第20話
最後に母と顔を合わせたのはいつだっただろう。
考えなくては思い出せないくらいには母は家にいない。
姉から頼まれた伝言はさすがに直接伝えた方がいいだろうとメールで済ませるのを止めたのだが、金曜日は私が起きている時間までに母は帰って来なかった。土曜日は起きたらもう休日出勤していた。
母と姉がいつの日から食い違ってしまったのだろうかと思索する。
私が物心つく頃、姉はすでに小学三年生だった。私からすれば大人だったけれど世間的には完全に子どもだ。世の中の小学三年生は自由気ままで、駄々だってこねるし、好き勝手に行動もする。
記憶に沈む。私は姉が我儘を口にする姿を見たことがあった? ――ない。ないのだ。そんな、当たり前のことが。
どこまでも姉は母の、私の、理想の姿で存在していた。
崩壊するまで母も私も疑問を持たなかった。姉の歪さに。
小学生が、中学生が、高校生が、持ち得ない完璧さであったというのに。
姉の異常さに気づくには、母には姉と向き合う時間が少なすぎたし、私は幻想を抱きすぎていた。
母は姉に期待していた。
期待をかけたくなるくらいに優秀であったし、目を離していられるくらいに姉は自立していた。小学生だったというのに。
一般的な子どもに目をかける母親というのは、四六時中子どもにべったりだったりもするらしい。けれど我が家には働き手は母しかいない。自然、姉は自分で自分の面倒を見られるようになっていた。
私たちの父は私が二歳の時に病気で亡くなったそうだ。私は顔も覚えていない。思い出も勿論ない。
小学生の頃、一度だけ姉に父について聞いてみたことがある。
お父さんてどんな人だったの? と。
私からそう問われた姉の表情を鮮明に覚えている。姉の完璧さが揺らいだのを私が見たのは、その瞬間だけだったから。
私は何も覚えていないが、姉と母の中には父の存在がある。思い出があるから苦しんでいた。
幼稚園で父の日に似顔絵を書かされた日があった。私は輪郭だけ書いたのっぺらぼうを先生に渡した。
友達はそれを見て笑ってた。ふざけちゃ駄目だよといって笑った。後になって母に話をしたら、母は震えた冷たい手で私のほっぺたに触れた。触れながら「紗智はお父さんに似てるよ」と私に言った。
思い出が胸に存在していることと、最初から存在もしていないこと、どちらの方が悲しいのだろうとたまに思う。――悲しみなんて比べるものではないけれど。
どっちの方が悲しいとかどっちの方が辛いとか比べたって何にもならないけれど。
母と姉の食い違いは、多分私の知らないさよならから生まれているのだ。
目を覚ますと、いつもと違いリビングに人の気配があった。部屋の扉を開けるとリビングからテレビの音が聞こえてくる。
「おはよう」
部屋に入るとコーヒーの良い香りがした。時間がある時だけ母はお気に入りの豆を使ってコーヒーを入れる。
「おはよう紗智、朝ご飯どうする?」
「お母さんこの時間に家にいるの珍しいね。仕事は落ち着いたの?」
「今週だけね。それで朝ご飯は?」
「パンとヨーグルトにしようかな」
確か冷蔵庫にパルテノンなヨーグルトがあったはずだ。それと食パンは今日が賞味期限だった気がする。
「それだけでいいの? せっかくだから紗智が食べたいもの作るのに」
「……じゃあ、お昼にオムライス食べたい」
久しぶりの会話だというのに、母は昨日も同じように話していたような態度だ。他の家族がどうかは知らないけれど親ってこんなものなのだろうか。
「そう。それじゃあ昼はオムライスにしましょう」
心なしか嬉しそうだ。機嫌が良さそうな今なら言えるかもと姉からの伝言を告げる。
「お姉ちゃん夏休み帰ってこれないって」
告げた瞬間、先程までと母の雰囲気ががらりと変わった。
深い深いため息が聞こえた。心に溜まった言葉を全て吐き出したような音だった。
「…………そう」
母は今の姉をどう思っているのだろう。聞いたことがない。私は聞けなかった。
「ねえ紗智。お願いだから紗智はお姉ちゃんみたいにならないでね」
胸が軋む音が聞こえた。
ねえお母さん。私ね。
ずっと心の中を支配している思いがある。けれど口から出るのは頭で考える言葉と真逆のものだ。
「ならないよ」
私の理想だったお姉ちゃん。完璧だったお姉ちゃん。私は。私。私はね。
痛い。
痛いのは、どこだ。
しくしくと開いた傷口はどこにある。
かさぶたにもなれない傷口はどこだ。
お姉ちゃん。お母さん。
私ね。本当はね。
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