第26話
心からすとんと落ちるように気持ちをそのまま言葉にしてしまってから、まるで告白のような発言を自分がしたことに焦る。
奇跡。だなんて、恥ずかしくてなかなか使えない言葉だ。
「あの、だから、その、大丈夫です。少なくともここにあなたのファンが一人いるから。……たった一人の力なんてなんの役にもたたないかもしれないけれど」
たどたどしく話す私の言葉を遮るように、いつの間にか目の前に立っていた村上君が、私の手を掬いあげた。
「……ありがとう」
繋がれた手からじんわりと村上君の温もりが伝わってくる。先程までの寒さは彼の体温によって消えていた。
村上君は押し頂くように私の右手を両手で包む。彼の額に触れるか触れないかの所で握りしめられた右手に、さわさわと前髪がかすめる。
「宝物を貰ったような気持ちだよ。ありがとう。……でも君が僕を励ましてどうするんだ」
顔をあげたことで見えた彼の瞳はいつもと違う輝き方をしていた。
「次は僕が君の話を聞く番だよ。話がまとまらなくてもいいよ、僕は君の話が聞きたい。出来るのならば力にだってなりたい」
彼から伝わった体温に暖められた今なら話せるような気がした。勇気をまとめるために一度大きく息を吸い込む。
「――姉が、いるんです」
「前に一度話してたね」
「私、姉にとても憧れていました。優しくて、綺麗で、成績優秀で、私の自慢だった」
お姉ちゃん。お姉ちゃん。私の、お姉ちゃん。
「私の自慢で、母の自慢の姉でした。だけど、もういない」
憧れてた。自慢だった。本当に。
「母と姉は仲違いをしてしまったんです。関係は修復されないまま姉は高校を卒業すると同時に家から出ていきました。……それで、先週の、金曜日。姉から電話があったんです。夏休みになっても家には戻らないからって、姉は言いました。私から母にそう伝えてくれって」
生まれた時から時間を共にしてきた人なのに、まるで知らない人と会話をしているようだった。
「この間の日曜日、めずらしく母が家にいたんです。だから姉からの伝言を伝えました」
久しぶりに母が家にいることは、嬉しかった。
「伝えたら母からこう言われたんです。『お願いだから紗智はお姉ちゃんみたいにならないでね』って」
嬉しかった、のに。
「……悲しかった?」
「悲しかった、です」
そうだ。そうなんだ。自分の気持ちにやっと気づく。私、悲しかったんだ。
悲しかったんだ。
「そうだろうね。だって君、お姉さんのこと嫌いじゃないんだろう?」
村上君の言う通りだ。ずっと私の自慢だった姉、私が勝手に作り出した姉と今の姉は違う人のように思えてしまう瞬間もある。けれど、それでも私はお姉ちゃんを嫌いにはなれない。
「一つ、聞きにくいことを、聞くよ。お父さんは亡くなっているんだよね」
今にも壊れてしまいそうな硝子に触れるように村上君は私に聞いた。
「はい。けれど私が小さい頃だったから、私は父のことを何も覚えていません」
覚えていないから気を遣われると逆に困ってしまう。だって私の生活には父親がいないことが当たり前だったのだ。
私の家族は、母と姉と私。
不満なんてなかった。しいていうなら勝手に哀れまれることが時折鬱陶しかった。
「……前に、奥の部屋の扉が開いてる時があってさ、お父さんの位牌と写真を勝手に見てしまった。ごめん」
「そんな。それは、謝るようなことじゃない。……謝るようなことじゃないですよ」
中学生にはちょっと手に余る話なのだろうなということは分かっている。
生きるとか死ぬとか現実的に考えられる子はきっと少ないだろう。だいたいがお葬式の経験はあったとしても祖父や祖母。人によってはまだ身内全員が健勝であったりするのだから。
「違うよ。僕が謝りたかったんだ。大切なものを勝手に見てしまってごめん」
何故だろう。目が少し熱い。
母と姉にとっては父はとても大切な存在だ。でも私のためにあまり話さないようにしていた。私が寂しい思いをせずにすむように。疎外感を味わわないように。けれど私は聞きたかった二人から父の話を。
どんな人だったのかを、私は知らない。
母と姉をどれくらい愛していたのかも、私のことを愛してくれていたのかも、私はちゃんとは知らない。最低限教えて貰ったことしか知らない。
母や姉から聞くことで、父に私も会いたかったと寂しく感じたとしても、本当はもっと沢山話を聞きたかった。
母も姉も今でもなお愛している、私たちの父のことを。
「敬意を、払ってくれてありがとうございます」
涙がこぼれてしまわないように必死で目元に力を入れる。
自分の尺度じゃなくて、私達の尺度を慮って彼は謝ってくれた。
優しさって言葉は世界に溢れているけれど、優しさとはこういうことを意味するのかもしれない。
「村上君……私……ずっとずっと叶えたい願いがあったんです。そのために頑張っていたんです」
私が急に勉強に打ち込むようになった理由をお母さんは知らない。成績が急に良くなった理由をお母さんは知らない。
知るわけがない。だって私は誰にも自分の気持ちを伝えなかった。
「私……私……お姉ちゃんみたいに、なりたかったんです。憧れていたんです、本当に。姉の代わりになろうとするくらいに」
馬鹿みたいだと人は笑うだろうか。私のことも、姉のことも。
姉は、ずっと懸命だった。私はその姉のことが本当に大好きだったのだ。
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