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 誰もが良いとは言えない身形をしている。その内のひとりが安い酒瓶を持った赤ら顔ではしゃいだ声を上げた。

「シスターが食い物くれるってよ」

 喜んで走り寄ってくる者、不審げに遠巻きにする者、それぞれの反応をしたが、立ち去る者はいなかった。何か珍しい事が起こると聞いて、移動式のストーブを持ち込んだ者もいる。

 ふと横を見ると、ギムレイが男のひとりに一方的に話しかけられていた。どうやら、仲間の自慢をしているらしい。誇らしげな顔は酒気に染まっているが、人懐っこく、悪い感じはしなかった。

「知らないのか、兄ちゃん。こいつはクラウディウス・ファウストだ。昔は社会派でならした監督様なんだぜ。ドキュメンタリーの鬼才なんて持てはやされたんだからな」

 ばんっ、と背中を叩かれて、ファウストは困ったような微笑を浮かべた。

 意外な事を聞かされて、ギムレイは率直な疑問を口にしてしまう。

「それが、どうしてこんな場所に……あ、いや、失礼。不躾な事を……」

 言ってしまってから失言だったと気付き、ぺこぺこと謝るギムレイの仕草は素直で嫌味が無い。どこかずれた好青年に、ファウストは思わず噴き出した。ひとしきり爆笑して、笑い過ぎて目の端に滲んだ涙を手の甲で拭う。

「よくある話さ。人生に行き詰って酒と女に溺れ、抜け出せなくなって全てを失った」

 ただそれだけだ、とファウストは言った。芝居がかった言い回しだが、彼には妙に似合っていた。

 ソロモンとギムレイにも手伝わせて、全員に食糧を配ると、おもむろにシスター・セレンは言った。

「では、ヨハネによる福音書、七章二十五節から三十一節までをお聞かせします」

 たちまち不満の声が湧き上がる。

「ええっ? いらねえよ、そんなもん」

 赤ら顔の男が、今さっき貰ったばかりの食糧を抱えて逃げ出そうとするが、その襟首をギムレイが素早く捕まえた。まるで猫の子が首を掴まれているようなまぬけな姿だ。

「文句を言わずに聞きたまえ。シスターのありがたいお気持ちだ」

 男を強引に元の場所に押し戻すと、他の全員も、同じ目に遭わされては敵わない、と大人しく腰を下ろした。

 埃の積もった固い床の上に思い思いの姿勢で座った人々を見渡して、シスター・セレンはゆっくりと聖書の暗唱を始める。

 薄闇の中に、ランプを手にしたシスター・セレンの姿が幻想的に浮かび上がっていた。オレンジ色の灯りがユラユラと揺れる。

 唱えはこの言葉から始まった。

「さて、エルサレムのある人たちが言った、『この人は人々が殺そうと思っている人ではないか』……」

 最初の一節を聞いて、ソロモンはびくっと身を震わせた。

 なんという箇所を選んだのか。これから彼がやろうとしている事を想起させ、嫌な気分にさせる。ひどい……こういう悪趣味には付き合いきれない……

 それでも、聖書の言葉を唱えるシスター・セレンの声は細く低く殷々と響いた。肌の表面をサワサワと不思議な感覚が撫でていく。まるで見えない光。雪が降るように静かに何かが降り積もる。不思議な力に包まれ、飲み込まれていくような……

「……群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、『キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか』……」

 それは印象的な言葉だった──この人が行ったよりも多くのしるし──そうだ、シスター・セレンよりも多くの助力を、他の誰がしてくれるだろうか……

 釘を刺しているのか、とソロモンは彼女の顔を窺った。ソロモンはずっと彼女に素っ気なかった。自分の貢献をチクリと訴える程度の権利が彼女にはある。しかし、シスター・セレンの冴え冴えとした顔からはどんな感情も読み取れない。他意は無いのかも知れない。偶然、暗唱できる聖書の一部がそこだけだったという事かも知れない。わからない。

 ただ、申し訳なかった……


   †††


 暗唱が終わった時、場はシンと静まり返っていた。

 みんな一様に頭を垂れて、目を閉じている。一見敬虔に祈りを捧げているようにも見えるが、眠っているのだ。落ちるように、緩やかに……

 小路に住む男達の中で、ファウストだけが青い顔をして立っていた。

 例の衝撃を抑えるために、酷く緩慢な力の行使だった。久しぶりに見ても背筋が凍る。抗えない無音の侵略。恐ろしい、おぞましい、彼女は悪夢だ……

「静かですね」

 ギムレイが困ったような声を出した。聖書の言葉を聞いて眠ってしまった罰当たりな彼らを庇ってやりたいと思っているような、説教の前に人々に眠られてしまったシスターを慰めようとしているような、なんとも言えぬ善良な困惑顔。

「祈っているからです」

 シスター・セレンは気を悪くした風も無くさらりと言った。小首を傾げて悪戯っぽく笑う。ことん、とランプを床に下ろした。

「行きましょうか」

 ギムレイの手を引き、ソロモンにも手招きする。疲れた顔でソロモンは頷く。

「オーケイ。行きましょう」

 カツン、と硬質な靴底の音が響いた。

「え、でも……彼らを置いて?」

 慌ててギムレイは振り返るが、連れの二人は取り合わない。霧雨に濡れるまま、さっさと車の横まで連行されて、押し込めるように運転席に乗せられた。本当にいいんだろうか、と迷っていると、シスター・セレンは窓の外を見ながら微かな声で呟いた。

「いいんですよ。彼らは神に祈りを捧げているんです。私にではありません」

 奇妙な物言いだった。


   †††


 その映像を見た時、ジャンヌ・ダルク・メディアの報道部専属ディレクター、アレックス・スプリングフィールドは、奇妙な違和を感じた。

「現場に偶然居合わせた素人が、咄嗟に撮影したにしては綺麗ですね」

「そうか?」

 報道部プロデューサー、ルイ・ドラモンドは、特ダネ映像を入手したことで上機嫌になっていた。映像の質など、どうでも構わない。

「汚いより良いだろ」

「そうなんですが……」

 映像を売り込みに来たのは一見して低所得者と分かる初老の男だった。恐らく決まった住居を持たないのではないか、とアレックスは思ったが、彼がその身形と不釣り合いに真新しい高性能カメラを所持していた事が興味を引いた。ただし、そのカメラは集音マイクが故障していて、音声は無いとのことだった。

 彼はカメラの小さなモニターでアレックスに事件のリアル映像を確認させた。

 まさに、その日、その時に、メディア関係者全員が喉から手が出るほど欲していた映像であった。音が無いことなど問題にもならない。これを得るということは、金塊を得るに等しい。

 すぐに、言い値で買い取る、口座番号を教えてくれ、と端末を出したアレックスに、男は強硬に無記名クレジットでの支払いを要求し、応じると気前良くカメラごとデータを置いて去って行った。

 その時は、後ろ暗い過去でもあるのかと勘繰っただけだったが、映像をよくよくチェックしてみて、アレックスの疑いは男の過去ではなく〈現在〉に向けられることになった。

 この映像はおかしい。

「まあ、肝心の決定的瞬間が映ってないのは惜しいが、そもそも〈そこ〉は流せない〈要自粛シーン〉だし、まあ、いいだろ。前後はバッチリ。倒れた遺体の画も、破壊された現場の画もある。スクープ映像としては一級品だ」

 それも、アレックスに不審を抱かせた理由のひとつだった。

 対象を的確にフレームの中心に収め、関係人物達の位置も理解しやすいよう、やや引いた構図まで入れて撮っている撮影者が、なぜか〈その一瞬〉だけ、突然カメラの取り扱いをミスしたかのように白っぽくぼやけたカーテンと窓枠を撮影しているのだ。

 そうかと思えば、次の瞬間には血塗れの英雄にピントを合わせて印象的なカットを射抜いている。

 アレックスは何かが引っ掛かって腑に落ちない。それに、敢えてカメラを向けていない方向があるようにも思える。何かある、そんな直感。

「あ、ここです。ここ」

 叫んで、倍速で巻き戻していた映像を静止させる。ディスプレイには見知った顔が映っていた。自社系列のCEO、ソロモン・アスカリドである。

「ここ、ソロモンが誰かに何か叫んでるんです。画面の外に誰かいます」

「犯人じゃないのか?」

「違います。位置関係から言ったら犯人がいるのは真逆ですよ」

「じゃあ、警官か?」

「この時点で警官は一人を残して全員犯人に殺害されています。残った一人はここに映っています」

「シスターじゃないのか?」

「シスターも少し前に、ソロモンの近くに映っています」

 アレックスは注意深くスローで再生を続けた。ソロモン・アスカリドの視線はずっと〈そちら〉を向いている。しかも、この表情。

 慈愛か、悲哀か、懇願か……

 他人に向ける類ではない。

「やっぱり、ここに誰かいる」

 画面から切れた小路の一角、そこに居るだろう〈誰か〉を指差す形で、アレックスはモニターの横の金属フレームを叩いた。

「現場にもう一人〈誰か〉がいたんだ」

 大事件の裏に隠された何かを発見した高揚でアレックスは叫んだが、

「通行人だろ? ソロモンは、きっと、逃げろって叫んでるんだよ」

 プロデューサーは小馬鹿にするようにアレックスを睨んで切り捨てた。立った位置から見下ろしてそんな視線を投げたものだから、常より一層ふてぶてしく映る。

「そんなバカな。通行人なら、目撃者として名乗り出てもおかしくないでしょう。こんな大事件なんですよ。なのに、この事件の目撃者、この映像を撮った男以外、ただの一人もいないんですよ。おかしいと思いませんか?」

 画像はずっと連続しているし、常に一定の画質で、トリミングした形跡は見られない。

 あの男を帰してしまったことがつくづく悔やまれる……

「絶対、ここに誰かがいたんだ。そして撮影者は、その〈誰か〉を一度もフレームに入れないように細心の注意を払っている。ドラモンドさん、これ相当キナ臭い……」

 アレックスは言葉の途中で振り返ったが、彼の背後にはもうプロデューサーの姿は無かった。

 遠ざかる彼の後姿を目で追うと、太った体をうきうきと揺らしながら、若い女性スイッチャーの脇のデスクに手を置いた。

「今日は絶対視聴率取れるぞ。みんな、準備はいいか? 事件特番いくぞ!」

 アレックスは苦虫を噛み潰したような顔で眉をしかめた。

 その映像は、犯人以外──人質になった被害者も、英雄になった警官も、全員にモザイクをかけて放送された。死亡者が出た凶悪犯罪を取り扱う場合、関わった人物、特に被害者の身元が特定され個人の静かな生活を侵害しないよう、ディアナポリスの電波法ではそう定められていたからだ。


   †††


 オールドラムゼイ通りで貧しい人々に差し入れをした後。〈イーストブラン〉にある古い教会に着くなり、疲れた、と呟いてシスター・セレンは眠ってしまった。車の後部座席に座ったまま、まるで気絶するように、突然。

 呼吸は浅く、死んだようにピクリとも動かない。

「シスター? シスター・セレン?」

 ソロモンは軽く彼女の肩を揺さぶってみるが返事は無く、されるが儘にぐらぐらと頭が揺れる。まるで人形のようだ。

「どうしよう、全然起きてくれない」

 ソロモンはおろおろと困惑顔でギムレイに訴えた。何かの発作で昏睡に陥ったようにも見える。持病があるとは聞いていないが……

「どうしたんだろう?」

 ギムレイは運転席から降りて、彼女の座っている側のドアを開けて眠っている顔を覗き込んだ。特に顔色が悪いわけではないし、呼吸は静かだが安定している。

 ソロモンとギムレイは訝しげに顔を見合わせた。

「どうしよう?」

 大の男が二人そろって情けない声を出す。

「どうしようって……ここに置いておくわけにはいかないでしょ。取りあえず部屋に運んでちょうだい」

「え? 僕がですか? いや、そんな、だって……いいんでしょうか……?」

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