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「あんたって、嫌な女。聖女の顔をした悪魔ね」

「ソロモン……」

 慈愛に満ちた声だった。蜂蜜のように甘い、とろけるような、輝くような。

 優しく美しい顔でシスター・セレンは微睡むように笑む。

「そんなことを私に向かって言えるのはあなただけよ」

 ギクリ、と目に見えてソロモンは身を竦ませた。嫌な汗が背中を伝っていく。

「あら、違った。本音を言ってくれるのはあなただけ。こう言ったほうが良かったわね」

 あっけらかんと言って彼女は背を向けた。お茶でもいかが、と先に立って教会の裏手に併設された住居棟にソロモンを誘う。気を悪くしたようには見えない。安堵と同時に猛烈な疲労感が襲ってきた。

「まったく……あんたは怖いのよ……」

 鉛のように手足が重い。立っているのも辛い気がして、ソロモンは素直にシスター・セレンの後を追った。

 ニスの利いた胡桃材の扉を軽く押し開けると、すぐにリビング兼ダイニングキッチンがある。シスター・セレンは手振りでダイニングテーブルの椅子のひとつに腰掛けろと示した。古い建物。フレンチカントリーの家庭的な内装。なぜか異様に懐かしい雰囲気を醸し出していて、ソロモンはいつもここに足を踏み入れるのを戸惑う。

「珈琲でいいかしら?」

 尋ねたくせに、彼女は返事も聞かずに勝手に珈琲を淹れ始める。たちまち部屋いっぱいに香ばしく芳醇な香りが漂い出す。理由も無く泣きたくなってソロモンはきつく目を閉じた。どうしてこんな気分になるんだろうか……

「安心していいわ、ソロモン。私はディアナポリスの市民として相応しくない行動はしないつもりよ」

 ことん、と珈琲カップがソロモンの前に置かれた。ミルクピッチャーに満たされた脂肪分たっぷりのクリームも添えられる。豊かな香りと柔らかな湯気が頬を撫でる。

「良い子にしていないとせっかくあなた達が用意してくれた今の生活が破綻しちゃうもの。私って、とっても弱い立場にいるのよ」

 ソロモンの向かい側の席に座って、シスター・セレンは淹れたての珈琲に口をつけた。雪のようなプラチナブロンドの前髪がキラキラ光って、その見た目はやっぱり優しい。

「嘘つき。あんたに怖いものなんか無いでしょ」

 拗ねたような声音にソロモン自身が驚いた。まただ。数えるほどしか会ったことは無いのに、この女の前に出ると、いつの間にかママに対するようになってしまう。心を操られているんじゃないかという疑念と、胸を締め付けるような心地良さと、両方が溢れそうになって泣きじゃくりたくなる。

「それは誤解よ。私はあなた達が怖いわ。大勢で押しかけられたら、私はいずれ疲れて眠ってしまうもの。そうしたら私の生殺与奪はあなた達の思うが儘でしょ」

 宥める口調で言いながら立ち上がると、シスター・セレンは戸棚からクッキーの箱を取り出した。視線で、食べなさい、とソロモンに差し出す。まだ若い小娘に見える癖に、こういう仕草は妙に堂に入っている。時々、彼女は自分よりずっと年上なんじゃないか、と奇妙な疑念に捕われる。

「要するに、あんたは最強だけど、眠ってしまう事だけが怖いって話でしょ。つくづく傲慢な女」

 言いながらソロモンは乱暴な手つきで小さなクッキーをひとつ摘まんで口に放り込む。そんな甘えたような態度のソロモンを、シスター・セレンは嬉しそうに頬杖をついて見つめた。

「私はただ、死ぬまで穏やかに生きたいだけなのよ。とっても無欲だと思うけど?」

 軽い歯触りのクッキーはたちまちホロリと溶けて優しい甘さが舌いっぱいに広がる。淡くオレンジの香りも立った。なんだか気負っているのがバカバカしくなってしまう。

「まあ、いいわ。仕事の話をしましょう。詳細は私の頭を読んでもらっていいわ。もう疲れちゃった……」

 ソロモンは両手を開いてハグを許すような仕草をした。シスター・セレンは一瞬意外そうに目を見開いたが、数秒後には唇だけで小さく笑った。

「ふうん。ノーラったら、ずいぶん面白いことをするつもりなのね。でも、その計画は穴だらけよ。私に頼むのは〈最後の後片付けだけ〉なんて……遠慮しなくていいのに。ノーラには恩もあるし、最初からちゃんと手伝ってあげるわよ」

 瞬間、またゾッと背筋が震えた。毒に満ちた悪女の顔。穏やかな雰囲気に飲まれていたソロモンは冷水を浴びせかけられたように絶句した。

 そうだった。

 聖女のような顔をしていても。

 この女は……


   †††


 ギムレイ・ワイズマンは毎日のジョギングを欠かさない。

 ここ三年ほどは愛犬の白いボルゾイを連れて邸宅の近くにある地下庭園に立ち寄るのが日課になっていた。彼は見事な金髪にスカイブルーの瞳を持つゲルマン系の青年だ。柔らかな笑顔。シグルト・コミューン会長シド・ワイズマンの令息。男子ばかり四人兄弟の末子で、上三人とは十も年の離れたこの息子を父親はひどく可愛がった。元女優の母によく似ているからだと近親者は言う。明るく誠実な人柄で、友人たちからは〈御曹司〉とからかい混じりに呼ばれていた。ディアナポリス随一であり、世界最高学府のひとつにも数えられる〈プラトンユニバーシティ〉の法学部に学ぶ優秀な学生で、フェンシングのディアナポリス代表選手でもある。

 チューブとハイウェイの多重リングに囲まれた行政中枢〈オラクル地区〉は、地上三層地下四層の多層構造になっている。議事堂のある壮麗な地下庭園は、その七層を吹き抜けにした直径五百メートルほどの広大な緑地だ。山岳地帯も含めて南北にも東西にも二十キロほどしかない極小国家ディアナポリスでこの広大な庭園は最高の贅沢だ。美しく整えられた芝生に、小さな雑木林まである。多量のハイオプティカルファイバーが太陽光を運び込んでいるので、地下でありながら植物の成育にも問題無く、人も自然光と同じ成分で充分な日光浴ができる。この地下庭園で日光浴をすることは一種のステータスにすらなっている。

 天球のような円天井は偽りの蒼天を映し、美しい光を放っている。白い雲が流麗に流れ幻想的な雰囲気を醸し出していた。そこに併設された大理石造りのテミス広場の噴水は、荘厳さと世界一のスケールを誇っているだけあって相変わらず派手な水音を立てている。

 その水煙の奥に、百合の花を模った白い慰霊碑がひっそりと築かれていた。

 ギムレイは寂しげな表情で、その慰霊碑を見つめた。七年前、この場所で、ある事件が起こった。都市を支える巨大な硬質セラミックの柱の一本がテロリストによって破壊され、民間人も含め十一人もの犠牲を出した痛ましい事件だった。彼の初恋の女性もその事件で命を落とした。あの慰霊碑には彼女の名前も刻まれている。麗しのエヴァ・プリマ──フィーネ・ハイゼンベルク。銀色の髪が美しかった年上の幼馴染み。十二歳の少年にとって、彼女は憧れの姉であり、愛しい偶像の姫君であった。十九歳の青年になった今でも、彼女はギムレイの胸の奥に住んでいる。ふわり、と彼の足もとから風が舞い上がった。完全空調の地下庭園に、あるはずの無い風。その微かな流れに乗って彼女の優しい声が聞こえた気がした。

「行こうか、アリデヴァラン」

 一声吠えて白いボルゾイは楽しそうに駆け出した。


   †††


 その夜遅く、ギムレイはジャンヌ・ダルク・コーポレーションCEО執務室に立っていた。

「ソロモン、君のほうから僕を呼ぶなんて珍しいね」

 言って、やあ、と片手を上げる。ソロモンは歯切れの悪い返事をした。

「ちょっと、仕事を頼みたくてね……」

「へえ。ますます珍しい。僕なんかが君の役に立つかな?」

 ギムレイはソロモンを忌諱の眼差しで見ない数少ない人物のひとりだ。六年前からソロモンが非公式に後見している。血縁を越えた縁。上流階級では無いことはないが、近年では珍しいケースである。普通は一族の年長者が後見役を引き受ける。ソロモン自身のふざけた対外姿勢と、ギムレイの貴公子然とした美貌から、最近では一部で悪い噂も囁かれているが、それでも敢えて、ギムレイの父がソロモンを選んで我が子を託した理由がある。

 ギムレイも〈ディアボロ〉なのである。風を操る。

 彼もいずれは父であるシグルト・コミューン会長を補佐する重役としてディアナポリスの統治に間接的に携わることになるであろう。父が引退すれば地位を継ぐ長兄の補佐を引き続きすることになる。総帥その人であるソロモンには及ばないが、権力階級の極めて上位に所属している貴種である。そのうえ自身も〈能力〉を持っている為、ソロモンに同類意識があるのかも知れないが、人を殺めた過去を持つ者に、こうも純真に笑いかけるのは彼くらいのものだ。

 純金を溶かしたような鮮やかな金髪。明るく透き通ったスカイブルーの瞳。絵本の王子様か天使のように整った美貌。それを甘く笑み崩して、爽やかな青年は幼くすら見える純粋な好意をソロモンに向けてくる。夜も遅いというのに、その笑顔の背後に眩しい青空がチラついて、ソロモンは眩暈を起こして額に手を当てた。

「ギムレイ……」

 そんな無邪気な顔はやめて欲しい。今夜は嫌な要件なのに。

 その時、軽いノックの音が響き、ソロモンの第一秘書が雪のようなプラチナブロンドの女性を案内してきた。

 シスター・セレンである。今夜は目立たないよう、修道女服ではなく簡素なブラウスにカーディガンとフレアスカートを身に着けている。シスターのヴェールが無いので、背の中程で切りそろえた長い銀髪がサラサラと揺れていた。

「ギムレイ。こちら、今回の仕事で一緒に行動してもらうシスター・セレンよ」

「初めまして。ギムレイ・ワイズマンです」

 育ちの良い御曹司は、自然な仕草で握手の右手を差し出した。

「初めまして。セレン・アウグスティーヌです」

 差し出された手を取ろうと、シスター・セレンが彼に真っ直ぐ顔を向けた瞬間、あっ、とギムレイが息を飲む音が聞こえた。

「ギムレイ……?」

 ソロモンは不審気にギムレイの顔を覗き込む。スマートな御曹司が、目を真ん丸に見開くという幼い驚きの表情を浮かべていた。空色の瞳に驚愕が油彩のように揺れている。

「君は……」

 と言ったきり、何度も瞬きをし、頭を振り、出てもいない汗を拭き、やっと口を開いたかと思えば、

「いや、まさか、そんな、まさか……」

 要領を得ない呟きを繰り返す。

「どうしたの、ギムレイ?」

 ソロモンが宥めるように声をかけても、ギムレイの動揺は治まらない。口元に手を当て、パニックを起こそうとしている自分を必死に抑えているように見えた。

「どこかでお会いしました?」

 シスター・セレンは、にっこりと人好きのする笑顔をギムレイに向けた。ソロモンを遮るように一歩踏み出したので、必然的に彼女はギムレイと再び正面から向かい合う形になる。

 人形のような美貌がギムレイの胸に落ちた。

 似てはいる。似てはいるが……

 不意に現実感が込み上げてきて、この人は〈彼女〉ではない、と奇妙なほどに強く納得した。

「あ。す、すいません。知っている女性に似ていたので」

 やっと、真っ当な返事。

「そんなに似ていますか?」

 彼女特有のふわりと包み込むような声。これはシスター・セレンの〈能力〉ではないかとソロモンは疑っている。あまりにも穏やかで優しい雰囲気。彼女と話しているとうっかり落ち着いて絆されてしまうのだ。どんなに警戒していてもいつの間にか心を開いている。彼女の危険をどれほど理解していても、だ。

 ギムレイも彼女独特の気配に包まれて落ち着いたようだ。ふっと肩の力が抜ける。

「ええ、似ています。とても、とてもよく似ていて、一瞬、本人かと思いました。でも違いますね。彼女はディアナポリスにはいないんです。今は留学中で……」

 ギムレイは嘘をついた。〈彼女〉はもういない。世界のどこにも。

「まあ、それは……寂しいですわね……」

 シスター・セレンの声には悼むような響きがあった。

「ギムレイ、で構いません?」

「え、ええ、どうぞ。シスター……」

「セレンです」

「シスター・セレン。どうぞよろしく」

「よろしく、ギムレイ」

 何気なく握手の形で差し出されたシスター・セレンの滑らかな白い手。ギムレイは軽い戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに爽やかな笑顔に戻って差し出された手を握った。触れたいと願って叶わなかったあの白い手が心をよぎる。彼女独特の気の強い叱咤の声も。

 フィーネ……

 ギムレイは照れたような表情で、さらりと手を離した。


   †††

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