦笑を浮かべた。

「ごめんなさいね、ギムレイ。こんな朝食では足りないでしょう。私とソロモンはいいけど、あなたは……」

 男の子だしね、と言いかけてもう一度ひっそり笑う。立派に成長した青年を捕まえて、男の子扱いはマズイ。

「え、いや、そんな……」

 ギムレイは恥ずかしいところを見られたように赤面して後頭部を掻いた。

「出発するまで充分に時間があります。昨夜デリバリーを頼んだバルがそろそろ店を開けますから、もう少し朝食を召し上がっていらして」

「ですが……」

「遠慮なさらないで。今日はあなたの能力に助けて頂かなくてはならないんです。しっかり体力をつけておいてください。一時間以内で戻って頂ければ問題ありませんから」

 そう言われては固辞することもできない。

「そう仰有るなら」

 ギムレイは照れたような笑顔を浮かべて、渋々といった態で席を立った。

「体調はまだ良くないのですか?」

「いいえ。すっかり気分は良くなりました。ありがとう、ギムレイ」

 部屋の中を並んで歩きながら、そんな他愛の無いやり取り。

 ギムレイを玄関でにこやかに見送って、

「さて、と……」

 振り返った彼女は、別人のように剣呑な目をしていた。

「わざとじゃなかったんだけど、朝食を少なめにして良かったわね。つまらない用事を言いつけて外に出さなくて済んだ」

 つまり、ソロモンだけに話したいことがあるという事。ギムレイが不在の隙に、と前置きしてシスター・セレンは自分の〈能力〉の説明を始めた。

 ──それは弱点を晒すに等しい行為だ──

 意外だった。ソロモンは軽い驚きの眼差しで新しい教師を見詰める。まさか、彼女が、自分の能力の特性を教えてくれるとは思わなかった。


   †††


「必要だから教えるだけよ」

 シスター・セレンは不愛想に吐き捨てたが、口元には薄い笑いを浮かべている。弟子の反応を楽しんでいるように。

 ダイニングテーブル越しに向かい合って、珈琲を飲みながらその話は進んだ。

「私は波をただ波のまま受け取れるの。脳波をそのまま感じ取れるって言えば解り易いかしら」

「十分解り難いわよ」

「言語の形を取った思考波だけを読めるわけじゃない、〈能力〉を使えば、ある程度の記憶や思考は本人以上に正確に読み取れる──要するに、なんでも分かるって言ったのよ」

 ソロモンは、あっ、と目を見開く。薄々そんな気はしていたが、改めて言われると気味が悪い。何もかも見透かす相手と同席するのは愉快ではない。読まないでいてくれるだろう、と思ってはいても。

 彼女の説明は淡々としていた。

「私の能力は、空間認識と深く関わっているの。対象がどこにいるか、自分との位置関係を目視で認識できていないと〈洗脳〉は難しいわ。思考を読むだけならば相手の位置を把握できなくても可能だけど、〈言い聞かせること〉は困難になる。洗脳に使う〈能力〉を、射撃の弾丸だと思って欲しい。停止している、あるいは見える速度で動く対象なら狙いやすいけど、目視が困難なスピードで動く対象は狙い難い。時速百キロで通り過ぎる対象に弾丸を命中させるのは不可能に近い──という事よ」

 それから、彼女の〈ディアボロ〉で洗脳対象の行動を事細かく制御することも難しいと言われた。忘れろ、逃亡しろ、このルートを通れ、車や荷物を用意して置け、データを完全に消去しろ、道を塞げ、見るな、あるいは、殺せ、そういった大まかな命令で人の行動を支配することはできるが、その命令を遂行する過程は、ある程度、対象の個性・技能に委ねることになる。だから作戦に必要な技能を持っている人間を選んで駒にするのだ、と。

「ラス・マドリガルに逃走ルートと待ち合わせ場所は指示できた。道も整えた。高い確率で、彼はあの場所に来る」

 ラスが、来る……

「でも、その先は危うい賭けになるわよ。彼はあなたへの執着が強過ぎて中途半端な指示は受け付けなかった。だから、ソロモン・アスカリドを殺せ、という暗示をかけた」

 シスター・セレンは明言しなかったが、恐らくそれは……ずっと昔からラスの心に在った真実の願望。

「本気で殺しに来るわよ」

 オーケイ、とソロモンは頷いた。

「それにしても……性格が悪いな。どうしてもっと早く教えてくれなかったの?」

 これは能力に関しての愚痴だ。

「ちゃんと、私の能力は〈波〉だって言ってあったはずよ」

 波……?

 波がどうして……?

「思考に関わるのは電子を動かす弱い〈波〉。防御障壁はエネルギーそのものの強い〈波〉。高エネルギーの〈波〉を照射して、連続して分子レベルの爆発を引き起こし、その高圧で任意の空間に他の現象が干渉するのを防ぐ、つまり攻撃の侵入を弾く現象が防御障壁なの。力の応用によってはエネルギーをより狭い範囲に集中させて単純に物質を破砕する事も出来る。ちなみに、冷凍食品も温められるわよ」

 最後の一言はシスター・セレンなりのジョークだったが、

「そんな事まで出来るの?」

 呆気に取られてソロモンは目を見張った。

 なんと言うべきか。その万能ぶりが馬鹿馬鹿しくて言葉が出ない。さすが──自ら『最強』を謳うだけはある。眠らないで済むなら…… という彼女の言葉の意味が、初めて実感を伴って胸に落ちた。空恐ろしい女だ、とソロモンは改めて思う。チラリと彼女の表情を盗み見ると、うふふ、と悪戯めいたウインクをされた。

「それはともかく。私には〈能力〉を発動したパワー増幅系の〈ディアボロ〉の攻撃を、読んで避ける、なんていうトリッキーな真似は出来ないわよ。明日、ラスが能力を発動させたら、彼の動きを目で追う自信も無い。だから予め薄く微弱な波の障壁を張っておいて、攻撃を受けた箇所にエネルギーが集中増幅して強い障壁に変化する反射技を使うしかないの。待ちの障壁は都合よく移動させられない。だから、動くな、というわけ。了解?」

 言って、彼女はソロモンの顔を覗き込んだ。暗い海のような瞳に、美しすぎて恐いような光が閃く。なんて鮮烈な……

「了解」

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