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 シスター・セレンは明け方近くまで資料を読み耽っていたようで、この応接室に来る前に彼女のいる仮眠室を訪ねると、まだ眠たそうにしていた。ソロモンがギムレイの来訪を告げると、額に手を押し当てて低く呻いた。

「仕方ない。シャワー浴びてくるわね。何か着替えを貸してくれる?」

「一式用意してあるわ」

 シスター・セレンは不機嫌そうにシャワールームに消えて行った。

 意識を目の前のギムレイに戻す。やっとソファに腰を下ろして、そわそわと落ち着かなげに珈琲を飲んでいる。

 恋した相手に似ているという理由で好意を寄せるのはいかがなものかしら……

 似ているという理由で……

 暗い眩暈に襲われかけて、ソロモンは慌てて頭を振った。

「それで、シスター・セレンはそんなにあなたの知人に似ているの?」

 資料で確認までしてあるくせに、ソロモンは敢えて訊いた。これには、意外な答えが返ってきた。

「いや。昨日は驚いてしまったけど、よく考えたらそれほど似ていませんでしたよ。髪や瞳の色と背格好が似ていただけで、雰囲気はまったく違う。〈彼女〉は、なんというか、シスター・セレンのようには笑わなかった……」

「え……」

 そんな馬鹿な。あれは誰が見ても瓜二つ。髪色や体格が似ているという程度ではない。容貌──顔の造作が酷似している。シスター・セレン本人でさえも似ていると認めたのに。

 印象が違うから?

 思い入れの深さが違うから?

 ギムレイには、似ていない、と映るの?

 ああ、でも、これが人間の感覚というものなのかしら。別人は別人……

「そう。良かった……」

 ソロモンはなぜか救われたような気分になった。

「ところで、偉大なるソロモンが、僕如きに頼みたい仕事というのはどんな内容です?」

 言われて落日のように気分が落ちる。ここ数日こういう落差が激し過ぎて苦しい。

 仕事。そう仕事を──〈しなければならない事〉を果たさなければ。

 ラス・マドリガルを殺す。

 脱獄した凶悪犯を、カメラの前で、やむなく殺害する。

 私達──そう〈我々〉が関わったという証拠を残さない為に、どうしてもギムレイにやってもらわなければならない。人間が鋭利な刃物で切ったように、傷口に〈切断〉以外の〈物理的痕跡〉を一切残さずに済む能力。彼でなければならない。どうしても彼でなければ……

 これは最高に悪趣味な暗殺ショー。

「ソロモン、顔色が悪いよ。まだ体調が優れないんじゃないか?」

 ギムレイは心配そうにソロモンの顔を覗き込んだ。

「大丈夫よ」

 ソロモンは軽く首を傾げて笑ってみせる。ギムレイに不審を抱かせてはいけない。

 私は、私の責任を果たす……

 ソロモンが掌を握りしめた時、軽やかなノックの音が響いた。

 シスター・セレンが軽く会釈をしながら入ってくる。それに応えてギムレイも爽やかな笑顔を浮かべた。

 気を取り直して話を進めなければならない。ソロモンは軽く咳払いをした。

「頼みたいのは、彼女の護衛よ。ある組織に所属する麻薬密売人が自首したいと打診してきてね、彼と交渉にあたっている彼女を守るの。それが私達の仕事……」


   †††


 ギムレイがソロモンの庇護下に入った経緯は単純である。

 七年前のあのテロ事件の後、一年程が過ぎた頃、ギムレイの父シド・ワイズマンが、まだ少年だった彼を連れて来た。ソロモンが〈ディアボロ〉であったからだ。それも、不運によって異能の力を持っていると露見してしまった〈特権階級では唯一の存在〉であった。上流階級に属し、異能者であると知られている者は他には居ない。

「息子と親しくしてやってくれないか」

 シド・ワイズマンはテーブルに頭を擦りつけるようにして懇願した。

「身勝手な頼みと分かっている。だが、君の庇護が欲しい。息子の力を隠す為に、息子を護る為に、君の経験に学ばせてやって欲しいのだ。知恵と力を貸してやって欲しい」

(よくも、この私に向かってそんな事が言えるわね……)

 ソロモンは軽蔑と嫌悪を込めて、自分に縋るシド・ワイズマンを見下ろした。〈能力〉が露見し、人々の偏見という見えない暴力に晒され、今まさに最も苦しんでいるのはソロモンだ。そのソロモンに、君と同じ目に遭わないように息子を護ってやってくれ、とこの男は言っている。デリカシーの欠片も無ければ、図々しい事この上ない。

 その少年を護ってやることで、自分にいったい何の得があるのか──

 そう考えた途端、はた、と気付いた。なるほど、得がなければいけない。つまり、この男は息子の為に、ソロモンの奴隷になる覚悟でいるのだ。

 そうであるなら乗ってやってもいい。

 哀れなミスター・ワイズマン……

「ギブアンドテイクでなければ受けられないわ。私が必要な時には、シグルト・コミューンと、その会長であるあなたと……」

 ソロモンはそこで一旦言葉を切り、冷酷な視線を、まだ子供の風情を残すギムレイに流した。わざと高圧的に少年と目を合わせ、

「当然、〈彼〉の力も借りられるんでしょうね?」

 言うと、ギムレイは真摯な表情で真っ直ぐに頷いた。力強い、信念に満ちた仕草だった。

「はい。あなたのお役に立ちます」

 その時の、キラキラと輝くスカイブルーの瞳を、ソロモンは今でもよく覚えている。

 対照的に、彼の父はまるで泣くようにソロモンの手を握り、

「もちろんだ。できる事はなんでもする。助力は惜しまない。惜しまないとも」

 同じ意味の言葉を何度も何度も繰り返した。溺愛だな、とソロモンは冷たく思ったものだ。

「そう。じゃあ、同盟成立ね」

 それから、影に日向にソロモンはギムレイを後見し、時には忠告や警告もしてきた。

「あなたは人に好かれる容姿をしている。性格も良いわ。そのまま周囲の好意は引きつけておきなさい」

 ソロモンはギムレイに帝王学の一端を教えた。

 その笑顔と態度で誰とでも親しく付き合え。だが、利害関係の無い友人は信用するな。一蓮托生で結ばれた者でなければ些細な感情で簡単に敵に回る。叩き潰す覚悟を持てない相手には弱みを見せるな。よしんば見せても、弱みであるという顔をするな──

 ギムレイはそれら全てを素直に受け入れた。

 実のところ、彼の父に「ソロモンに後見を頼みたい」とせがんだのは他でもないギムレイ自身であった。〈能力〉を持つ息子の身に不安を覚えていたシド・ワイズマンは、テロリストをも倒した強力な〈ディアボロ〉にならば、可愛い末息子の身を託せるやも、と希望を抱いた。それがソロモン・アスカリドであれば、地位も経歴も申し分ない。父の思惑は庇護の請願にあったが、ギムレイは別の理由でソロモンを選んだ。

 フィーネの仇を討ってくれたソロモンに憧れ、単純に近付きたいと思ったからだ。

 子供の直情的で純真な動機。それはまだ誰にも打ち明けていない。


   †††


 蔓薔薇の盛りを過ぎた花が空に舞う。

〈イーストブラン〉にある古い教会の中庭。ギムレイは一人黙々と蔓薔薇の手入れをしていた。風を操る〈ディアボロ〉で鎌鼬を起こし、満開になった花の茎を切り取り、宙に舞った花枝を、音を立てずに麻袋の中に回収する。

 庭の片隅に据えられた巣箱に住むリスをおどかさないで、とシスター・セレンに懇願されて、こんな奇妙な庭師の真似などしているのだ。本物の庭師に頼むと枝を切る為にリスの巣箱に近づかねばならないし、大きな音も立ててしまう。そうしたらせっかく住み着いてくれたリスがいなくなってしまう、と彼女は言った。

 ギムレイとシスター・セレンは午後二時までソロモンの仕事に付き合い、遅い昼食を取った後、社用車でこの教会に移動した。休憩と任務の確認がてら中庭で紅茶を飲んでいた時に、不意に蔓薔薇とリスの話をされたのだ。

「……だから、ずっと蔓薔薇の手入れが出来なかったんです。でも開き切った花は落としてあげないと樹が疲れてしまって、来年綺麗な花が咲かなくなってしまうんですよ」

「ああ、なるほど。それはいけませんね」

 ギムレイは素直に頷く。シスター・セレンも穏やかな微笑を浮かべ、ええ、と頷いた。それから、両手を膝の上に重ねたまま彼女は言った。

「ギムレイ、あなたなら、巣箱のリスをおどかさずに薔薇の手入れが出来るんじゃないかしら。あなたは風を操る〈能力〉をお持ちなんでしょう?」

 瞬間、ギムレイは珍しく表情を強張らせた。〈ディアボロ〉であるという事は、そういう事なのだ。ギムレイのような天真爛漫に見える青年にさえ、暗い思いを抱かせる。それほどに人に知られたくない事なのである。

 思わずソロモンに視線を走らせる。

 昨日知り合ったばかりの女性が、自分の〈能力〉のことを口にした。つまり、ソロモンが伝えたということだ。彼が秘密を漏らすなど、初めての事であった。

 ソロモンは、プイ、とつまらなそうに横を向いて頬杖をついていた。常と変わらぬ、神経質で少し退屈したような、ややもすると不機嫌にすら見える表情を浮かべて。細い首、華奢な体格。滑らかなアイボリーの肌に、絹糸のような黒髪。東洋系独特の柔和で中性的な容姿は純粋に綺麗だ。希少なアメジストの瞳は鋭い光を湛え世界を射抜くようで……

 しかし、その色は常態の青み掛かった透けるような紫で、赤味は射していない。

(いつもの彼だ)

 それで、やっとギムレイは緊張を解いた。任務の為に自分の〈能力〉を彼女に知らせる益があるのだろう。ソロモンがそう判断したのであれば、信頼する。

(彼が認めたなら、彼女はきっと秘密を守ってくれるだろう……)

 気を取り直して、ギムレイは笑顔を浮かべた。

「お安い御用です。任せてください」

 さっそく、と腕まくりをして庭師仕事に取り掛かろうとすると、シスター・セレンが制止の声をかけた。

「ちょっと待ってください。本番の前に練習をしましょう」

 言って、庭の奥から鉢植えの薔薇を持って来る。

「この鉢の花を切ってください。あなたの〈能力〉で」

「それなら、地面に下ろして頂かないと。持ったままでは危ないですよ」

 苦笑を浮かべてギムレイは忠告したが、シスター・セレンは頑是なく首を振った。

「いいえ、このままやってください。細い茎だけを切って、他には傷を付けないで。それが出来ないとリスをおどかしてしまうでしょう?」

 強引なシスター・セレンの物言いに、ギムレイは少し困ったように肩を竦める。できない芸当ではないが、なるべくなら女性を危険な目に遭わせたくない。彼の操る風は、鋭く繰り出せば鎌鼬になる。真空の刃であり、イメージよりもずっと危険だ。

「ギムレイ。さあ、早く」

 それでも、やってみせなければ彼女は納得しないだろう。ギムレイは覚悟を決めた。リスをおどかさないで欲しいという彼女に、自分はそれが出来ると証明しなければならない。

 〈ディアボロ〉を発動させようと意識を集中させると、見越したようにシスター・セレンが口を開いた。

「ギムレイ。もっと力を細く、細く引き絞って。ダーツのように」

 指導されている──?

 言われた通り、ギムレイは力を細く引き絞り、ダーツのイメージで発動させた。

 パスッ、と軽快な音が響き、茎を切られた薔薇の花が鮮やかな青空に舞い上がる。衝撃でシスター・セレンのヴェールが飛ばされ、銀色の髪がブワッと蝶の翅のように広がった。

「お見事」

 賞賛の声は高らかで、ギムレイは蜜のような満足感を得る。

「もう一度、今度はこの花をお願いします」

 シスター・セレンが示したのは、彼女の唇に触れそうな位置にある花だった。

「いや、そこはさすがに危ない」

 際どい依頼にギムレイも及び腰になる。

「出来ないと困ります」

 彼女はやけにきっぱりと断言した。

「いや、でも……」

 躊躇して狼狽える青年は、ちら、と救いを求める眼差しを再びソロモンに向けた。ソロモンはそれも無視する。シスター・セレンがする事に、今は口出しすべきではないと察したからだ。彼女には何か、考えがあるらしい。

「やるのよ。やってください」

 声に籠る陰の気配。空が曇るような錯覚。シスター・セレンの声はギムレイに意識させずに場を支配していく。

「気をつけて」

 こくん、と従順にギムレイは頷いた。

「私を傷付けないで」

 ビリッ、と空気が震えた。見えない落雷に撃たれたような感覚。能力を使ったのだ。シスター・セレンが。

 フッ、と再び今度は羽音のような微かな音が鳴る。薔薇の花が舞い上がった。シスター・セレンの髪は乱されない。静かだ。しん、と静まり返っている。

 ああ、極めて狭い範囲で能力を発動させることが出来た。

 これを、シスター・セレンは望んでいた。

「わかった……君を、傷付け、ない……」

 熱に浮かされたような口調でギムレイは呟いた。目の焦点が合っていない。

「良い子ね。もう練習はいいわ。蔓薔薇の手入れをお願い。時間がかかってもいいから、狙った茎以外を傷付けないように丁寧にやるのよ」

「……ああ、わかった……」

 微睡んだような虚ろな表情で、ギムレイは作業に取り掛かった。

「ちょっと。どうして能力を使ってるのよ。ギムレイは大丈夫なんでしょうね?」

 ソロモンは小声で怒鳴りながら乱暴にシスター・セレンの肩に手をかけた。事情によっては許しておけない。

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