sequence_07

 ふう、とシスター・セレンは疲労の溜息を吐いた。

「ごくごく軽い暗示をかけただけよ。人格に影響は出ないわ」

 それでもソロモンの緊張は解けない。ギムレイを巻き込む以上、守る責任が自分にはある。

「本当なのね?」

「本当よ。私は寝首を掻かれたくないもの。あなた達との約束は守るわ」

「信じていいのね?」

 くどく食い下がるソロモンに、呆れ混じりのシスター・セレンの言葉。

「信じていいわ。なにしろ〈この私の命〉にかかわる事だもの。彼に危害は加えない。三十分もかからずに、馴染んで、普通に戻るわ」

 何が馴染むか──おそらく暗示だろうが、シスター・セレンは説明しなかった。ソロモンも追及しなかった。彼女はミスを犯したことが無い。少なくとも、記録上は無い。

「それなら、いいけど……」

 完全に納得できたわけではなかったが、ソロモンは引き下がった。そうせざるを得なかった。

 こうするしかない。

「ソロモン、辛いなら〈波〉を起こしてあげましょうか?」

「いいえ……いいえ……結構よ……」

 掌を固く握りしめて、顔を背けた。唾を吐けるなら吐きたい。

 辛い気持ちを消してやろう、と。それはまるで悪魔の誘惑だ。

 人の上に立つ事は苦しい。感情が無ければどれほど楽に生きられることか。だけど、それは、自分の罪を背負わないという、逃げだ。支配する一族に生まれた自分が、手を汚して生きるよう生まれた自分が、犠牲の上を歩くよう生まれた自分が、その逃げを甘受してはいけない気がした。青臭いと言われても、ソロモンには意地がある。

 何度誘惑されても拒む。拒んでみせる。

 鋭く息を吐き出して、気持ちを切り替える。ズルズルと情に浸っているわけにはいかない。自分には責任がある。責任があるのだ。察したのか、読んだのか、シスター・セレンは優しい微笑でソロモンを中庭に置かれたベンチに誘った。

 腰を下ろしたソロモンを横目に、黙ったまま住居棟に入って行きソーダの瓶を二つ持って来た。ソロモンはそれを受け取り、素直に口を付ける。冷たいソーダがシュワシュワと心地良く弾けて喉を伝い、ほんの少し、ソロモンを慰めた。

「それにしても……あんたが交渉人なんて図々しいわね。しかも〈ワイズマンの息子〉を護衛に付けるなんて」

 声はまだ少し硬かったが、気分は多少マシになっていた。

「素敵な騎士で役得だわ。彼の金髪は童話の王子様みたいね。それに、美しい賢者の王も、この私の護衛なんでしょう、ソロモン?」

「ほんっとに図々しい女。あんたは守ってもらう必要なんて無いでしょうが」

 うふふ、とシスター・セレンは意味深長に笑った。

「ところで、アレ、何をやらせてるの?」

 黙々と蔓薔薇の手入れを続けるギムレイを指さして、ソロモンは皮肉な口調で尋ねた。

「戦闘訓練」

「はあ?」

 本当にわからない。

「頸動脈だけを……」

 言いながら、シスター・セレンはトントンと指先で自分の首筋を叩いた。

「狙って切らせないといけないでしょ」


   †††


「どうして〈ワイズマンの息子〉なの?」

 あの夜、ノーラ──ジャンヌ・ダルク・コーポレーション副社長は、あらかたの話がついた後、改めてソロモンにそう尋ねた。広過ぎるCEО執務室は無機質で、空漠とした雰囲気が重い。

 ノーラの白くなった髪が僅かに目元にかかり憂鬱そうな陰を作る。痩せた肩に疲労の色が濃くなった。

「〈能力〉の事はよく分からないけど、暗殺に最も適した〈ディアボロ〉はマリアベルじゃないの? 未成年だからという理由で除外される事ではないでしょう」

 良識派が聞いたら目を剥きそうな台詞をサラリと言って、ノーラはぬるくなった珈琲に口を付けた。マリアベル、というのは半年前に北東部のスラム街で家族と共に保護された十二歳の〈ディアボロ〉の少女だ。物体を石化させる能力を持っている。その力を評価され、ディアナポリスの市民権と家族への助成金を受け取る代わり、軍属として特殊訓練を受けていた。その幼い少女を、ノーラは人殺しに使えと言ったのだ。ソロモンは彼女のそんな面を見るたびに、情の無い女だ、と思う。子供だから、女性だから、弱いから、そういう理由では、彼女が特別に保護したり、労苦を免除する対象にはならないらしい。女子供に甘いソロモンは彼女から見ると未熟に映るようで、為政者に相応しい分別を身に付けろ、といつも叱られる。

 言い訳を──いや、説明をしなければならない。人体の一部を狙って石化出来る〈ディアボロ〉であるマリアベルを除外したのは年齢や性別が理由ではない、と。

 ソロモンは溜息混じりに口を開いた。

「そうね。例えば……脳幹を狙って石化させることができるなら証拠は残らないし、確実よね」

 ええ、とノーラが先を促すように頷く。

「でも、出来ないの」

 ぱっと両手を上向きに広げて、ソロモンはお手上げのポーズを作った。

「私たちの力は肉体に接地する空間から時空連続的に発現する。隔絶した空間に自在に発現させることは出来ないのよ。説明は研究者の受け売りだけど、実際にそういう感覚ではあるわ」

「そう……」

 ノーラの声は無感動だった。がっかりした様子もなく、驚いた様子も無い。

「だから、目視できない気流を操れるワイズマンの息子がこの任務には最適なのよ。それに、派手な演出をしたいんでしょう? もし──脳幹だけを石化させるという法則無視な芸当がマリアベルに可能だったとして、犯人が脳卒中で倒れても目的は果たせないと思うけど?」

 畳み掛けるようにソロモンは言った。ノーラが納得したという確証を得たい。強迫観念めいたものが浅くちらつく。

「そうね、ソロモン。その通りだわ。解り易く〈やむなき殺害〉をアピールしたいわ」

 ソロモンは目に見えて肩の力を抜いた。安堵の溜息に声が乗らなかったのは奇跡だ。

 不意に、ノーラに仕返しの意地悪をしたくなった。

「ねえ、ノーラ。シスター・セレンをあなたが指名しなかったのはどうして?」

 ぴくり、とノーラの瞼が震えた。シスター・セレンは、ノーラの唯一の弱点。政治的に有効でない保護行為をしないノーラが、なぜかシスター・セレンだけは理由も無く保護しておきたがる。弱味でも握られているのかと疑った時期もあるが、それならノーラは物理的に排除する道を選ぶだろう。感情的な理由に違いない、とソロモンは結論付けていた。

「使いたくなかったの? 確かに、精神操作系の〈ディアボロ〉だけでは単独での任務遂行は難しいかも知れない。でも、チームを組めばその欠点は帳消しになる。彼女こそ最も暗殺に適した人間のひとりだと思うけど」

 ノーラは答えなかった。ただ、寂しそうに微笑んだだけ。


   †††


 青空に薔薇が舞う。

 緩やかなハミングが微かに響いてくる。鼓膜を震わせるギリギリの弱さ。

 ギムレイが歌っているのだ。

 古い子守唄の明るく優しいメロディ。

 ──星の導き、星の瞬き、キラキラ光る。神様、神様、僕を見守ってください。僕が良い子になれますように。神様、神様、明日も空が晴れますように……

「ね、元に戻ったでしょ?」

 シスター・セレンに得意気な小声で言われて、ソロモンは不本意ながら、そうね、と頷いた。

「見事に、元の能天気坊やに戻ったわね」

 上機嫌に歌いながら蔓薔薇の手入れをする美しいが純朴な青年。綿雲の浮いた青空と古い煉瓦の教会を背景に、純金を溶かしたような眩しい髪が午後の光を反射してキラキラと輝く。まるで絵本でも眺めているようだ。

 落とさなければならない薔薇の花枝は残りわずか。五分とかからずに作業は終わるだろう。

「彼、良い仕上がりね。最初から指示通りに出来たし、ミスは一度も無いわ。素直な性格がうまい具合に技能と合致してる」

 聖母のような微笑みを浮かべて、シスター・セレンは一人庭師仕事に徹する生真面目なギムレイを褒めた。それから何気ない調子でぽつりと続ける。

「それで、決行はいつにするの?」

 チリ、と耳の後ろが灼けた。シスター・セレンは、ソロモンに委ねる、と言ったのだ。いつ、ラス・マドリガルを殺すのか。

「そうね。早い方がいいわ。御曹司のギムレイをいつまでも一市民の護衛として拘束しておけないもの。私も業務を長く離れたくない。これは事後処理の方が面倒な案件だから……」

 シスター・セレンは、ソロモンに視線を向けなかった。顔を見られたくないと思うソロモンを気遣ってか、ただ単に興味が無いのか、相変わらず穏やかな笑顔でギムレイを見詰めている。そして、バカンスの予定でも数えるように左手を指折り数えて言葉を続けた。

「じゃあ今日はこの後、私の手料理で親睦を深めて」

 親指を折る。

「それから皆でうちに泊まって」

 人差し指、

「明日の朝オルトロス刑務所に面会の申し込みをして」

 中指、

「私とソロモンだけで対象に会って」

 薬指、と順番に。

「多少の準備も必要だし、小鹿ちゃんに脱獄してもらうのは明後日かしら?」

 五本目の指が折られて、間を置かずぱっと掌が開かれる。

「それでいい?」

 白い手がソロモンの目の前で振られた。

「ええ」

 明後日……

 ラスは世界から消える……

「強がり」

 パスッ、と軽い音が響き、最後の薔薇が空に舞った。


   †††


 シスター・セレンお手製の夕食は完璧な家庭の味だった。帰省した学生がママに食べさせてもらう類の……

 テーブルの上には、茹でた青豆と人参、ポテトを添えたトッド・イン・ザ・ホール。作り置きのローストビーフに、キャベツのスープ、バターの利いたブリオッシュ。デザートはふわふわのレモンメレンゲパイである。

 甘ったるい郷愁の気配。物語で疑似体験した『何もかも許されていた遠い日の思い出』が浮かんできて、ソロモンは泣きそうな気分で目を閉じた。勘弁してほしい。ここのムードは、早くに母を亡くした自分には毒だ。

 料理の効果はギムレイにも発揮されたようで、とろんと無警戒の子供のような表情になっている。

「ギムレイ、ビールはいかが?」

 空になったギムレイの皿にローストビーフを足しながら、シスター・セレンは視線でソロモンに指示を出す。冷蔵庫から持って来て頂戴、と。

「わかったわよ」

 ソロモンは素直に立ち上がってビールを取りに行く。冷蔵庫を開けると、二種類の瓶が三本ずつ整然とスクエアの銀盆に並べられていた。銀盆ごと全部のビールを取り出す。

「いえ、アルコールは。僕はあなたの護衛を努めねばなりませんし」

 ギムレイは慌てて首を振るが、銀盆に乗せたビールを手に戻って来たソロモンが、冷えた瓶を一本、ふざけて頬に押し当てると相好を崩した。

「ソロモン。冷たいよ」

「そんなに構えなくて大丈夫よ、ギムレイ。交渉は極めて順調なの」

 ソロモンは咄嗟に考えた嘘を連ねる。

「シスターの交渉相手は身の安全さえ保障されれば数日中に投降すると言っているし、所属していた組織との取引もほとんど纏まっているのよ。本当は護衛なんて必要無いの。ただ、彼女はノーラの友人だから……」

「ああ」

 得心顔でギムレイは手を打った。

「大切な友人を安心させる為に、君が一肌脱いでいるんだね」

 特権階級のわがまま、と受け取ってくれてよかったんだけど……

「まあ、そういうこと。あなたにまで迷惑をかけてしまって申し訳ないけど、ノーラがどうしてもギムレイに護衛をして欲しいと言って……」

「そうか。信頼してもらえて嬉しいよ」

「ギムレイ……」

 ソロモンは天を仰いで片手で額を覆った。

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