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「彼の調書は読んだんでしょう? これがどういう状態かは?」

 ラスは〈獲物〉に誘惑を仕掛けているのだ。正常な感情があると勘違いしてはいけない。精神的にも物理的にも引き寄せて、くびり殺す。それが彼の手口だ。

「分かってる……」

「なら、いいわ」

 シスター・セレンは切り捨てるように言い、

「どうした? 泣きそうな顔してるぞ、ソロモン……」

 ラスは蕩けるように優しい声で言った。

「ミスター・マドリガル」

 呼ばれて、やっとラスはシスター・セレンに顔を向けた。

「何かな、お嬢さん」

 言って訝しげに修道女服の襟元を見詰める。ほんの一瞬、凶暴な光が瞳をよぎった。

「ミスター・マドリガル。ソロモンともっと話がしたければ、明日の正午に〈ノースカルヴァン〉のオールドラムゼイ通り五百四十二番へ来てちょうだい」

「〈ノースカルヴァン〉の……?」

「オールドラムゼイ通り、五百四十二番よ」

「無茶を言う。俺はこの通り収監された身だ。行けるわけがない」

 ラスは両手を広げてクスッと笑った。強引なお嬢さんだ、と独り言のように呟く。

「あなたは来るわよ。こんな壁、あなたなら簡単に壊せるでしょう?」

 挑発するように、いや、嘲るようにシスター・セレンは言った。

「まあ、そうだがね……」

 剣呑な気配がゆらりと立ち昇る。

「その壁の向こうはただの庭よ。刑務所の塀の高さはたったの十五メートル。その向こうの芝生の緩衝地帯に設置されたセンサーは人間の動く速度にだけ反応する」

 つまり、百メートルの緩衝地帯を〈ディアボロ〉を使って高速で一気に駆け抜けろ、と彼女は言ったのだ。

「簡単だね」

 魅力的な微笑を浮かべて、ラスは軽く肩を上げる。何も知らなければ、うっとりと見入ってしまいそうな甘い仕草だ。

 シスター・セレンは取り合わなかった。

「この部屋のセンサーだけは壊しておいてあげる」

 言葉と同時に、独房の天井に取り付けられた小さな感知器の辺りから、パキン、という微かな音が響いた。ラスはぴくりと片眉を上げた。

 ソロモンはその音を聞き洩らした。言葉の意味を測りかねてシスター・セレンの横顔を窺うが、彼女は何も答えなかった。

「明日、〈ノースカルヴァン〉で」

 ラスに向かってそう言い、ソロモンの腕を掴んで立ち去ろうとする。引きずられて重い足取りで歩き出したソロモンに、ラスが悲痛な声で呼びかけた。

「待てよ、ソロモンッ!」

 みしっ、と無機物の歪む音が聞こえた。

 背後から強い光が射す。

 青い光。

 燐光のような、モルフォ蝶の翅のような、鮮やかで濁りの無い青。

 ラスに視線を戻すと、彼の体は青い光を噴出させ、鉄格子を握って今まさに押し開こうとしていた。みしみしと強化鋼の扉が悲鳴を上げている。

 能力が、発動している。

 今、あの力を振るわせるわけにはいかない。

 マズイ──状況の突然の逼迫に冷や汗が噴き出す。

 シスター・セレンはラスを制止するように片手を上げた。

 どのみち必要のあった事だ。ほんの少し、ソロモンを彼から引き離すことを優先したに過ぎない。

 次いで、すでに慣れた落雷のような感触。ブワッと肌が粟立つ。今日五度目の、そして最も激しい衝撃。初めて、その力が行使される音を聞いた。

 ドオンッと地鳴りのような音が響く。

 ラスは鉄格子を握ったままズルズルと崩れ落ちた。

 強烈な波動だった。

 力の放散が終わった後も、キイン、と耳の奥が鳴っている。

「なにを、したの……」

「待合せの約束を必ず守るように言い聞かせて、逃走ルートをインストールしたのよ。闇雲に逃げ回られても困るでしょ」

 抵抗するからやり過ぎた、とシスター・セレンは言った。

 どういう攻防があったのか、ソロモンには分からない。

 ただ、ラスの有り様が悲しかった。かつての親しい友人。好ましく思っていた面影の残る、荒んでなお美しい姿、仕草、声。調書に記されていたおぞましい罪の数々。優美と暴虐。人と獣。融和しない二つの顔。この精神障害の治療は極めて困難だと……

「ソロモン。彼はダメなのよ。殺さずにはいられないの。衝動を抑えられないから……」

 そこまで言って、シスター・セレンは不意に口を噤んだ。

 ソロモンは唇を噛んで声を出さすに泣いていた。

「いい子ね、ソロモン。あのゲートをくぐったら五分あげるわ。その間は何も考えなくていいから……」

 ソロモンは黙って涙を流し続けた。

 声を失いガタガタと震える初老の随行官を引きずって、彼らは忌まわしい特別棟を後にした。

 第七ゲートの監察所で、二分、ソロモンの為に時間を使った。シスター・セレンは五分与えると言ったが、それよりも早くソロモンは持ち直した。ハンカチで軽く涙の跡を押さえる。

「メイクする趣味が無くて良かったわ」

 ソロモンは言って、力無く笑った。

「軽口を叩けるなら大丈夫ね」

 第七ゲートから、第二ゲートまで、無機質な通路を小走りで駆け抜ける。ゲートの開閉操作が酷くもどかしかった。

 第二ゲートが開いた時、シスター・セレンは初老の随行官に言った。

「明日の朝までに、あなたの車を、ここから南南西二キロにある雑木林の中に停車しておいて。息子さんの服を一式後部座席に乗せて、キーはシートの下に。ドアはロックしていいわ」

 返事は無かった。代わりに、すでに馴染んだ無音の稲妻の気配が走り、背後から重いものが床に倒れる音が聞こえた。その姿はゆっくりと閉まりつつあるゲートに隠されて、こちら側からは見えなかった。


   †††


 ギムレイは携帯ゲーム機でアクションシューティングに興じていた。待合室の一番奥の席に陣取って、食べ終わったクッキーの包みと、珈琲の空容器がテーブルの上に置かれている。

 待合室の監視員のひとりが、

「おかえりなさい」

 と笑顔で声をかけてきた。

 ここには日常が流れていた。この刑務所の一部で起こった異常は、その現場でだけ完結して、他には波及していない。

 刑務官達はそれぞれ自分の持ち場を守り、自分の仕事を果たしている。

 昏倒した随行官二人も、情報管理室の六人も、明日犯罪者になる哀れなシャーリーも、突っ立ったまま意識を失った所長も、ラス・マドリガルでさえも、じき何事も無かったように目を覚ます。

 そして、何もかも忘れているのだ。もしも、ほんの十数分、記憶が欠落していることを不思議に思っても、それを確認しようと行動を起こす事は無い。シスター・セレンは記憶消去と同時にその暗示もかけている。

 ソロモンは、ちら、と待合室の監視官二人に視線を向けた。

「あの二人も……」

 目撃者の記憶は消さなければならない。

 シスター・セレンは頷いて、無音の力を発した。ぶわっ、と肌の表面を例の感触が駆け抜ける。二人の監視官はうまい具合に腰掛けていた椅子に深く沈み込んだ。その姿勢に特に違和感は無い。疲れて目を閉じているだけに見える。

 ソロモンが安堵の溜息を吐いた瞬間、ギムレイがぱっと顔を上げた。飼い主の帰りを待ち侘びていた犬のような仕草だ。

「やっと戻ってきたね。今日は待ってばかりで疲れたよ」

 携帯ゲーム機から目を離した隙に、ゲームオーバーの音楽が流れた。あっ、と呟いてギムレイは大袈裟に嘆く。

「あああっ、やっとワンステージクリア出来そうだったのに……」

「ギムレイ、用事は済んだわよ。帰りましょうか」

 片手を上げて、いつもの明るい調子でソロモンは言った。

 さりげなく、ギムレイが触れたであろう椅子の背をコートの袖で拭う。ちら、とシスター・セレンの顔を伺うと、彼女は軽く頷いた。それで大丈夫、という意味だ。

「テーブル、片付けますね」

 シスター・セレンは手袋をしたまま、ウエットティッシュでテーブルを念入りに拭いて、クッキーの包みと珈琲の空き缶を一緒に紙袋に放り込んだ。

 ギムレイの指紋を拭き取ったのだ。

「先に車に戻っていてくれる? 何も怪しいことが無いか確かめておいて」

 ソロモンがにこやかに社用車のキーを差し出すと、

「了解。君たちもすぐに来てくれるんだろ? もう待つのはごめんだ」

 ギムレイはキーを人差し指に引っ掛けてくるくると回しながらと車へ向かった。駐車場に向かうゲートの前に立つと、センサーが人の動きを感知し強化鋼の自動扉は音も無く開いた。異常が起これば即座にロックがかかるシステムになっているが、何事も無ければこのゲートは簡単に開く。中のセキュリティが万全なので、面会者に威圧感を与えないよう、対外的な配慮がなされた結果だ。

 シスター・セレンはすれ違いざまにギムレイの無意識の記憶を読んでおいた。彼がどこに触れたのか、確認しながら手早く拭き取っていく。彼女の能力を使えば本人が処理するより余程正確で見落としが無い。

 ソロモンは手袋を嵌めているし、シスター・セレンも素手ではどこにも触らなかった。彼らが歩いた場所は、今日夕方の清掃で洗浄クリーナーが綺麗に拭き取ってくれる。

 手落ちがあるとすれば毛髪と衣服の繊維だが、それを分析するのは捜査部ではなく鑑識科だ。末端の捜査員と違って専門の技術教育を必要とする鑑識科は為政者たちの子飼いと言っていい。少数であるから反抗分子の選別が容易であり、圧力もかけやすいのだ。なんとでもできる。後で手を回すことにしよう。

 そもそも、ここに鑑識は入らない可能性のほうが高い。明日起こる事件は、ふたつとも即日解決する──させる予定だ。シャーリーが起こすデータ消滅のサイバーテロも、ラス・マドリガルの脱獄も。

 とは言え、簡単な方法で素人にも採取できる〈指紋〉を残して置くのはいかにもマズイ。どんな犬が入り込むか分からない。犬は些末な物証から稀に真実を嗅ぎ当てる。故に、この場所に〈ワイズマンの息子〉の痕跡を残すわけにはいかない。

 手落ちが無いか部屋を見渡して、ソロモンとシスター・セレンは紙袋に詰め込んだゴミを片手にギムレイの後を追った。

 自動のゲートを抜け、地下駐車場に出ると、ギムレイが目敏く二人を発見して、ぶんぶんと手を振ってくる。

 まったく……

 彼の無邪気な笑顔を見てしまうと、緊張がどこかに吹っ飛んでしまいそうになる。

「セレン。ギムレイの気を逸らして」

 ふっ、とシスター・セレンは笑った。いたずらを思い付いたような表情。

「ギムレイ」

 呼びかけて、彼女は駐車場の出口を指差した。釣られて、ギムレイはくるりとそちらを向く。

「あそこに蝶がいます」

「え? こんな所に蝶ですか? どこだろう?」

「もっと右です、右。その端のほうに小さな白い蝶が……」

「ええ? どこですか?」

 騙されているのに一生懸命に蝶を探すギムレイ。ソロモンは複雑な面持ちで、駐車場脇の監視所へ近付いて行った。

「おつかれさま」

 言いながらソロモンは小窓から手を突っ込み、面会申し込み用紙の束に手を伸ばす。係官は、あっ、と驚いたような声を上げたが、構わず上から数枚纏めて引き抜き、空中で能力を使って火を着けた。薄い紙は瞬時に白い灰になってサラサラと崩れ落ちる。

 係官は目を見開いてその光景を見詰めていたが、不意に気絶するように前のめりに突っ伏した。静電気のような肌を震わせる感覚がもちろんあった。

 これで、証拠は何も残らない……

「ギムレイ。蝶はもういいから、早く乗ってちょうだい」

 ソロモンに促されて、ギムレイはわずかに残念そうな表情を浮かべた。

「いや、でも……」

 居もしない蝶をどうしても見たいらしい。

「ギムレイ、行きましょう」

 シスター・セレンに腕を引かれて、渋々運転席に向かった。

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