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夕食を取りながら明日の予定を話したい、とシスター・セレンは言った。
話すのか、とソロモンが目で問うと、彼女はこくんと頷いた。何を、どこまで、と質す気は起きなかった。彼女は自分よりよほど上手でキレる。任せた方が確実だと思える共闘者は、ノーラの他には初めてだった。
もう時間も遅いという事で、教会の近くのスパニッシュバルから適当にデリバリーして晩餐にしようという事になった。
下町らしい素早い配達が売りだけあって、三十分後にはテーブルいっぱいに料理が並べられた。大皿に盛られた魚介のパエリア、よく煮込まれたビスト・カスティリャーノ、ブロッコリーのトルティージャ、グリルされたチョリソと、トマトのサラダ。それに、良く冷えたシェリーと茉莉花茶。品数が揃えばそれなりに賑やかで美味しそうに見える。
「どうせならゴージャスな食事を振る舞いたいところなんだけど……」
ソロモンが苦笑交じりに両手を上げると、
「今している事を思えば、充分に贅沢よ」
シスター・セレンは是非も無いことを言った。実際の計画に照らしても、ギムレイについた嘘の現状に照らしても、それはそうなのだが、彼女に合わせるとどうにも食事が〈作戦中〉という態でよろしくない。
「ギムレイ。明日、問題のクライアントと接触します」
シェリーグラスから唇を離して、世間話のような気軽な調子でシスター・セレンは話し始めた。
ナイフとフォークを動かす手を止めて、ギムレイは精悍な表情を浮かべる。
「つまり、投降したいと言っている麻薬密売人ですね」
ソロモンが咄嗟に考えた嘘の任務だ。ソロモンとギムレイはマフィアの抗争に交渉人のシスター・セレンが巻き込まれないようボディガードをしている──自首しようとしている麻薬密売人の司法取引と、所属していた組織との裏取引が成立して彼を無事に保護・確保するまで、と昨日説明された。それらしくない過ごし方をさせられてはいたが、ギムレイは生真面目にその嘘を信じていた。
「ええ」
シスター・セレンはしれっと答えて、シェリーグラスを置いた。
「伝えるのが遅くなってすみません。もしかしたら、明日、不測の事態が起こるかも知れません。つまり危険があるかもしれないという意味です」
ギムレイがハッと息を飲む気配が伝わってきた。緊張と高揚、瑞々しい自信。快楽にも似た戦闘への渇望。優秀な若い男が強い敵を得た時の美しい反射だ。打ち寄せる潮騒を聴くようなリズミカルな情念の発露。シスター・セレンは甘い惑乱に微かに笑んだ。
「大丈夫です。任せてください。その為に僕たちがいるんだ。そうだろう、ソロモン」
ギムレイは誇らしげに自分の胸を叩いた。頼りにしてください、と。
「え、ええ。そうね」
そうだったかしら……
ソロモンは苦笑いで応えたが、ギムレイはそんなことは目に入らない。
「あなたを危険な目に遭わせはしません」
熱に浮かされた騎士のような瞳で彼は言った。
「いいえ、そうではなくて……」
シスター・セレンは言い難そうに口ごもる。明日は臨機応変に事を進めねばならない。主導権は終始自分が握っておきたい。ギムレイに勝手気ままに動かれては困るのだ。状況が乱れても自分の指示に従うよう、しっかり言い聞かせておかなければならない。血気盛んな若い男に舞台を掻き回されては首が締まる。
「何が起きても、私の指示に従って欲しいんです」
顔を上げ、真っ直ぐギムレイと視線を合わせて、断固とした口調で告げた。一語一語を、強く、確認するように唱える。
「つまり、クライアントが武器を出しても、暴力を振るっても、あるいは予見しがたい何かが起こっても、私がお願いするまで黙って見ていて欲しい、という意味です」
「でも、それではあなたを守れない。相手が危険な人物なら尚更だ」
「私も〈ディアボロ〉です」
先制攻撃でもするように、唐突にシスター・セレンは打ち明けた。
軽い驚愕の色がギムレイの端正な顔に閃く。それから戸惑いと、なんと形容すればいいのか分からない複雑な思いも……
「動かないでいてくだされば、私は、皆さんの周りに防御用の障壁を張ることが出来ます。弾丸程度なら防げます」
「え? 嘘でしょう?」
うっかり叫んでしまったのはソロモンだ。
しまった、と片手で口を塞ぎ、瞬時に、今まで重ねた嘘から逸脱してはいなかったか慌てて検証する。
ニヤリと笑うシスター・セレンと目が合って、大丈夫だと確信するが、同時に腹立ちも覚えた。
そんな真似が出来るなんて……
聞いてないわよ、と言おうとしてソロモンは文句を飲み込んだ。出来るとは言われていないが、出来ないとも言われていない。〈能力〉によって出来る事の詳細を──彼女のような立場の〈ディアボロ〉は通常、自分の能力を秘匿するものだとしても──確認しなかったのは自分のミスだ。手駒にする──いや、共闘するつもりなら、相手の能力を把握するよう努めるべきだった。
──ここへ来て、また〈ノーラの授業〉を受けるとは……
まったく、余裕あるじゃないの。このクソババアども。
ソロモンが素早く脳内で文句を巡らせている間も、シスター・セレンの言葉は続いていた。
「……ですから、私が助けてと言うまでは動かないでください」
ずいぶん勝手な言い草だ。
それでもギムレイは、数秒困ったように黙り込んで、わかりました、と頷いた。
「ギムレイ。ひとつ、気をつけて欲しいことがあります」
「なんでしょうか?」
不満げにギムレイは問い返した。敵と戦うな、動くな、と言われれば大抵の男はこういう反応をするだろう。不満を覚えないとすれば、それは男の本能を持たない者だ。それでも、自戒するだけの常識と善良さがギムレイにはあった。すみません、と素早く謝罪する。
シスター・セレンはそれに特別の反応は示さなかった。彼のように育ちの良い誠実な男は、するなと言われた事にハッキリと反論しない限り、相手の言に逆らわない。だから、この話は片付いたのだ。彼女の望む形で。
ギムレイの逡巡には構わずに言いたいことを勝手に続ける。
「首のここを」
すう、とシスター・セレンは自分の首──喉仏のすぐ横に指先を当てた。
「この角度で切られると即死です」
やや斜め下から外頸部に抜くように指を動かして、彼女は穏やかに笑った。
「はい……?」
何を言われたのか計りかねて、ギムレイはきょとんと彼女を見返す。防御障壁を張れる、無抵抗でいろ、そう言いながら、なぜその部分への攻撃にだけ注意しろと言うのか意図が分からない。戸惑うギムレイにもう一度シスター・セレンは同じ動作を繰り返した。
「ここに、攻撃を受けないよう、くれぐれも気を付けてください」
子供に楽器の弾き方でも教えるように、とんとんと首を叩きながら二度目の動作。
「頸動脈はここです」
ダメ押しのように彼女は白い頸を晒し、奇妙な会話はそれで終わった。
†††
甘い蜜のような胸騒ぎ。疲労は痺れる官能のように手足に絡みついていたが、目を閉じても眠れない。この数日で、空気がとろりと密度を増したような気がした。
ソロモンは灯りを消した暗いゲストルームのベッドの上で、重い溜息を吐き出した。
昼間のオストロス刑務所での邂逅を反芻すべきではないと理解しているが、独りになるとどうしても思い出してしまう。
ラス・マドリガル。
彼の顔、仕草、声、言葉……
甘く、優しく、静かに、孤独に、彼は生きていた。呼吸をしていた。自分を呼んだ。自分を見詰めた。青味掛かった夜空のような瞳で。
彼と寝たいと思ったことは無い。彼への思いが恋だったのかどうか、今となっては自分でもよく分からない。もしかしたら、相手の感情に流されただけの、ほんの少し行き過ぎた友情だったのかも知れない。彼の熱の籠った視線に影響を受けて、自分も彼に惹かれているような、そんな錯覚に陥っていただけなのかも。
だけど……どんな形であれ、ソロモンはラスを好きだった。好きだったのだ。
明日、彼を殺す。
殺してしまう。
そうしたら、もう会えない。
二度と、会えない。
だけど、これは最善の選択なのだ。多角的に見て、そうなのだ。だから決行する。そう教育されてソロモンは育った。
──成すべきことを為せ、と──
為政者の手落ちは罪悪だ。失策は身を以て償わねばならない。
二度と同じ危難を呼び込みはしない。
自分達は武器を手に入れるのだ。敵を迅速に処刑する為、成文化された正義という名の武器を……
だから、ラスを生贄に捧げる。他の名も知らぬ人々も犠牲にする。それがより多くの利益になればこそ。これを功利主義と罵る人もいるだろう。
それでも、やる。
殺したくないというのは〈欲〉なのだ。贅沢で身勝手な我欲。
血の供物によってのみ生れ出る神も在る。そう。力ある祝詞の誕生はいつの時代も血に塗れていた。今、求められているのも、まさに血腥い神の顕現なのである。
世界に善は無い。悪も無い。
あるのは、益か、害か。
これが、導く者のプライド。ディアナポリス創成に関与した一族に、支配する側に、君臨する側に生まれた者の責任。
そして、意地。
存在理由。
ソロモンは身動ぎもせずに暗闇を見詰め続けた。
†††
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