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「まあ、そういう訳だからビールくらい飲んで頂戴」
諦め混じりに言ったソロモンの横合いから、シスター・セレンが不満の声を上げた。
「あら、ソロモン。グラスは持って来てくれなかったのね。このビールにはそれぞれ専用のグラスがなくちゃ」
ダイニングチェアに腰を下ろしたソロモンと入れ替わりに、シスター・セレンがグラスを取りに立つ。大きめでボウル型の脚付きグラスと小さめの細いグラスをそれぞれ三つずつ、食器棚から取り出して、彼女は器用にそれを運んできた。
まずは赤いラベルの瓶からコルクを抜いてグラスに注ぐ。ねっとりとクリーミーな泡が立つ。色味は黒味がかった濃い琥珀色で、酵母の香りが華やかだ。
「トラピストビールです。教会で飲むのにぴったりでしょう。このグラスは聖杯をイメージしているんですよ」
自慢気なシスター・セレンに勧められ、ソロモンとギムレイは同時にグラスに口をつけた。琥珀色の液体の半分を一気に飲み下して、ホッと息をつく。舌にベルギービール特有のほのかな甘さとダークチェリーに似た華やかな香りが広がる。後味も濃厚だ。
「こっちも開けてみましょう」
言って、シスター・セレンは星のマークが描かれた瓶を手に取った。
「青島──チンタオという名前のアジアンビールよ。ディアナポリスのすぐ近くの国で作られてるんだけど、あまり輸入はされてないから珍しいでしょ。酵母の風味がベルギービールとかなり違うから飲み比べてみてちょうだい」
こちらは小さめの細いグラスに注いでいく。色は淡い蜂蜜色。見た目はアッサリしている。
「チンタオの方が味が軽いから、本当はこっちを先に開けるべきだったんだけど……」
言い訳しながら、それぞれの前にグラスを差し出す。
どうもボロが出そうな気がする。余計なことをしてアルコールなんて勧めず、護衛に専念させても良かったんじゃないのか。架空の護衛だけれど……
チラ、とシスター・セレンに視線を向けると、唇の動きだけで、
「あなたの為よ」
と囁かれた。
「さあ、飲んで」
勧められて、ソロモンとギムレイは同時に口を付けた。
薄い。しかしどこか癖がある。老酒に似た風味が微かに舌に乗り、鼻孔をスパイシーな香りが抜けて行った。
「これ……?」
いつか、どこかで飲んだ味だ。
「後味が何かに似てる……」
ソロモンは記憶を辿ろうとして、唇に触れた。思い出せない……
「うん、そうだね、何かに似てる。あ、分かったぞ。サラミだ!」
呆気なくギムレイは言い当てた。その通り。鼻に抜ける癖の強い香りは、ドライソーセージ独特のスパイスを連想させた。嫌な感じがする。何か、何かが、思考の端に引っかかる。思い出してはいけない。咄嗟に思った、その瞬間……
シスター・セレンがひっそりと言った。
「イタリアのスパイス? アジア酵母なのにね」
あ、と思った時には遅かった。ぱたっと顎を伝った涙が手の甲に落ちる。一度溢れたらどうしようもなかった。次から次へ、ふくれあがった涙が零れ落ちていく。なんという醜態。ギムレイに見られたら言い訳が面倒だ。
「ちょっと失礼……」
ソロモンは焦ってギムレイに顔を背けて立ち上がった。そのまま中庭への扉を開けて、ダイニングキッチンから外へ逃げ出す。
「どうしたんだ、ソロモン?」
「さあ? なにか大切な事を思い出したんじゃないかしら……」
後手で扉を閉めた途端、うう、と喉から微かな嗚咽が零れた。ソロモンは暗い中庭に立って、声を押し殺して泣いた。
あれは、ハイスクール時代。
クラブの用具室に隠れて友人達と飲んだビールだ。その時の輪の中に仲違いする前のラスもいた。あのビールの後味を、イタリアのスパイスだと言ったのはラスだ。ソロモンはラスが指したのはバジルの事だと思った。
だから、からかってしまった。
サラミの香り。ラスは正しかった。ああ、齟齬があったのだ。
ずっと、ラスとソロモンの間は、何かがズレて食い違っていた。もしも心が通じていたら、ラスはあんな風にはならなかっただろうか……
ありえない可能性を思い描いて、天を仰ぎ見る。夜空は厚い雲に覆われていて星明かりひとつ無い。救いが見い出せず、ソロモンは天を見上げたまま唇を噛んだ。雲の流れが速い。上空は風が猛っている。きっと、雨を呼んでいるのだ。
†††
翌日は暗い雨の一日になった。急激に気温が下がって肌寒い。
ギムレイは昨日の朝ジャンヌ・ダルク・コーポレーションを訪ねたまま、シスター・セレンの護衛という虚構の任務に駆り出されていた。本社ビルを出る際、ソロモンの秘書がスーツケースに着替え一式を用意してくれていたが、確か、その中に防寒用の肌着も含まれていた。翌日の天気まで配慮済みとは、さすがソロモンの秘書だ。
そんなことを考えて、ギムレイはクスッと笑った。
寝付いた時と同じ、黒い半袖シャツとボクサーショーツだけという姿で、清潔なベッドから裸足で抜け出す。ゲストルームの窓を開けると、冴えた冷気が吹き込んできた。雲は厚く立ち込め、霧雨が音もなく降りしきっている。窓の向こうは昨日ギムレイが手入れをした蔓薔薇の茂る中庭。
不思議だ。青空の下で見た景色と随分印象が違う。モノクロームの景色は陰気で、冷ややかで、墓地のような寂しさに沈んでいた。
肌を刺すような寒さにギムレイは両腕を抱えて微かに震えた。
訳もなく心細い気分になった時、ノックの音が響き、ソロモンが顔を出した。ギムレイは我知らず安堵の溜息をもらしていた。
「あら、いやだ。色っぽい格好」
婀娜っぽく唇を尖らせるソロモン。からかわれていると気付いたくせに、ギムレイは生真面目な顔で返す。
「そうかな。色っぽい? 君にも僕の魅力は通じるの?」
犬のような純真な仕草でギムレイはソロモンをまっすぐに見詰め、青い瞳がキラキラしていた。さすがに毒気を抜かれて、ソロモンは渋面を作った。
「ふんっ……冗談の通じないガキね……」
降参だ。色街の友人達ようにはからかえない。
「朝食出来てるわよ。さっさと顔を洗って、服装を整えてきて頂戴」
オーケイ、とギムレイは無邪気に笑った。
ダイニングテーブルの上にはこんがりと焼けたホットサンドが置かれていた。淹れたてのコーヒーとミルクも出される。
「素晴らしく美味しいです、シスター」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
シスター・セレンはそつのない笑顔で言い、
「良かったわね、ギムレイ」
ソロモンは呆れ混じりの声で言った。
「昨日は薔薇の手入れをして、夕食はくつろいでビールまで飲んで、たっぷり睡眠もとって、朝食はホットサンド…… 護衛をしているはずなのに緊張感がまったく無いですね。これでいいのかい、ソロモン?」
「あら、ギムレイがそんなコト言うなんて」
珍しい、と言いかけてソロモンは口をつぐんだ。余計な話を続けてボロが出ては敵わない。藪をつつくような真似は避けたい。
「まあ、今日はオルトロス刑務所に面会に行くから、多少は緊張してもらわないと」
こほん、とわざとらしい咳払いをした。
本音を言えば今日はギムレイと別行動を取りたかった。だが、任務中は可能な限り他者と接触させたくない、とシスター・セレンが言い、ソロモンは渋々ギムレイをオストロス刑務所まで同行させる事に同意したのだ。駒はなるべく見える場所に置いておく。それがシスター・セレンのセオリーらしい。
「オストロス刑務所? 交渉相手はまだ投降していないんじゃなかったのかい?」
「それとは別件よ。シスター・セレンはボランティアで身寄りの無い受刑者の話し相手もしているの」
我ながらよくもスラスラと嘘を重ねられるものだとソロモンは自己嫌悪に捕われたが、ギムレイは心底感心したという態で瞳を輝かせた。
「そうか。それは素晴らしい行いだ。さすがはシスターですね」
†††
昨夜遅く、シスター・セレンはソロモンのいるゲストルームに忍んできた。彼女好みのウイスキーを持って。
「少し話したかったの。作戦をゆっくり確認し合う時間も無かったでしょ」
いざとなれば、情報を一方的に、しかも瞬時に、対象の脳に叩き込み、自在に行動をコントロールする事もできる彼女が『言語による作戦確認』を重視する必要はない。ないが、今夜はそんな気分のようだ。
入ってもいいか、と視線で尋ねて、シスター・セレンはラフロイグの瓶を揺らした。
「いいわよ」
ソロモンは肩を軽く竦め、体とドアに隙間を開けてシスター・セレンを招き入れた。
ベッドに二人並んで腰掛けると、シスター・セレンはきついスコッチを瓶のまま呷って、口を離すとそれをソロモンにも押し付けて寄越した。飲め、という意味だろう。
一口含んで、ゆっくり飲み下す。喉が焼けるような味がする。
眉をしかめたソロモンを横目に、ポケットから折りたたんだ紙製の地図を取り出し、シスター・セレンはシーツの上に広げた。
「場所は〈ノースカルヴァン〉の、この辺り」
スラム化した一角を指して彼女の白い指が円を描いた。
「この周辺はゴーストタウンになっていて、小型の廃ビルが纏まって建っているの。それから、ここに袋小路がある」
決行の場所はここよ、と暗に示された。
「撮影はこのビルの五階から。撮影にジャンヌ・ダルク系列のメディアクルーは使わない。カメラマンは私が用意する」
「そうでしょうね」
ソロモンはうるさいメディア関係者達の顔を思い浮かべて溜息を吐いた。視聴率と踊っている彼等に機密保持が要求される汚れ仕事は出来ないだろう。考え無しに引っ掻き回されるのはごめんだ。
「警察には参加してもらうわ。対象確認と同時に通報して到着を待つ。その間、現場を抑えておくのはあなたと私の役目よ。犯人にトドメを刺すのはポリスが理想。まあ、実際は、ただの人間にパワー増幅系の〈ディアボロ〉が傷付けられるわけはないけど……」
だから、ギムレイが必要だった。ソロモンが下した判断だ。今更躊躇うのは図々しいだろう。肚を括らなければいけない。
「犠牲を出すわよ」
低い声で言って、シスター・セレンはソロモンの肩に手を置いた。
「取り乱さないでね」
オーケイ、とソロモンは彼女の手を払う。改めて言われるまでもない。分かっている。この作戦の原型はノーラ達が作ったのだ。犠牲が出たほうが説得力が増すことは、ソロモンも充分に理解している。ただ、可能ならば避けたかった。邪険に手を払われて、シスター・セレンは肩で笑った。ソロモンの手元からスコッチを引っ手繰って呷る。
「資料でも読んだけど、なぜ七年前のあの時、市長は早々に犯人の処刑命令を下さなかったのかしら?」
急に話を変えられて、ソロモンは軽く戸惑う。どうして、今、そんな話を?
「政治的には殺しても良かったはずよ。犯人の処刑と、市民の安全を守るという公益は、あの瞬間完全に合致していた。脱獄可能な力を持つ凶悪犯を収監しようなんてナンセンスよ。罪を償え、か……それは改心する脳機能を持つマトモな人間に向かって言うべきね」
ウインクをされて、ソロモンはムッと唇を尖らせた。
「辛辣ね」
うふふ、と狂人めいた含み笑いを零して、シスター・セレンは気怠げに首の後ろを拭った。それはどこか投げやりな仕草で、寂しく、荒んで見えた。
「結果的に、あなたは善い事をしたのよ。それなのに……」
シスター・セレンは淡々と続ける。手を汚したら、例え司法が許しても、本人が納得しても、理想主義者達から倫理的な逸脱を一生糾弾される。賛否両論渦巻いて、個人を圧し潰してしまうだろう。
あなたがそうなったように……
「だから、死刑執行人は正体不明であるべきだわ」
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