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 残念ではあったものの根が運転好きのギムレイはハンドルを握るとたちまち機嫌を直した。嬉しそうな顔でキー操作をし、エンジンをかける。フウウッ、と猫が唸るような微かなモーター音が響き始めた。混合元素触媒による水素還元反応を利用したエンジンはクリーンで静かだ。疲労の為か額に薄く汗を浮かべたシスター・セレンと、苦悩に沈みそうになるソロモンを乗せて、車はゆっくりと動き始める。問題無く地下駐車場と続く圧迫感のある通路を通り抜け、二重の門をくぐって、やっとオストロス刑務所を後にした。

 ソロモンは、我知らず、安堵の溜息を零した。

 辺りは雨に暗く沈む長閑な風景。車窓をモノクロームにけぶった森が流れて行った。

 過ぎ去っていく景色を見ながら思いを巡らす。

 あのラス・マドリガルが終身刑に甘んじ、三年もおとなしく服役していたということは、自らの意志で監獄を居場所に選んでいた、という事に他ならない。なぜかは分からないが、ここにいよう、と彼は思っていたのだ。高い破壊力を持つ〈ディアボロ〉が、たかがコンクリートの箱ごときに捕われていた理由──それは、それが彼の意志であった、としか考えられない。モニーク・ヘッセ女史のような政治的な理由があるわけでもない。収監されることにメリットは無い。独房は決して快適でもない。それなのに、彼はここに居ることを選んだ。奇妙で不合理な行動だ。

 何かが大きく、決定的に、歪んで破綻している。まるで別の生物のような精神構造。彼らの行動原理は、同じ闇を持つ人間にしか理解出来ないのかも知れない。


   †††


 オストロス刑務所からの帰路。ハイウェイを走行中に、知己の貧しい人々に贈り物をしたい、とシスター・セレンは言い出した。

「どうせ通り道だし、差し入れがてら様子を見に寄ってもいい?」

「いいわよ」

 彼女には何か考えがあるのだろうと察知したソロモンは軽く言い、

「もちろんですよ。あなたはとても優しい人ですね」

 ギムレイはニコニコと上機嫌で賛同した。

「昔、近所に住んでいた方が引っ越して、今は〈ノースカルヴァン〉にいるんです。あの辺りはスラム化してしまって治安が悪いので、ずっと心配はしていたんですけど……」

 元気かしら、とシスター・セレンは呟くように言った。懐かしげな表情を浮かべて。

 もちろん、本当の目的は違う。

 三人は〈ノースカルヴァン〉にある大型スーパーに立ち寄り、レトルトパウチや保存の利く菓子類を大量に買い込んだ。料金はソロモンのIDで支払う──翌日、事件に巻き込まれるジャンヌ・ダルク・コーポレーション社長が大量に食料品を買い込んだからと言って、それは特筆するに値しない事だ。

 ──〈ノースカルヴァン〉、オールドラムゼイ通り、五百四十二番……

 辺りは夕闇に包まれていた。細い絹糸のような雨は、まだ音も無く降り続けている。

 その周辺はスラム街として有名な界隈だ。山沿いに築かれた〈オラクル地区〉と違い、海寄りで地盤が低く水利と交通の便が悪かったせいもあり、三十年前の大規模な都市改造に取り残され、設備の老朽化に伴い、次第に治安も悪化して貧民窟と化した。北の国境にも接しており、犯罪検挙率はディアナポリスの他の地域に比べて目立って低い。そのような状態で、長期間、低所得層の人々がひしめくように生活していたのだが、五年前、再開発地域に指定された。市による買い取りは順調に進み、来年早々には地域一帯の建造物取壊しと再開発が決まっている。正規の住民と共に不法に住み着いた人々もほとんどは別の地区に移動させられて、今ではゴーストタウンと化していた。他地区に移ることを嫌ったごくわずかの住居を持たない貧しい人々や、犯罪者が、崩れかけたビルをねぐらにしているだけだ。

 その荒廃して舗装も剥げかけた古い通りの中程に、朽ちかけた棺桶のようなムードの小路があった。長さはほんの六十メートル程。両脇には小さな──高いものでも五階建てがせいぜいの廃ビルが左右合計で七つ立ち並び、奥はコンクリートの壁で塞がれて袋小路になっていた。ゴミが至る所に散乱して、不快な臭気が鼻をつく。小雨の当たらないビルのエントランスや崩れかけた壁の奥に、貧しい身形の男が数人、小さなストーブや焚火を囲んで、座り込んだり寝転がったりしていた。音も無く降る霧雨に濡れた景色は暗く、より一層その界隈の惨めさと寂しさを強調している。

 そこが目的の場所だった。

「少し、友人と二人だけで話したいので、ここで待っていて貰ってもいいですか? 彼のプライバシーに関わる内容なので……」

 車をオールドラムゼイ通り中程の道端、細々と灯る街燈の下に停めて、三人揃って降車すると、言い難そうな様子を取り繕ってシスター・セレンは傘を傾けた。

「危なくはないですか?」

 ギムレイは心配そうに彼女を見詰めたが、ソロモンは内心で、危なくないわよ、と吐き捨てる。身に危険が及ぶとすれば彼女ではない。むしろ……

「大丈夫です」

 ふわっ、と微笑んでシスター・セレンは静かに歩き出した。濡れた路地に固い靴底の音が響く。

 一番手前のビル、ガラスが割れて壊れた扉の前に彼は居た。ゆったりした椅子をルーフの下に置いて、分厚いコートにくるまり、小さなランプの灯りをお供に、ぼんやりラジオを聞いていて、暖を取る火の輪に加わらず独り寒さに耐えているようにも見える。あるいはコートの下に携帯用の暖房器具を忍ばせているのかも知れないが。

 彼はその通りにいた他の者と比べれば、比較的整った格好をしていた。前髪の一房だけが綺麗に色素の抜けた薄茶色の髪で、幾分痩せてはいるが、背は高く、肩はガッシリしている。髭はサッパリと剃り、髪も見苦しくない程度にはハサミが入れられていた。年齢は五十代にも六十代にも見える。

「ファウスト」

 彼の耳に細い女性の声が響いた。

 顔を上げると、水色の傘を差した女が立っていた。人形のように整った美貌を持つ銀髪の女。彼女を見出した男は、ハッと目を見開いた。

「セレン……」

 呟いて、軽く唇を震わせる。

「良かった。まだ生きてたのね」

 シスター・セレンが笑顔を浮かべて近付いて行くと、彼は慌てて椅子から転げ落ちた。そのままビルの奥へ這って逃げようとさえする。まるで幽霊にでも出会ったような素振りだ。

「ファウスト、やめて」

 少し険のある声だった。それで彼はメデューサに睨まれたように動きを止めた。諦めたようにおずおずと立ち上がり、顔面蒼白になって彼女に向き直る。

「今更……なんの用だ?」

 ポタリとルーフの端から雨垂れが落ちた。シスター・セレンは傘を閉じ、軽く肩を上げて皮肉に笑った。彼女は、彼が居る事を承知の上でここへ来た。特殊な技能を持つファウストは貴重な駒だ。使うアテがなくともストックしておくのは、シスター・セレンの前職からの癖である。ストックの方法は暗示だ。所在を変える都度、それが無くとも十日に一度は、彼女にコールするよう、そしてそのデータを消去し、行動の記憶も忘れるよう、幾人かに〈能力〉を使って命じてある。本人は、自分がそんな定時連絡をしているなどとは夢にも思わない。だからファウストも、突然現れた彼女を見て度を失うほど取り乱した。シスター・セレンは対象のそんな態度に慣れている。皮肉に口角を上げただけで、構わず話を進める。

「仕事を頼みたいの。済んだら、南の島で余生を過ごしてちょうだい。小さな家を買ってのんびり過ごせるわよ」

「逃げろってことか」

 いいえ、とシスター・セレンは首を振った。追手はかからない、安心していい、と告げるとファウストはわずかに心が動いたようだった。

「資金はあの子が提供するわ。どう?」

 あの子、と指差された人物は、真っ赤な傘を差して、男にしては華奢な体を高級そうな黒のフロックコートで包んでいた。頼りない街燈の灯りだが、十五メートルほどの距離なので顔はハッキリと見える。透き通るアイボリーの肌に、耳が見える長さで整えられた絹のような黒髪。アジア系特有の中性的で清楚にすら見える美形だ。あれは、確か……メディアで見たことがある。

 ジャンヌ・ダルク・コーポレーションのCEO、ソロモン・アスカリド。

「セレン……」

 ファウストは怯えを含んだ瞳でシスター・セレンを見詰めた。

 この女が、仕事を持ち掛けておいて、大物の顔を見せた。それがどういう意味か彼にだって理解できる。断る、という選択肢は初めから無いのだ。素直に受けるか、口封じをされて使われるか……

 冷たくなった手を握りしめ、ファウストは絶望混じりの声で吐き出した。

「頭をいじらないでくれるなら……」

 その言葉に、シスター・セレンは複雑な表情を浮かべたが、すぐに頷く。

「了解。明日正午頃、ここで起きる事件を撮影して欲しいの。カメラはある?」

 ない、とファウストは頭を振る。シスター・セレンは、そうでしょうね、とレースのハンカチで包んだものを差し出した。

「中の端末に無記名で五千ディアナドル入ってる。これでカメラを買って。残りは雑費に。ただしお酒はダメ。もし、酔ってミスしたら……」

 瞬間、彼女の暗い海のような瞳に危うい光が射した。

「分かった。分かってる」

 ファウストは慌てて目の前で両手を振った。身を危うくすると分かっていて飲めるはずがない。

「言い忘れたわ、ファウスト。あそこにいる金髪の彼、綺麗でしょ……」

 唐突に話題が切り替わった。

 彼女の示した先には、ジャンヌ・ダルク・コーポレーションCEOと同じ傘に入り談笑する金髪の青年がいた。先刻は、ソロモンという大物に目を奪われて気付かなかったが、ずいぶん見栄えの良い青年だ。

 薄暗い明かりの下、傘の赤味掛かった影の中にいても分かる。純金を溶かしたような豪奢な髪。おそらく瞳は明るいスカイブルーだろう。陶器のように穢れの無い肌。整った王子様然とした容姿に、気取りのない柔らかな仕草。映画俳優でもちょっと見掛けないくらい恵まれた美貌だ。それに、あの輝くような甘い笑顔。彼の周りにだけ陽光が射しているような錯覚を覚える。あの青年なら誰が見ても好感を持つに違いない。

 確かに、綺麗だ……

 ふと、遠い昔に読んだ絵本の天使を思い出した。

「明日の事件、犯人と私、それからソロモンをメインで撮ってほしいの。あの子の姿と、私の能力光と、全ての音声は絶対に撮らないで。カメラを買ったら最初にマイクを壊して」

 もったいない、とファウストは思った。買ってすぐにカメラの集音マイクを壊すことが、ではない。あの金髪の青年を撮れないことが彼には酷く惜しかった。

「了解……」

「交渉成立。この辺りをねぐらにしている人達を集められる?」

 やると決めれば肚も据わる。ファウストの顔に精悍な影が宿った。

「何人必要だ?」

 低い問い。

「明日、この通りで、見られたくない事をする。目撃者が出ないように近隣を封鎖したい。建物も無人に保つにはどれくらい要る?」

 シスター・セレンの声も低く通る。ファウストは一瞬、思案を巡らすように視線を動かした。慣れた情景を確認するような仕草。

「なら、この小路に住んでる奴を全員呼ぼう。ちょうど二十人いる。あんたが〈見るな〉と命令すればいい。辺りの封鎖は……万全を期すならここに通じる道も通行止めにしておく必要があるな。まあ、二十人もいれば事足りるさ」

「頼める?」

 信頼できるか、という意味だ。

「いじった方が早いし確実だ」

 とん、とファウストは自分の頭を指差した。自分はされたくないが、他人がされるのは構わないらしい。

「……了解」

 シスター・セレンは呆れたように肩を竦めた。

「お土産があるわよ」

「そいつは都合がいい」

 ファウストが隣のビルの男に声をかけると、彼はもそもそと動き出し、仲間を呼びに行った。

 シスター・セレンは、ソロモンとギムレイを手招きして呼び寄せる。車のトランクから買い込んだ食料品を運んできて、と告げるのも忘れなかった。雨に濡れないよう、荷物はファウストがねぐらにしている廃ビルの一階フロアに運び込んだ。このビルは通電していないので照明が無い。晴れた日の昼間ならば陽光が入るのだろうが、あいにくと雨の夕暮れ時で建物の中は真っ暗だった。小さなランプはあるが、あまり役に立っているとは言い難い。

 それでも、あっという間に二十人の男がばらばらと灯りを手に集まってきた。光源が増えると、幾らか室内が見渡せるようになった。

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