イノセント・ダーク ~INNOCENT DARK~

THEO(セオ)

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 閃光は一瞬だった。

 巨大な白い硬質セラミックの柱は、轟音を轟かせて氷河のように脆く砕けた。テロリストが〈能力〉を発動させたのだ。

 あ、と悲鳴を上げた時には抗いようも無く、広大な地下都市を支える直径十メートルもある柱の一部は白い雲のような不定形の気体になっていた。遥か上空、人工の蒼天を映す円天井にはCGの薄い雲が流れている。粉塵の雲がその偽りの雲に重なり、異様な厚みと質感をもたらした。衝撃で崩れた瓦礫が罪なき人々を襲う。あちこちで鈍い音がして、赤い塗料のようなものが巻き散らされた。

 七層の都市に造られた直径五百メートルの吹き抜けは巨大な穴のようだった。眩い光に満たされた美しい穴。その底に、広壮な緑の庭園がある。その更に一隅の大理石で装飾された広場──異変はそこで起きていた。

「ソロモン様っ!」

 護衛の悲痛な叫びが響いた。背中に衝撃を感じた次の瞬間には、彼は、固い大理石の床に左半身を叩きつけられていた。ぐっ、と痛みに息が詰まる。粉塵を吸い込んでは肺がやられる。咄嗟に判断し、なかば呼吸困難になりながらも、コートの袖で鼻と口を覆った。もうもうと土煙が立ち、視界のほとんどを塞いでいた。満足に目を開けることも出来ない。薄目を開けてなんとか先を見ると、さっきまで彼が居た場所に一メートル四辺のセラミック・ブロックが落下していた。自分を突き飛ばしてくれた護衛はどうなったのか……

 ガスマスクをつけた黒装束の陸軍特殊工兵部隊が乱入してくる。彼等は一言も発することなく、瓦礫に押し潰された被害者にも、テロリストにすら構わずに作業に取り掛かった。リニアファンを使って浮遊し、背負ったタンクから、砕かれた柱があった場所に速乾性の合成樹脂を吹きつけていく。柱を補強しているのだ。舞い上がった粉塵も徐々に樹脂の霧に捕われ地に落ちて、次第に視界がクリアになっていく。

 黒づくめの男達の後ろから一人の銀髪の少女が現れ、支柱の一部が失われた場所に手を翳した。ぼう、と少女の体に青い光が輝く。

 ああ、彼女も〈能力者〉だ。

 ドオッ、と石床を貫いて、数本、醜い鉱物の柱が現れた。荒々しい造形だが、これで天井の崩落は免れる。ジオに生き埋めにされる危険だけは去ったようだ。

 事態の急変に呆然と座り込んでいると、ちっ、とひどく近い場所で舌打ちの音が響き、振り向くとそこにテロリストがいた。男の瞳に青い燐光が燃え立つ。〈能力〉が行使される前兆だ。あの青い光が輝くとき、この世の理を超えた力が猛威を振るう。パンッ、と呆気なく、少女の肩が吹き飛んだ。大量の血飛沫が散り、少女は銀髪をなびかせて不自然な形に倒れていった。

「あ……っ!」

 何を思う間も無かった。ほとんど反射的に、彼は〈能力〉を発動させた。ソロモンと呼ばれた青年の体からも、一瞬で青い光が噴き出す。それと同時に、へたり込んだ彼の足元から紅蓮の炎が巻き起こる。炎は爆発的に増殖し、生き物のように身をくねらせ、テロリストに襲いかかった。

 凄まじい絶叫。業火に身を包まれたテロリストは、黒焦げになりながら恐ろしい形相で捻転し、周囲に血と肉片を撒き散らし、悶絶して息絶えた。

 永遠とも思える地獄めいた情景の後、しん、と場は静まり返った。土煙はすっかり晴れ、視界は完全に開けている。

 赤黒い塊のすぐ近くには、ついさっき〈能力〉を行使し、鉱物の柱を作って都市を崩落から救った銀髪の少女が夥しい血を流して倒れていた。無残に目を見開き、美しい顔に相応しくない凄絶な表情を浮かべている。ぴくりとも動かない。

 なるほど、死んでいるのだ。

 ソロモンの胸になんと形容していいのか分からない感情が込み上げた。同時に、堪えようのない吐き気も……

 正体も無く嘔吐する彼の背後で、

「〈ディアボロ〉……〈ディアボロ〉が三人も……」

 共に人質になっていた老婦人が呟いた。彼女はおぞましい存在を見るような目で、ソロモンを見ていた。


   †††


 その事件は、たった一人の異能の力を持つテロリストが引き起こした。彼の名はダミアン・スミス。思想犯として収監されているモニーク・ヘッセ女史の釈放を要求し、行政の中枢がある〈オラクル地区〉中央の地下庭園一角に十三人の人質を取って立てこもった。要求が容れられない場合〈能力〉を用いて人質を殺害し、都市を支える巨大な支柱をも破壊する、と。

 ディアナポリスは、地上地下幾層にも渡る多層構造のセミジオフロントシティである。巨大な支柱に支えられたメガロポリス。支柱のある程度を破壊されれば、ドミノ倒しのように、都市全体が自重によって崩壊する。

 ディアナポリスの為政者たちは恐慌に陥った。市長が決断力を欠いたせいで決定的な対策が取れず、状況は膠着し、人質にされた市民は大理石の広場中央にある狭い祭殿に七時間にわたって拘束された。事件は長引き、しかもマスメディアがカメラを持ち込みTV中継で派手に煽り立てた為、次第にショーへと堕していった。挙げ句、犯人の支柱破壊攻撃を受けて、人質ではなく支柱の保全の為に強行突入。しかも犯人逮捕はならず、人質の一人が正当防衛によってダミアンを殺害して制圧成るという、あまりにもチープな顛末であった。

 犯人を〈能力〉によって殺害したソロモン・アスカリドは、偶然その事件の発生現場に居合わせた。東洋系独特のアイボリーの肌、漆黒の髪に、不釣り合いなアメジストの瞳──その色だけが母の血を引いた。フランス系の母と日系の父との間に生まれた、財閥の若き総帥。権力と富に愛され、知的で優雅、経営に秀でた天才。その日までは、世界で最も愛された者の一人であった。彼が〈ディアボロ〉であると露見するその時までは……

 彼等が、いつから世界に存在したのか、誰も知らない。遥か古代から、神話や伝承に紛れ、ひっそりと隠れ生きてきたのか……

 異能の力を持つ彼等は、その時代、畏怖と嫌悪を込めて〈ディアボロ〉と呼ばれていた。


   †††


 光の海は虹色の波に揺れている。ディアナポリス南部の歓楽街〈カルネヴァーレ〉は、夜毎、熟した快楽に満たされる。スイートドラッグの紫煙の中、無国籍の混沌が支配する禁断の楽園。女達はおとぎ話の人魚のようにキラキラと着飾って飾り窓に立つ。ふわりと薄いドレスの裾が翻って、輝く銀鱗が散り、甘いパヒュームの香りが漂う。いかがわしい界隈に今夜も官能的な音楽と妖しい嬌声が木霊する。少々危険もあるが、金さえ出せば此処で買えないものは無い。その魔窟の如き街の最奥に、ひっそりとその店はあった。

〈まほろば〉という小さなジャポネ風の高級会員制クラブだ。外装や入口は質素なのだが、一歩中に踏み入れば、贅を尽くした黄金と螺鈿漆の調度に言葉を失う。ゴテゴテと着飾った花魁と呼ばれる女達の美しい技芸を売りにしていた。有体に言えば娼館なのだが、会員の紹介がなければ入店すらできない上、花魁が「よろしおす」と言わなければ手も握らせてもらえない。それでも商売が立ち行くのは、顧客のほとんどが政財界の大物で占められているからだ。

 今夜はソロモンと呼ばれる青年が最も格の高い花魁を独り占めしていた。彼はこの界隈ではちょっとした名物男だ。東洋系、エキゾチックで中性的な容姿に、不思議なアメジストの瞳をしている。超有名企業ジャンヌ・ダルク・コーポレーションのCEOであり、世界有数の金持ち。贅沢と芸術を愛する陽気な変人。気前が良くスマートで優しい上客。自称同性愛者。危険な力を持つ〈ディアボロ〉だという噂まである。

 花魁は華麗な金のテーブルに、銀箔でコートされた煌びやかなカードを投げた。

「ジャックのワンペア。はい、またうちの勝ちやわ。きっちり一万ドル払ってもらいますえ」

 彼女の手は大したことが無かったが、ソロモンのカードはもっと悪い。スリーのワンペアでベットする神経はどうかしている。彼の投げた銀のカードは彼自身が煽ぐ扇子の風になぶられ、するりと漆黒の床へ落ちて行った。床は鏡のように澄んで金の細目星が散りばめられている。

「嘘っ? あんたイカサマ仕込んでんじゃないでしょうね!」

 負けて当然のゲームに負けた癖にソロモンは花魁にあらぬ疑いをかけた。上物のスーツを理知的に着込んだ実業家風の青年が、女言葉で捲し立てるのは奇妙で滑稽な感じがする。

「まさか! ソロモンはん。あんたはんがカードに向いてないだけどすえ。いくらポーカーフェイスでブラフを仕掛けてみたとこで、そん珍しい紫の瞳。興奮すると血ぃが乗って赤味が射すんえ。まさに『目の色が変わる』ってやつやわ。あんたのパパのお国の言葉どす。そないな訳ですけ、イイ手かワルイ手かバレバレなんどすわ」

 花魁は不思議な言葉遣いをする。ディアナポリスの公用語は英語だが、ユラユラと揺れるジャポネ訛りのイントネーション。学者が聞けば吉原の流れではなく京の揺らぎに似ていると言うだろう。訛りと切り捨てるには惜しい優美さがある。彼女達は生きた花だ。

「なによ。やっぱりイカサマじゃない。だからカードをする時は部屋の照明を明るくしてたのね。ズルイじゃない。そういう事は勝負の前に教えてよ」

「それやったら巻き上げられまへんわ」

「よく言えるわね、そんな堂々と……」

「うふふ。もう一勝負します?」

 嫣然と彼女は微笑んだ。並の男であればこの笑みひとつで陥落する。花魁はソロモンを寝室に誘っているのだ。女は趣味じゃないと言う男を、それでも誘惑したい、とこの店の娼妓達は競っていた。ソロモンはぴくりと片眉をあげて微苦笑を浮かべた。

「やめとくわ。今日はこの後、大事な仕事の打合せが入ってるのよ」

 失望したであろうに花魁はおくびにも出さない。はなんりと笑って豪華な衣装の袖を振った。

「そうどすか。ほんなら、また来ておくれやす」

「ええ、またね」


   †††


「作戦を確認する。対象と会話をしようとは思わないで。目的は確保ではない、抹殺よ」

 ジャンヌ・ダルク・コーポレーション副社長は痩せた首筋に疲労の影を落としていた。ノーラ・メイデン。肉付きの薄い長身と白いショートヘアが幾分ヒステリックな印象を与えるが、かつては十分に美しかったことを思わせる上品な婦人である。

 了解、と頷いて、ソロモンは舌の渇きを覚えた。張りのあるアイボリーの肌に微かに熱が籠もり、アメジストの瞳が赤味を増す。緊張が理由ではない。

 これは、命に飢えた渇き。自分に圧し掛かる〈責任〉を思い起こすといつも何かが渇く。

 空調の効いた高層ビル最上階の広いCEО執務室。二人はアンティークのローテーブルを挟んで、イタリア製の一人掛けソファにそれぞれ身を埋めていた。贅沢に切り取った窓。眼下には美しい夜景が広がり、まるで宇宙を映したように色とりどりに輝いている。

 星の導き──

 この街をデザインした男はそれがコンセプトだと言った。奇妙なロマンチシズムを持つ建築家で、多層構造、レール&ハイウェイの複合環状線で囲まれた行政中枢〈オラクル地区〉の構成はボーア・ゾンマーフェルト理論と量子物理学を意識していると放言していた。つまり、地上と地下幾層にも渡って築かれた、多層構造の都市を支える巨大柱の幾程度かが破壊されれば、全体は内側に向けて崩壊する、そういうデザインに敢えてしたのだ。

『電子はド・ブロイ波長の整倍数的軌道上に量子的に存在する場合に置いて安定していますが、その安定が失われればエネルギーを放射しながら核に落下します。電子を吸収した陽子は中性子になり、中性子過剰になった原子核は変容し安定性を失って崩壊します──そう、そうなのです。内側から崩壊するのです。私はこの都市に、原子の儚い美を体現させたかった』

 彼が後に矯正施設のカウンセラーに語った言葉は表に出ることはなかったが、ディアナポリス支柱破壊テロの危険を予言していた。

 都市の創成期、開発に携わった政治家達は、彼の叙情的なプレゼンテーションと美しいデザインに目隠しをされて、彼の提出した都市設計案の建築上の脆弱性、危険性は認識出来なかった。いつの時代でも潜在的な危機が現実のものになるまでは誰もマイナス面は見ない。それは多くの人が持つありふれた性質だ。

 しかし、問題はダミアン・スミスのテロによって顕在化した。

 彼は、強い能力を持つ〈ディアボロ〉であった。その力を振るって、一時、ディアナポリス全市民を危機に陥れた。

 それでやっと、この都市の構造上の欠陥がクローズアップされたのだ。

 しかし、この支柱に支えられた多層構造都市の脆弱性を解決する改造計画は、おいそれと着手出来るものではない。都市を土台から新しく創り直さねばならないのだ。天文学的な予算を必要とし、しかも市民のほとんどに移住を強いる計画など賛同を得られるわけがない。反対の声は燎原の火のように燃え上がるだろう。安全の為と幾ら説いても、それは自明の理である。市民の暴動を招きかねないラディカルな改革は、古代から政治家が避けたいと願う政策のひとつである。

 では、どうするか?

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