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 この状況で部屋に運べということは、つまり姫君を抱くように自らの腕に横抱きにして運ぶということだ。恋人でもない女性の体に本人の意識の無い時に触れるなんて倫理的に許されるのだろうか。ギムレイは御曹司らしく狼狽えたが、ソロモンは無造作に彼女の服を探って住居の鍵を見つけ出し、右手に握りこんだ。

「私が鍵を開けるから、あなたは彼女を運んで」

「え、いや、でも……」

「早く!」

 ギムレイは真っ赤になってシスター・セレンを抱き上げ、スカートの裾を乱さないように細心の注意を払って運ぶ。女性らしい石鹸の香りが立ち昇って心臓が破裂しそうになった。

 ソロモンにしても、玄関の鍵は勝手に開けたものの、女性のプライベートルームに立ち入るのはさすがに憚られ、彼が昨夜使ったゲストルームのベッドに彼女を寝かせた。

 こういう場合、眠っているだけの人間は大抵、運ばれている途中で振動なり何なりで朦朧とでも意識を取り戻すものなのだが、シスター・セレンは眉ひとつ動かさなかった。やはり昏睡しているようにしか見えない。

「おかしい。ただ眠っているだけで、こんなに反応が無いもの?」

 ソロモンは苛立たしげに首を振って、横たえられた彼女の顔を覗き込んだ。じっと顔を見詰めると、シスター・セレンの肌の青白さが異様なものに思えてくる。

「彼女、大丈夫なんですか?」

 ギムレイもベッドの横に座り込み、祈るようにシスター・セレンの手を握る。

 ソロモンも不安になったが、病院に連絡してよいものかどうか判断がつかない。ノーラが囲っているくらいだから逮捕状が出ているということは無いだろうが、彼女の存在はどうにもキナ臭くて迂闊な真似をするのが恐い。

 下手を打つよりは、事情を分かっていそうな者に任せた方がいい。

「……ノーラに訊いてみる」

「ああ、そうか。うん、それがいい」

 ギムレイはこくこくと子供のように頷いた。実際、母親の側を離れようとしない子供のようで、奇妙な痛ましさがその時の彼にはあった。ギムレイも幼いうちに母親を亡くしている。色街で遊女慣れしているはずのソロモンと二人そろって、あまり女性の扱いが得意ではないのだ。

「ちょっと彼女を見ていてちょうだい」

 告げて、ソロモンは素早く部屋を出た。ノーラとの通話はギムレイには聞かせない方が賢明だろう。

 自分の傘を掴んで教会の暗い中庭に向かう。霧雨に包まれた夜の中庭は、飲み込まれそうなほど暗く、寂しく、沈んでいた。

 ソロモンはホットライン用の衛星端末を取り出し、ノーラの番号をコールした。端末の向こうで耳慣れた合成音が四回響き、ノーラの声に繋がる。

「ソロモン? どうしたの?」

「セレンが昏睡してる」

 端的に伝えると、

「ああ。放っておいて大丈夫よ。〈能力〉を使い過ぎると死んだように意識を失うの。二、三時間で目を覚ますわ」

 呆気ない回答が返ってきた。

「そう、なの……?」

「ソロモン、彼女を殺すなら〈今〉よ。その状態で眠ると完全に無防備になるの。攻撃に対しても無反応よ」

 ソロモンがシスター・セレンに良い感情を持っていなかったと承知の上で、このタイミングで物騒な事を唆す。ノーラは冗談のつもりだろうが、ソロモンに笑う余裕は無かった。

「やめてよ、ノーラ……」

 刺のある非難がましい声が零れた。

 あれほど苦手だと思っていたのに、たった数日で、不思議とシスター・セレンへの反感は薄らいでいた。

 触れ合えば情が湧くのは当然の事でしょう──そう、昨夜、酔ったシスター・セレンは言った。

 まさにその通りだ。

 士官待遇で大国の軍情報局にいた〈ディアボロ〉。当然請け負っていたのは謀略の類。もっとはっきり言えば暗殺。退役の経緯にも黒い噂がある。あの能力と裏を知り過ぎた経歴、退役など許されるはずがない。それが、五年半前、直属の上官が短期間に四人続けて自殺して、遂に許された。当時のジャンヌ・ダルク・コーポレーションCEOであり、ディアナポリス政府の実質的な構成員でもあるノーラ・メイデンが身元保証人を引き受け、終世ディアナポリスを出ないという条件で……

 以来ずっと、彼女は修道女服を纏って、〈イーストブラン〉のあの古い教会でひっそりと暮らしている。密約は破られていない。

 しかし、彼女の手は血でべったりと汚れている。良い感情を持てるはずが無い、と頑なに思っていた。平素他者に偏見を持たないソロモンでさえ、シスター・セレンは救い難く危険な存在だと断じていた。今にして思えば同族嫌悪であったのかも知れない。同じ異能者であり、かつて人を殺めた者同士でもある。なぜ、ラスを殺して、彼女は生かしておくのかと、そんなことまで考えた。

 だけど……

 触れ合えば情が湧く……

「彼女と動いてみて、どう思った?」

 ノーラは不意に包み込むような声音で言った。その雰囲気は懐かしく、ソロモンを十数年前に引き戻す力があった。あの頃ノーラは、まだ若いソロモンの教育係だった。

「すごいね。ほとんど万能だよ」

 生徒の気持ちに戻って素直に答える。

「頼っちゃだめよ」

 すかさず、そんな言葉が返ってきた。

「え……?」

 どういうこと、と問いかける前にノーラは淡々とした口調で語り始めた。

「替えの利かない強力な武器に頼れば、それを失った途端、情けないほど無力になってしまうわ。唯一の杖に縋るのは王にあるまじき愚行よ。まずは個々の力は弱くても代替の利く道具を組み合わせて、計画を成り立たせる癖をつけて欲しいの。彼女を使うのは他にどうしても方法が無い時だけにして」

 数秒、ソロモンは複雑な気分で黙り込んだ。この人にとって自分はいつまでも生徒なのだ。思わず皮肉な笑いが零れた。

「まだ家庭教師なのね。ノーラ先生」

「あなたに人の上に立つ事を教えるのが私の本業ですから」

 電話の向こうでノーラも笑った。

「一度聞いてみたかったんだけど……」

 ソロモンは少し躊躇いながら言葉を継いだ。

「どういう関係なの?」

 勿論、シスター・セレンと。

 今度はノーラが黙り込む番だった。数秒、苦しげな沈黙があり、溜息が聞こえて、また沈黙が続く。辛抱強く待っていると、やっと答えが返ってきた。

「彼女はカウンセラーで、私はパトロン。友人で、共依存。睡眠薬とその中毒患者と言ってもいいかも知れないわね」

 ノーラには珍しく、自暴自棄とも取れる少し荒んだ声だった。

「そう、なの……?」

 肩透かしを食らったような、得心が行ったような、どちらとも言えない奇妙な気分。

「私はもうじき六十になるのよ。長過ぎた仕事生活のせいでメンタルに疲労が溜まっているの。それで、業務にマイナスになる感情を消してもらっているのよ。歳を取った者にとって、罪悪感や後悔を捨てられるというのはとても楽な事だわ。ストレスの軽減は健康管理の一部でもあるしね。でもね、だからこそ、まだあなたは頼っちゃダメよ」

「ノーラは頼ってるのに?」

 また短い沈黙があった。どう説明していいのか迷っているような……

 ノーラが口にしたのは無関係とも思える、しかし意外な言葉だった。

「本人の言葉を信じるなら、彼女、私よりふたつ年上らしいわ。老けない体質みたいね」

 え──?

 ノーラより年上? それでは、六十歳を超えているということになる。

「嘘でしょう? 老けないって、あれはそんなレベルじゃ……」

 軍に所属していた年数は機密であるから、A国より譲られた資料には無かった。それに、ノーラが保護してからまだ五年数か月しか経っていない。いつまでも若々しいとは思っても、歳を取らないのではないかと疑念を抱くには充分な時間ではなかった。人格のひねくれ具合から、見かけ通りの年齢ではないだろうと薄々察してはいたが、まさかそこまでだったとは……

 うっかりヒステリックな笑いが込み上げて、傘を取り落とす。ソロモンは目元を手で覆って、くくっ、と喉を鳴らした。

 なによ、ババアなんじゃないの。

 時々感じた年上の女特有の、ママに似た雰囲気。あれは正しい直感だったと理解して、なんとも愉快な気分になった。

「能力の副作用らしいわ。四十年以上前からあの姿みたい。でも主治医が言うには、内臓は年相応だって。確実にあなたより先に死ぬわね。だから、戦力としても、カウンセラーとしても、あなたは彼女を頼っちゃダメよ」

 あなたは、と念を押すところがノーラらしい。自分は中毒だと言い、ソロモンには二の轍を踏むなと押し付ける。

「私、ネロになってもいいのよ。セネカ先生」

 引退した家庭教師に死の宣告をしてもいいのだと、そんな皮肉。暴君になってみせましょうか、という含みも込めて。

「あなたには出来ないわ」

 ノーラの声は冬の青空のように透き通って響いた。


   †††


 通話を終えたソロモンは、不安げにシスター・セレンを見守るギムレイの元に戻り、彼女には睡眠発作があるらしい、三時間ほどで目を覚ますから心配はいらない、と告げた。

 ギムレイは複雑な表情を浮かべる。安堵していいのか、耳慣れぬ睡眠発作という言葉に不安になればいいのか分からないらしい。

 まったく……

 内心で愚痴りながら、ソロモンは嘘を重ねる。

「稀にだけど、極度の緊張と疲労が蓄積すると、深い睡眠に陥る体質らしいわ。必ず三時間程度で目を覚ますし、他に異常は無いらしいから安心して大丈夫よ」

 ナルコレプシーではないから、と言おうとして、余計な事は言わない方が良いかと口を噤んだ。

 ノーラの言葉通り、シスター・セレンは三時間ほどで目を覚ましたが、彼女が起きるまでギムレイは一歩も側を離れなかった。

 ギムレイが時折垣間見せる年齢に不釣り合いな純真さは、こういう場面で直感的な鋭敏さにも映る。何を不安に思っているのか。無意識に明日の不安を予感しているのか……

 シスター・セレンは唐突に意識を取り戻した。ぴくりと瞼を震わせたかと思うと、無造作に両目を開き、予備動作もなく上体を起こした。

「よかった。目が覚めたんですね!」

 喜色を満面に浮かべて、抱きつきそうな勢いでギムレイが叫ぶ。彼は膝を床について、ベッドに縋る格好でシスター・セレンの手を握っていた。

 そんな青年に、はたと視線を据え無表情に両の瞳を覗き込んだ後、シスター・セレンはふわりと笑った。花が開くような、優しい微笑みだった。

「可哀想に」

 言って、ギムレイの金色の頭を撫でる。

「可哀想に、ギムレイ。ごめんなさい……」

 何を意図しての台詞か、ソロモンには分からなかった。咄嗟に、分かりたくないと思った。

 可哀想──という気持ちはソロモンも持っている。申し訳なくも思っている。人を殺せば、罪を犯した、という拭い難い恐怖と罪悪感を抱かせるだろうとも思う。

 だけど、その一瞬だけを〈消す〉と同意は成っている。

 記憶はデリケートだ。重大な齟齬が生じると人は混乱してしまう。この計画で〈頭をいじられた〉オストロス刑務所の職員たちや、あの路地にいた人々は、奇妙な記憶の欠落に悩まされるだろう。特に犯罪者にされるシャーリーは……

 ギムレイだけが特別だった。彼の人格を傷付けないよう矛盾の無い改竄をしなければならない。陰謀の立案に関わった全員が自然にそう考えていた。なにしろ彼は、シグルト・コミューン総帥シド・ワイズマンの息子だ。ディアナポリスの重要人物。いずれディアナポリス・マネー・キャビネットの一員になるであろう貴公子だ。彼に対して、この件に関わった数日間の記憶を全て消す、という乱暴な方法はとれない。重大な混乱をきたす可能性のある行いは、彼に対してだけは出来ない。消すのは、微睡んでいた程度の時間、あるいはほんの一瞬、現実と乖離しない程度に──でなければならないのだ。

 ギムレイの為に最大限の努力は払っている。それなのに、

「可哀想に……」

 と、またシスター・セレンの声が響いた。子供に対するように優しく、ゆっくり頭を撫でる。

 ソロモンは発作的に頭を抱えたくなった。自分には誰も、可哀想に、とは言ってくれなかった。責任を果たせ、背負え、と育てられ、今も、成すべきことを為せ、そしてすべて覚えておけ、と見えない何かに苛まれている。そう生きると決めたのが自分であるにも関わらず……

 ああ、と打ち震えそうになった時、

「いいえ。いいえ、大丈夫です。あなたこそ大丈夫ですか?」

 ぱっ、とギムレイが顔を上げた。目の端が赤い。今にも泣き出しそうな、安堵に緩んだ無邪気な表情。

 ハッ、とソロモンの中で理解が弾けた。あまりにも呆気なく。

 こんなに心配して可哀想に。不安にさせてごめんなさい──そういう意味……

 じっと二人の様子を見ていると、困ったような表情を浮かべたシスター・セレンと目が合った。ギムレイを撫でながら、ソロモンに向かって肩を上げて皮肉に笑う。

 考え過ぎよ、と言われた気がした。


   †††

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