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テレパシーのことを、二十世紀に流行したレトロSFを嗜好するファンは〈念波〉と呼ぶ。だからなのか、シスター・セレンは感情を〈波〉と呼び、力を行使することを〈波を起こす〉と言う。詳しいことはわからない。彼女の能力はシナプスの微弱な電流に干渉する類であるらしい。波を起こして電流に干渉する──そんなことが可能なのか、学者でないソロモンには判断がつかない。
原理はともかく。個人の人権を考慮しなくても良いのであれば、記憶の書き換えも、人格の破壊も、彼女には容易だ。
そんな彼女が、フィーネ・ハイゼンベルクとダミアン・スミスの資料を見たいと言った。自分と同じ〈ディアボロ〉を知りたいと思うのは自然なことだ。それでも彼女が他人に興味を持ったということがソロモンには意外だった。ソロモンの知る限り彼女は人間嫌いで、調査員の報告書にも、あの教会はメイデン副社長が時々訪ねているくらいで、稀に宅配などの業者が訪れる以外、信者や親しげな訪問者を見掛けたことは一度も無い、と記載されていた。
それに今夜はここ──ジャンヌ・ダルク・コーポレーションの本社ビルに泊まると言ったのも意外だ。シャワーはあるし、この控室の他に仮眠用のベッドを据えた部屋もあるが、女性ならホテルのセミスイートの方を好むと思っていた。必要ならすぐに用意させると言ったのにシスター・セレンは鼻で笑って却下した。
そして社長用控室のソファにどかっと身を沈めたまま、きついスコッチウイスキーを呷って黙々と資料を読んでいる。
外見は可憐の女性なのに、していることは完全にオヤジだ。どうしてこんな無粋なスピリットが、華奢で綺麗な女の器に入っているのか。ソロモンは神のミステイクを呪いたくなった。
グラスを傾けながら、食事が欲しい、と言われて頭痛がする。食事に出掛けるつもりも無いわけだ。秘書にコールしてレストランのデリバリーを注文してもらう。届けられた二人分の夜食をローテーブルの上に広げて、ここはむさ苦しい刑事の詰所か、とソロモンは呆れ返り、しかし、それだけ真剣に〈計画〉に取り組むつもりなのだ、と一人上手に気を取り直した。
「ソロモン」
不意に名を呼ばれて、ソロモンはシスター・セレンの聖女のような横顔を覗き込んだ。資料から目を離さずに彼女は続ける。
「あなた達、運が悪かったわね。ダミアン・スミスは〈ディアボロ〉差別に抵抗する指導者モニーク・ヘッセの〈解放〉を掲げてテロを決行したけど、モニークの真の理解者ではなかったようね。モニークは自身の解放を望んでいなかった。それがダミアンに理解出来れば……」
ピリッ、とソロモンの表情に嫌悪に似た緊張が走る。
「交渉の余地があった──?」
シスター・セレンは、黙って首肯した。
ここ数年何度も繰り返し味わった、当時の政府首脳部の手落ちを詰る思いがソロモンを襲う。彼らの怯懦は、あれから七年たった今もなんら変わっていなかった。
モニーク・ヘッセは、ディアナポリスの市民憲章に〈ディアボロ〉の権利を保護する条項を書き加えるよう主張している、自身もまた〈能力〉を有する運動家である。
しかし、彼女の提唱する〈ファミリア主義〉はテロを容認しない。
彼女は〈ディアボロ〉を
支持者と共に度々デモ行進を繰り返し、何度目かに、彼女の非暴力主義に同調しない過激派の若者が暴動を起こし、責任者として遂に逮捕された。最初は騒乱罪で、次いで反乱使嗾罪で起訴され、反ディアボロ思想を持つ者が大半を占める裁判員裁判によって禁固二十年の刑が科された。彼女は、〈ディアボロ〉を〈選ばれた者〉として崇める者たちにとって、その思想の拠り所、権威の象徴となっている。翻って、本人は暴動の首謀者に担ぎ上げられることを嫌って、収監され続けることを望んでいる。皮肉な話だが、刑務所の壁が、彼女を望まぬ立場から護る砦になっているのだ。
それでもテロは起こる。彼女の主義を、思想を、曲解した愚か者たちによって。
「あるいは、市長が決断のできる男だったなら、もっとマシな展開になったでしょうね」
「決断、していれば……」
「ソロモン?」
硬直した体を、こつん、と肘でつつかれて、また激しい疲労感に襲われる。ダミアンのような過激派が出現する事はどうしようもない。だけど、あの時、市長がなんらかの決断さえしていれば、自分は、あの事件の後、親しい人々からの手痛い離反に遭わずに済んだかもしれない。手前勝手な我儘だと自覚してはいるが、それでも、何度も煩悶した考えが頭をいっぱいにする。あの日の流れが違っていれば……
流れが、違ってさえいれば……
──そう思うことで不意に、引き摺られるようにもうひとつの〈嫌な事〉を思い出した。もっと個人的で、もっと深い場所を傷つけた狂おしい出来事……
だけど、あれは些細な事だった。まだしも変えようがあったのではないかと思ってしまう。
もしもあの時……
今更な思いに囚われて、ソロモンは澱んだ場所に落ちていく感覚を味わった。
「ごめん。ちょっと眩暈がする。申し訳ないけど、先に休んでもいい? 私は下の仮眠室を使うから、あなたは隣を使って」
「オーケイ。おやすみ」
シスター・セレンは軽く言って、ひらひらと片手を振った。後はモニターに視線を戻し、じっと身動ぎもせず、透明な瞳で資料を見続けていた。
†††
かつての友人──今では凶悪な連続殺人犯になってしまった男──ラス・マドリガルのことを思い出すとき、ソロモンはいつも苦い思いに囚われる。
後ろ手に扉を閉めて、鍵をかけて、そのまま永遠に忘れてしまいたい、嫌な記憶。
ハイスクール時代のラスは、明るく爽やかなスポーツマンで、女の子の人気を一身に集めるアイドルのような存在だった。
彼が、ソロモンにだけ向ける暗い視線に気付いていた人物は少ない。ソロモンと、ラスの友人一人と、学校勤務のカウンセラーだけ。
ラスがソロモンに向ける熱のこもった物言いたげな視線は酷く蠱惑的だった。背筋を撫で上げるような情欲に揺れて、そのくせ若い憧憬を瑞々しく纏い、官能の波に濡れていた。いっそ打ち明けてくれればいいのにとソロモンは甘く願ったが、敬虔なカトリックの家系に育ったラスは自分の性癖を受け入れられずに苦しんでいた──後年カウンセラーが業務規程違反を犯して教えてくれて、ソロモンは当時の彼の懊悩を知ったのだ。カウンセラーがそんな真似をしたのも、あの事件を知って落ち込むソロモンを見兼ねての事だった。
まだ恐ろしい事件は何も起こってはいず、ソロモンは純粋な少年だったあの頃。彼は確かにラスが好きだった。ただ単純に。
罪悪感に雁字搦めにされて、ラスの視線は日増しに暗く深くなっていく。同性に魅かれる自分の罪が赦せない。それでも諦めきれず、ラスはソロモンを熱で絡め取るように見詰める。
無言の、濃密なラブコール。
美しいマドリガル──恋歌を遠くに聞くように、ソロモンもラスを目で追った。
ラテン系独特の艶やかなオリーブの肌。漆黒の髪は緩く波打って額にかかる。青味掛かった瞳は夜空を映したようで、ソロモンの前でだけ憂いを帯びる。熱病に犯されたように、肌がひりひりと痛んだ。
「付き合ってやるよ」
ある日、唐突にラスは言った。放課後の教室で、まだ数人の生徒が残っていた。
「付き合ってやる」
ラスの声は異様な悪意に満ちていて、おかしいくらい明瞭に通った。その場にいた全員がラスとソロモンに視線を集める。ざわざわと好奇と揶揄の呟きがこぼれ出す。ソロモンは青褪めて立ち竦んだ。
「おまえゲイなんだろ。俺は男なんかごめんだけどさ、でもおまえが健全な学友たちを誘惑して毒牙にかけるのを黙って見ているわけにはいかないだろ。だから、俺が犠牲になっておまえと付き合ってやる」
何を言われているのか理解できなかった。理解できなかったが、勝手に口が動いた。
「いやだ」
途端にラスは激高した。
「ふざけるな! この俺が付き合ってやるって言ってるんだ!」
襟首を掴まれて怯んだが、それでも真っ直ぐに睨み返してソロモンは言った。想いを打ち明けて欲しいと願いはしたが、こんな人目のある場所で、暴くように、蔑むように、言って欲しくはなかった。
「おまえは好みじゃない。願い下げだ」
パッ、と弾かれるようにラスは手を離した。わなわなと両腕が目に見えて震える。唇が何か言おうと二度動いた。
ソロモンも何か言おうと唇を開いたが、顔を上げたラスが、鮮やかな泣き笑いを浮かべているのを見て全身を縛られた。何も言えなかった。
ラスはソロモンの言葉を待たずに、踵を返し乱暴な足取りで教室を出て行った。
それきり、二度とスクールへは来なかった。
ラスが暴力事件を起こしたのはその半年後だ。ガールフレンドを殴って怪我を負わせたらしい。その件はラスの父親が高額の示談金を積んで警察沙汰になるのを防いだ為、司法局の記録には残らなかったが、ラスの友人から話を聞いたソロモンは後頭部を殴られたようなショックを受けた。
ご丁寧にラスが殴った女性のフォトを見せながらその友人は言った。
「彼女、おまえに似てるだろ。おまえがラスを狂わせたんだ」
写っていたのは、アイボリーの肌にショートヘア、東洋系のマニッシュな女性だった。
それから十年後──つまり今から三年前、ラスは二件の結婚詐欺容疑で逮捕され、パワー増幅系の〈ディアボロ〉である事と過去の殺人が発覚。罪は次々に明るみに出、凶悪なシリアルキラー現る、とセンセーショナルに報道された。
知らない方が良い、調べない方が良い、と理性は叫んだが、ソロモンは捜査記録を全て閲覧する権限を──権力を持っていた。それが彼の過去を決定的に傷付けた。
ラスの供述は暗い狂気に満ちていて、美しかった若者の残滓すら嗅ぎ取れなかった。傲慢で凶悪でおぞましい獣が調書の中にいた。
心を失った悪魔……
己の欲求の為に、ただ快楽の為だけに命を奪う……
被害者は全て、アイボリーの肌の……
「おまえがラスを狂わせたんだ」
耳の奥で、あの時の言葉が呪いのように渦巻いた。
†††
翌日の目覚めは最悪だった。ソロモンはうなされて汗だくになって飛び起きた。
熱いシャワーを浴びて、ブランデー入りの濃い紅茶を飲む。アールグレイのきついベルガモットが胸に沁みた。そうしてやっと一心地着いた時、タイミング良くノックの音が響いた。どうぞ、と返事をすると第一秘書が顔を出す。
「社長、お客様がお呼びです」
「シスター・セレン?」
「いえ。ギムレイ・ワイズマン様が……」
「ギムレイが?」
†††
「その、約束の時間を決めていなかったから早めに来てしまったんだけど、迷惑だったかな?」
いつもと変わらぬ爽やかな笑顔をほんの少しの躊躇いで染めて、ギムレイは応接室のソファから立ち上がった。
マントルピースに置かれたアンティークのアナログ時計は八時十八分を指している。
「こんな朝早く……たまたま私が会社にいたから良かったけど、いなかったらどうするつもりだったの。だいたい、シスター・セレンは身支度も出来てないわよ」
思わず嫌味を言って、ソロモンは手ずから運んできた珈琲を二人分ローテーブルに並べ、ギムレイの向かいのソファに乱暴に腰掛けた。手振りでギムレイにも腰を下ろすよう勧める。
「あ、いや、待つのは大丈夫です。女性は身支度に時間がかかると知っていますから、待たされることは想定内です。気にしないでゆっくり支度なさってください。僕は構いません」
突っ立ったまま、真っ赤になってギムレイは言う。
「いや、構うのはこっちなんだけど……」
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