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ふう、と彼女が吐き出した呼気から、濃い消毒薬に似たアルコールの香りが漂った。
「トドメを刺すポリスは匿名で報道される。顔のない誰とも知れぬ男が英雄になる。そして市民は、罪なき同胞の犠牲を防ぐ為なら犯人の即時処刑もやむなし、という思想に馴染み易くなるでしょうね……」
言って、彼女は再びソロモンにスコッチの瓶を押し付けた。肌には少しも赤味が射さず、酔っているようには見えない。
ソロモンは軽い嫌気をアルコールと共に飲み下す。じわり、と喉が焼けた。
「まったく、死刑制度の無いお気楽な楽園はいちいち面倒だわ。論理も見通しも無く、殺すな殺すなとただうるさくて。ヒューマニズムなんてくそくらえ。邪魔な奴は殺せばいい」
「セレン……」
「そもそも、あのやり方、かかる時間の面でもコストの面でも落第ものよ」
シスター・セレンが言っているのは、あくまでも犯人逮捕に拘泥し、交渉だけを無為に続けた市長──正確には、ディアナポリスを実質的に統治していた財閥総帥たちの作戦指示の事だ。当時はまだジャンヌ・ダルク・コーポレーションのCEOではなかったが、統治に関わる一族の総帥ではあったソロモンもテロリストに囚われた人質の中にいたというのに、彼等は積極的に仲間を救おうとはしなかった。状況は膠着し、挙句にマスコミ各社がこぞって中継を始め、最終的には完全にショーに堕していた。軍事に暗い、あるいは自分を見捨てようとした彼等をあの時ほど憎んだことはない。市民の命がかかっている局面で、為政者の手落ちは罪悪である。本音を言えば、自分を地獄に落とした者たちを、ソロモンは許せない……
あの時の為政者達の立ち回りの悪さを招いたのは、テロ対策を講じていなかった自分にも責任の一端があると思っていたから、批判は甘んじて受ける、という姿勢になった。
「あのマズイ作戦を実行するくらいなら、狙撃の方こそ充分に試す価値のある作戦だったと思うけどね。あるいは、少数の市民は切り捨てて、さっさと軍を投入し、撃っては退くの波状攻撃で対象を消耗させ、ダミアンの体力あるいは集中力が尽きたところで叩き潰せば良かった。〈ディアボロ〉と言っても生身の人間。独りで何時間も支えきれないわ。息が切れたらそこでチェックメイト。一対一で戦う必要も無ければ、殺さず捕える必要も無い」
自分が恐れているのもその物量作戦だ、と常々彼女は放言している。
もしも眠らないで済むなら、私は誰にも負けない……
つまり、それ──体力の尽きる時が弱点だ、と。
それにしても、少数の市民は切り捨てろ、とはよくも言えたものだ。戦闘とはいかに効率良く犠牲を割り切るかだと言う。言うが、その犠牲になる可能性のあった人質の中にソロモンもいたのいうのに……
シスター・セレンはソロモンの手から再びスコッチを引っ手繰った。下品な仕草で呷り飲む。
彼女が五年前、ディアナポリス当局に保護を求めた際、直接本人と交渉に当たったのはノーラで、司法局との調停役をしたのもノーラだ。そして最終的に彼女の身柄を引き受けた。シスター・セレンがそれを望んだという経緯もあるが、それにしても、この情の無い女と、あの情の無い女が、いったいどういう理由で結びついたのか、計り知れない……
そんなソロモンの気など知らずに、あるいは敢えて無視して、シスター・セレンは勝手に喋り続けた。
「犯人を狙撃できなかったのは、メディアが肥大し過ぎたからなのよ。市長やあなたのお仲間の総帥達は、処刑シーンを放送され、非情な統治者と断罪される事を恐れたのよ。民衆は常に刹那的で場当たり的な感情に流される。たとえ多くの人命を奪った凶悪犯であっても、いざ処刑される場に臨むと、掌を返して殺すなと叫ぶのが彼等なのよ。ダミアンのテロを敏速に処理できなかったのはメディアクラシーの末期症状ね。万単位の市民の命が脅かされている局面で、〈処刑による犯人の排除〉ではなく〈犯人の逮捕〉を望むなんて、狂っているとしか言いようが無いわ」
「だから、変えようとしてるんじゃないっ!」
思わずソロモンは声を荒げていた。言われなくても解っている。あの事件で嫌というほど身に染みた。だからこそ、今、こうして動いているのではないか。
怯懦に傾き、平和に歪み過ぎた市民の感覚に、価値観に、波紋を与え、危機管理を問おうと、こんな謀略を計ってまで……
ソロモンはそこまで考えて、不意に、シスター・セレンに向かってそれを言う資格は自分には無いと思い直した。
「怒鳴って悪かったわ……」
投げやりに呟くと、シスター・セレンは右手を挙げて、ぱたんっ、とシーツに突っ伏した。
「統治をなんだと思ってるんだ」
言って、ばふばふとシーツを叩く。
「もしかして、酔ってるの?」
ソロモンは意外な気持ちで彼女の長い髪に隠れた耳元を覗き込んだ。薄く朱でも射していれば可愛い気もあるというのに、冴え冴えとした蝋のような肌。それでも彼女は、
「酔ってるわ」
と、不思議な微笑みを浮かべてソロモンを見上げた。一瞬、泣いているように見えて、ソロモンは息を飲んだ。
「ノーラは来ないし、ソロモンはつれないし、あの坊やは子供みたい。そう、あの坊や。あれは最悪よ。あの天使みたいな子に、選りにも選って人殺しをさせるなんて……」
「セレン……?」
「感情が無いとでも思ってた? 触れ合えば情が湧くのは当然の事でしょう」
ひらひらと振られる白い手が、なぜかとても頼りなく見えて、ソロモンは咄嗟に目を逸らした。
触れ合えば情が湧くのは当然──まったくその通りだ。自分もギムレイに対して味わった。いや、今もまさに味わっている。感情を持つ存在は、自分以外の存在と共に過ごしているうちに、どうしようもない親愛の情を持ってしまう。抗えない本能だ。
彼女とて、望んで手を汚すわけではないのかもしれない。ソロモンが、ノーラが、ディアナポリスの為政者達が望んだから……
純粋な善意から、ただ助けてくれるつもりなのか?
感情が無いとでも思ってた──?
その言葉はソロモンの深い部分に落ちて根を張った。これは罪悪感。
もう、彼女を見ていられなかった。
†††
命を奪う感触は、誰もが本能的に嫌悪するものではないだろうか。触れた瞬間に、ハッと怖じ気付いて手を引っ込めてしまう。それが、命の、あるいは死の感触。肉を得る為に獣を捌いた事──は無くとも、小さな小魚を食べる為に捌いた事ならあるだろうか。知っているなら分かるはず。命を奪う一瞬は、慣れるまで、心を苛む。
ああ、ああ……
嘆きの声は高らかで、まるで稲妻のように、篠突く雨を従えて、その暗い両手を広げる。抱き留められて盲いてしまえば、もはや苦悩は無いのだと脅迫めいた誘惑。
死は溜息のように淡く……
†††
あなたはあの男を殺した。でも、殺さなければ、あなたが殺されていた──
そして、あなたは、また別の者を殺す。殺さなければ……
†††
暗い霧雨に包まれたオストロス刑務所は要塞のように見えた。
ハイウェイを降りると突然景色が変わる。高層ビルのひしめく近代的な都心部とは打って変わった郊外の長閑な丘陵地帯。低い山稜が間近に紫灰色に霞んでいる。耕作地と雑木林の中にいくばくかの古欧州風の住居や赤い屋根の畜舎などが点在する田園風景。発電用の白い風車も多く見られる。あの風車はすでに前世紀の遺物だ。風羽根が回る際に発する重低音が生物に与えるストレスが問題視され、今世紀初頭には廃れた技術である。それでも、ゆったりと回る姿は優しい。晴れていれば色鮮やかで心癒す眺めだろう。
その平和な景色の中に、オストロス刑務所は異質で不吉な佇まいを見せていた。百メートル程の見晴らしの良い芝生の緩衝地帯に囲まれ、厚みのある高さ十五メートル程の壁がそびえている。建物は強化素体混合の白いコンクリート製で、中央にはステンドグラスに彩られた天窓煌めくドームがある。その一部分だけが、ぽつんと花が咲いたように鮮やかだ。しかし、その天窓も、防衛を考慮し、最新技術で硬化されたチタン晶体硝子が使用されている。
何重ものセキュリティ。訓練を積んだ刑務官達。刑務所周辺は三キロにわたってリニアファン保有機体の飛行規制が敷かれ、緩衝地帯にはセンサーが多数設置されている。万全の警備体制。囚人の精神衛生と健康管理にも鋭意的に取り組み、最新理論に基づいた矯正プログラムも導入している。ディアナポリスの威信と誇りを体現させた施設である。
ソロモンはここを訪れるのに、目立たない黒の社用車を選んだ。
教会まで彼らが使う車を運転してきたドライバーは、古風なジェラルミン製のアタッシュケースから白い封筒を取り出して、それをソロモンに手渡した。
「副社長からです」
ソロモンは軽く頷いて受け取った。
午前中いっぱいを、ソロモンは教会のダイニングに持ち込んだ書類の決裁をして過ごし、シスター・セレンは信者への手紙を書くと言って自室に籠って過ごした。残されたギムレイは、書類を読んではサインを繰り返すソロモンの隣で、手持無沙汰にインターネットのライブ放送を見て時間を潰したが楽しめる番組は無かった。退屈でうとうとしかけた時、やっとソロモンが腰を上げた。
「そろそろ出かけようか」
「良かった。やっと動ける。もう退屈で窒息死するかと思ったよ」
ギムレイは皮肉を言いつつも目を輝かせた。両腕を伸ばして、んん、と大仰な伸びもした。
自室に籠ったシスター・セレンを呼び、幾らかの手荷物をまとめ、出発準備はあっと言う間に整った。
シスター・セレンは修道女服に白いケープを纏い、白い革製の手袋をしていた。薄手の黒いフロックコートを着たソロモンも黒い革製の手袋をしている。肌寒いとはいえ、ギムレイはまだ手袋が必要だとは思わなかった。二人とも寒がりなんだな、と彼は軽く片付けた。
ライセンスを持つギムレイが運転席に乗り込み、後部座席にソロモンとシスター・セレンが並んで座った。実際は襲撃を警戒する必要は薄かったが、ギムレイへのパフォーマンスで偽装装甲車を回させたのだ。見た目はごく普通のセダンだが、窓は全て鋼化耐衝フィルムの貼られたチタン晶体硝子で、カーフレームの下に仕込まれた分厚いセラミック装甲のせいで車体が重い。重いという事は慣性の法則が余計に利いて操縦が難しいという事だ。若いギムレイにはそれが面白いらしく、彼ほどの金持ちならばドライバーを雇えば済むところを、わざわざ自らが教習を受け特重車両の運転ライセンスを取得していた。
ギムレイは上機嫌でハンドルを握り、カーオーディオでお気に入りのポピュラーソングをかけた。一瞬、ソロモンは苦い顔をしたが、文句は言わずに飲み込んだ。
アクセルを軽く踏み込むと、仔猫の喉鳴りのような静かなモーター音を響かせて、車体はゆったりと走り出す。
ギムレイは気の向くままに、流れる音楽に合わせて鼻歌を口ずさんだり、大学で起きた事など他愛のない話題を振り、挙句運転に疲れて来たのか、
「装甲車にもリニアファンをつけたらいいのに」
と言って、ソロモンとシスター・セレンを苦笑させた。
半世紀ほど前にリニアファンを利用して浮いて走る乗用車が発明されたが、ブレーキの都合で実用には至らなかった。車体の一部──要するにタイヤが路面に接地している方がエネルギーコストは低く制御も容易なのだ。なにより、タイヤ車であれば事故などでエンジンに不具合が起きても、落ちる、ということが無い。遥か紀元前にメソポタミアで車輪が発明されてより数千年、未だ人類はそれを超えるものを得ていない。
刑務所の正門は施設全体の偉容に比べひっそりとしていた。小さな二重の門が自動で開き、乗車したまま敷地内へ入れる。ここではまだ人間によるチェックは無い。爆弾テロを警戒して超音波センサーは設置されているが、そのチェックはシステム化されていてコンピューターが自動で行う。構造を疑われる荷物があれば二番目の門は開かない仕組みだ。
奥に続く、両側を高いコンクリートの壁に囲まれた車一台がやっと通れる程度の通路を螺旋状に三十メートルほど進むと、地下駐車場に到着した。刑務所の外壁の内側沿いに、ぐるり、移動させられた感覚だ。
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