sequence_02

 単純な思考。弱点はそのままに、弱点として守る。都市を支える柱を攻撃するという脅迫によって一時的にせよ都市を支配したテロリストの再来を阻む──つまり、第二のダミアンの出現を阻止すれば良い。テロの危険因子は芽のうちに摘む。

 誕生から百二十年余り。ディアナポリスはユーラシア大陸の東の辺境に、経済政策実験型特別自治区という名目で建設された。某国が再建された際、新システム樹立の資金に苦慮した解放政府が、日本海沿岸の非武装地帯に連なる十キロ四方ほどの小さな平野とそこに連なる山稜地帯を雑多な国籍の資本家集団に売ったのだ。そこに、母体を持たない自治区が建設された。人口は約二十万。住民の七割以上が欧州系。自治区と名乗ったのは、国家と名乗ることにより生じる軋轢を避ける為でしかない。ディアナポリスは歴とした独立国家である。

 あらゆる国・民族から資金を集め、あらゆる国・民族と通商するが、どの国・民族にも属さず、どの宗教にも属さない。主義も神をも持たない、拝金主義の卑しい都市国家。しかし、名は麗しの〈月の女神の都〉──洒落が利いている、と口の悪いジャーナリストは言った。

 特殊な歴史と政情を持つ都市を、実質的に統治しているのは五つの財閥の総帥達である。都市の誕生に寄与し、経済という国家の血液を支配している者達が、統治の実権を握り続けるのもまた自明の理だ。所詮市長は──仮にも国家元首とはいえ、お飾り的なものでしかない。ソロモン・アスカリドは若輩でありながら五つの財閥のうちのひとつ、ジャンヌ・ダルク・コーポレーションのCEОである。統治の実権を握り、その悪臭にも触れねばならない立場だ。

 さて、統治とは何か?

 家事に似ている、とかつて或る女性政治家は言った。家族──つまりは市民が平穏に過ごせるよう、彼らに危害が及ばないよう、不穏の因──ゴミはこまめに取り除く。

 ダミアンのように、好き勝手に〈能力〉を振るう猛獣は、事が起こる前に取り除きたい危険因子のひとつだ。ダミアンはもういないが……

 此処に一人の〈男〉がいる。彼は単純なパワー増幅系の能力を持つ〈ディアボロ〉だ。三十歳、という能力と思考のバランスが整った、戦闘体として最も成熟した年齢。オリーブ色の肌と称されるラテン系の伊達男。緩く波打ったダークブラウンの髪に、青味掛かった黒い瞳。無精髭を蓄えたニヒルな表情はジゴロめいて、どこか不埒な印象。色気のある整った容貌である。

 名は、ラス・マドリガル。

 恋歌マドリガルの名に相応しい、と言って不謹慎でないかどうか……二度、結婚詐欺で訴えられている。

 それだけなら問題は無かった。歪んだパーソナリティ、女性に対する異常な反応は逮捕後のカウンセリングで発覚した。潜在的なシリアルキラー……そう若い担当官は分析したが、数年前に事件性有りと判断され犯人不明のまま冷凍保管されていた遺体から検出された犯人のDNAと、彼のDNAパターンが一致した。

 詐欺罪に、死体損壊・遺棄、あるいは殺人の容疑が加わる。

 一つ明るみに出れば連鎖的に被害者のデータが噴出する。たちまち十数件の未解決殺人事件の容疑者に彼は躍り上った。被害者は全員東洋系、象牙の肌持つ美女ばかり。

 潜在的と言われたはずの男は鮮やかに顕現したのだ。

 紛れもないシリアルキラーとして。

 危険な、危険な男……


   †††


 ビールの香りをイタリアのスパイスに似ているとあなたは言った。

 味覚の鈍い人だったから、私は笑ったし、あなたも自信なさげにうなだれた。

 あなたの言った『イタリアのスパイス』がドライソーセージ──

 いわゆるサラミの香りだと後で知って、あなたは鈍くはなかったのだと泣きたくなった。

 もう遅かったけれど、私はあなたを死ぬほど愛していたのだ。

 死ぬほど……

 いいえ、殺したいほど……


   †††


「ソロモン、それで、この仕事には誰が適任だと思う?」

 ノーラは、大儀そうな視線をソロモンに向けた。

「そうね……」

 ソロモンに逡巡はない。

「……〈ワイズマンの息子〉」

 薄い唇に乗ったその名に違和感を覚えたようで、ノーラは微かに眉根を寄せる。

「彼に暗殺ができるの?」

「してもらわなければ困るわね。私がユディトになってもいいけど、私の〈能力〉では揉み消し難いわ。首を斬るのではなく派手に焼き殺してしまうもの。カメラの前で合法的にラスを処刑したいんでしょう?」

「ええ、そうよ」

 答えるノーラの声によどみは無かった。

「それにしても、ソロモン。その話し方はどうにかならないの?」

 不意に気が逸れたのか、お小言が始まった。

「別にいいでしょ。どうせ私は〈ディアボロ〉だもの。何もしなくても嫌われる。もう本当の自分を隠すメリットなんか無いもの。好きなように振る舞うわ」

 女言葉に女性的なしぐさ。漆黒の髪は耳が見える長さのレイヤーショートで清潔に整えられ、服も趣味の良いメンズスーツを上品に着込んでいるものの、優等生だったソロモンはすっかり変わってしまっていた。男が好きだと放言し、そのくせ恋人は作らない。

 ソロモンは本当のところ、女も男もダメなのではないか、とノーラは疑っている。つまり性嫌悪症──性的な接触やセックスそのものが出来ないメンタルの病ではないか、と。

 重要人物には常に護衛が付き従い、その動向は些事に至るまで専属チームに報告される。ノーラもソロモンを補佐し護衛の管理も行うメンバーの一人である。特権階級の人間にプライバシーは無い。もちろん、警護の範囲を超えて情報が漏洩する事は無いが、それでも、サポートチームにはほとんどの行動が筒抜けである。信頼できるセキュリティの報告によればソロモンが誰かとベッドを共にした事は十代の頃から一度も無い。現在に至っては、女を遠ざける為にゲイのふりをしているのではないか、と彼に近しい者達は憶測を抱いている。

 そんな弱点を隠すかのように、ソロモンは色街での遊興に惜しみなく金を使い派手に遊ぶ。ノーラは彼の花魁遊びを理解できないと思っていた。彼女達と同衾して後継者を産ませてくれるならともかく、ただ大金を払ってやるだけなんて……

「ひねくれたわね……」

 あの事件以来、とはノーラも言わなかった。ソロモンは少年時代からずっと、周囲の注目を集め、笑顔の下に本音を隠して生きてきた。それが、あの日、テロ事件に巻き込まれたせいで最も隠しておきたかった〈ディアボロ〉の能力を人目に晒してしまったのだ。幸い、と言うべきではないが……直前に多くの人質が瓦礫に潰されていた為、メディアは放送映像をライブから録画に切り替えていて、ソロモンが〈能力〉を行使する映像は差し押さえる事ができた。彼と共に人質になって生き残っていた少数の被害者たちは拘束され、決して口外しないよう強く言い含められ──要するに脅迫されてから解放された。しかし、人の口に戸は立てられない。ソロモンの属す特権階級の間では、彼が〈ディアボロ〉であるという事は公然の秘密になった。甘く愛しい恵まれた者を見る眼差しが、おぞましい物を見る視線に変わった。人々の冷徹な掌返しがソロモンには堪えたようで、以来、女言葉を使うようになり、ずいぶん挑発的な性格になった。

 あれから七年の月日が経っている。

 ノーラは軽い溜息を吐いて、話を続けた。

「ラスは、市民の安全の為に生かしておきたくない男だわ」

 ラス・マドリガルは三年前に逮捕された稀代のシリアルキラーであり、ソシオパスでもある。良心が無いと言われる障害だ。改心する可能性は極めて低い。それなのに、選りにも選って拘置所を簡単に抜け出せる〈能力〉を持っている。飼いならせず、檻に入れておくことも難しい猛獣。

 そして、ディアナポリスに死刑制度は無い。

 彼を法律通りにただ収監しておくのは、放置に等しい処置である。

「同感ね。昔はあんな男じゃなかったと思うんだけど……」

 チリ、と一瞬空気の焼ける臭いが立った。ソロモンは遠くを見るような瞳をして、苛立ち混じりの溜息を吐く。ノーラはそれで、ある事、を思い出した。

「ああ、あなたのハイスクールの同窓生だったわね」

 含みのある物言い。

 ラス・マドリガルはソロモンと同じ上流階級に属し、かつて共に学んだこともあるクラスメイトの一人だ。友人、であった、と思う。彼の逮捕が報じられた後、一週間ほどソロモンは塞ぎ込んで業務を放棄した。テロに巻き込まれた直後でさえ業務放棄はしなかった総帥が。なにかよほどの事情があるのかと勘繰りもしたが……

 しかしノーラは二の句を継がなかった。余計なことを言って優秀な共闘者を怒らせたくはない。ソロモンは特に感慨を受けた風でもなく、無関係な揶揄を吐き出した。

「確かに、私はずっと、テロに脆弱なこの都市の政治をどうにかしたいと言い続けてきたけど、あなたが〈こんな事〉をしようと言い出すとは思わなかったわ。どうしてまたこんな悪趣味なショーを思いついたわけ?」

「ソロモン……悪趣味とあなたが言うの?」

 ふふ、とノーラは窘めるように笑う。まだお小言を続けるのか、とソロモンはわずかに眉根を寄せた。ノーラはそんなソロモンを無視して問いを投げかける。

「それで、あの善良な〈ワイズマンの息子〉にどうやって人殺しをさせるつもりなの?」

 数秒、ソロモンは黙り込む。それから少し皮肉な微笑を浮かべて言った。

「あなたの秘蔵のお姫様を貸して頂戴。彼女がいれば、うまくギムレイを使えると思うの」

 初めて、ノーラの顔に嫌悪が浮かんだ。


   †††


 ──もしも、眠らないで済むなら……

 私は誰にも負けないわ。でも絶対に眠くなる。いくら最強の力を持っていても、ずっと戦い続けることはできない。だから私は世界と妥協するの。睡眠は誰もに平等に与えられた弱点ね。

 奇妙な物言いをする女だった。

 雪のようなプラチナブロンド、夜の海のように暗い瞳。あまりにも完璧な美貌は作り物めいて、情の乗らない話し方をすると、まるでアンドロイドでも相手にしているような錯覚に陥る。

「シスター・セレン」

 ソロモンは努めて平静な声を出したつもりだ。濃いグレイの修道女服を纏った彼女はにっこりと笑う。小さな銀の十字架が胸に輝いた。

 西の山稜の方向には巨大な高層ビル群の威容が立ち並び、上方には自然の晴れた空が見える。ここはディアナポリス東方、海沿いの地上居住区〈イーストブラン〉にある古いが手入れの行き届いた小さな教会である。煉瓦造りの壁いっぱいに初秋の蔓薔薇が咲き誇る狭い中庭。そこに、ソロモンはシスターと二人、二歩の距離を保って立っていた。

 ディアナポリス東部に住んでいるのは金持ちではない人々だ、と口さがない人は言う。貧しい住民の多い〈イーストブラン〉に、ジャンヌ・ダルク・コーポレーション副社長であるノーラ・メイデンの親しい友人が住んでいるというのは、同財閥総帥のソロモンにとっても意外な事のひとつだった。彼は地上が嫌いではないが、彼の知人達はほとんどが地上を嫌っている。〈オラクル地区〉の完全空調に慣れた人々は自然の大気を、汚染されている、と言って忌諱する。

 水色の本物の空にふんわりとした雲が流れていく穏やかな午後。よく繁ったレモンの樹の梢からキラキラと零れる木漏れ日の向こうで、小さな噴水が柔らかな水音を立て、甘い風が肌を撫でていく。なんと優しい光景か。

 不釣り合いだ、とソロモンは思う。目の前にいる修道女はまるで聖女のようで、花と緑あふれるこの箱庭はミニチュアのエデンのようだ。だが、ソロモンは知ってしまっている。彼女がそんな優しい存在ではないと。

 ラスは殺して、この女は生かしておく。

 この街の為政者達は妥協が成るなら悪魔とでも取引しそうだわね。

 自分も、二つの意味でその一人である癖に、内心で唾棄し、ソロモンは完璧な微笑みを取り繕った。

「今日はお願いがあって来たのよ」

「遠慮なく言ってちょうだい」

 シスター・セレンも完璧な微笑で答えた。

「それよりもソロモン、あなた心と表情が一致してないわよ。それじゃあストレスが溜まるでしょう。〈波〉を起こしてあげましょうか?」

〈波〉と言われて、ソロモンはゾッと鳥肌を立てた。

「やめて。冗談じゃないわ……」

 首筋にナイフを突きつけられたような冷たい危機感と嫌悪。

 シスター・セレンも〈ディアボロ〉である。心を読み、あまつさえ干渉までする能力を持っている。その力は暗く卑劣な印象で、対峙する人間に根源的な恐怖と生理的な嫌悪を与えずにはおかない。心を操る力は脅威だ。ソロモンもシスター・セレンには勝てないと感じている。業火の力を発動させるより早く、彼女はソロモンの意識に侵入できる。止まれ、と暗示をかけられればそれで終わりだ。誰も彼女を傷付けられない。

 そんな彼女でも能力の及ぶ範囲には限界があるはずだ。理論的には、ある。その有効範囲外から高性能ライフルで狙撃されれば、狙撃者の思考を感知できず、物理的にも銃弾を排除することは出来ないのではないか。だから彼女は、暗殺を恐れてディアナポリスの為政者たちに服従している。そうソロモンは解釈していた。そうすることで、仮初めの安心も得られる。限りなく誤魔化しに近いと自覚してはいるが、それでも無いよりはマシである。対処法の分からない事象は恐い。

 そんな不安を煽るように、彼女は自分を最強だと言う。ただの傲慢なのか、それとも……

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る