第10話

 「いただきます」と、きちんと手を合わせてから目の前に座っている彼は食事に手を付けた。

 そういえば自分が作ったものを誰かと一緒に食べるのは初めてだ。母がいない時にだけ料理をしているのでこれまで誰にも振る舞ったことがない。まさか手料理を振る舞う相手が同級生の男の子になるなんて思いもよらなかった。

 今日の夕飯は私が準備した冷しゃぶ。それと昨日母が作っておいてくれた味噌汁とほうれん草のお浸しだ。

「落ち着く……久しぶりに味噌汁飲んだ……」

 しみじみと村上君は味噌汁を堪能している。私には大袈裟に聞こえてしまうのだけれど、実際どんな気持ちになるのだろう。味噌汁を久しぶりに飲むという経験がないから分からない。

「コンビニのお弁当とか外食とかだって美味しいけど、続くとやっぱり家庭料理が食べたくなるもんなんだねえ。知らなかったよ」

「そんなものですか」

「君もいつか分かる日が来るよ」

 同い年の癖にお兄さんぶるように彼は言った。

「ご飯、用意されてる日もあるって言ってたけど君の親っていつも帰ってくるの遅いよね? もしかして看護師さんとか? 夜勤がある仕事なの?」

「……違いますよ。普通の会社員です。朝に仕事に行って夜に帰ってきますよ」

「そう……。じゃあ君のお母さんは毎朝早くに起きて君の食事を用意してるのか、頭が下がるね」

 中学生なんて、毎日ご飯を作ってもらうのも、毎日綺麗に洗濯された洋服を着ることも、親から与えられるそれを当然のように受け取っている子がほとんだ。特別な感謝を覚える子はあまりいない。

 偏見かもしれないが、子どもには気づけないくらいに疲労とか不満を隠して毎日家事をこなしてくれている母親が多いから気づけずにいるのではないかと私は思っている。

 母親という生き物はどうしてあんなにも強いのかと、時々疑問に思う時もある。――私の母が強いだけなのか、私が母の弱さに気づけていないだけなのか、どちらなのかは分からないけれど。

「ありがたい、ことだね」

 そうなのだ。私は母に感謝している。その心は本当だ。

 滅多に顔を合わせることはないけれど、話もしないけれど、毎日私は母の作ったご飯を食べている。

「………………兄弟はいないの?」

「姉がいます。……高校を卒業してからは一人暮らしを始めたので一緒には暮らしていませんが」

 最後に姉と会ったのはいつだろう。家を出ていく姉の後ろ姿しか私は思い出せない。

「そう。それは寂しいね」

「――――っ」

 言葉にしようと思った何かと心が噛み合わなくなった。

 妙に乾く喉を潤そうとしてお茶を口にしたが、飲み込むタイミングがズレてしまったのかお茶が気管に入った。堪えきれずに、私はげほげほと咳き込む。

「……大丈夫?」

「大、丈、夫です」

 まだ軽く咳き込んでしまうが数回むせただけでだいぶ落ち着いた。

 反射で浮かんだ涙を指でぬぐう。

「ゆっくり食べなよ」

 村上君はそう言うと喋るのを止めて食事を再開した。話しながらではまた私がむせると思ったのだろうか、食べ終わるまで彼は黙ったまま箸をすすめた。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした。流しにおいといてくれればいいですよ」

 彼が皿を手に持ち立ち上がろうとしていたので先んじて伝える。

「洗う、くらい、できるよ。……多分」

 絶対に割らないとは言い切れなかったのだろう。反論はとてもたどたどしいものだった。

「じゃあ私が洗うので村上君は水ですすいでください」

 まるで子どものお手伝いのようだ。相手が同い年の男の子であるのに微笑ましく思う。

「すすいだらそこに並べてください。横に重ねちゃ駄目ですよ縦に並べるんですよ」

「……分かった」

 台所で二人並びながら洗い物をする。彼はとても慎重に茶碗や小皿を水ですすいだ。手が滑って落として割らないか不安なのだろう、洗うくらいできると言った手前もある。

 こうして並んでいると、同じくらいの身長だと思っていた彼の方が少しばかり背が高いことや、綺麗ではあるが手が私よりもずっと大きいことが分かる。

 ああ、男の子なんだなあ。と思えばちょっとだけ気恥ずかしくなった。

 洗い物はすぐに終わった。量も少ないし二人がかりでやれば時間はかからない。

 手持ち無沙汰になってしまったし、彼がここに来た目的はすでに達成したといえるのだが、食べ終わりましたね、では、帰ってください。というのはさすがになと思って「お茶でも飲みますか?」と試しに聞いてみた。

 まさか私から提案されるとは思わなかったのか少しだけ驚いた様子ではあったが「ありがとう。じゃあそれ飲んだら帰る」と彼から返答があったので、いつも自分が飲んでいる紅茶を用意した。

 一応リクエストも受け付けたのだが私が飲みたいもので良いと言われたのだ。

 白磁のティーポットを棚から取り出し、紅茶の缶を物色していると不意に、ところでさ、と彼が私に疑問を投げかけてきた。

「君はさあ、どうしてクラスからハブられてるの?」

 軽い調子の声に真意を図りかねる。……それに、ハブられてる、わけではない。

「……違うよ」

 違う。ハブられてなんかいない。ハブられるほどの距離感ですらない。

 強いて言うなら空気だ。透明人間だ。

 私のことを気にする人はクラスに一人もいない。

「ふうん。じゃあなんでクラスのやつらは君のこと、いないものみたいな扱いをしてるんだよ」

「そんなこと、ないです、よ。グループ組まなくちゃいけない時とか、普通に話もするし」

「必要なこと以外はまったく話さないってことだろ。それ」

 男の子らしい直接的な言い方に少し心がささくれる。だから言葉をオブラートに包んだ方がいいと言ったのに。

「……仲良くしなくては、駄目?」

 どうして皆、クラスメイトも先生すらも一人でいることはダメなことであるかのように言うのだろう。

 誰にも迷惑をかけていないのに。無理して仲良くするくらいなら一人でいる方がずっといいはずなのに。

「いいんじゃない?」

「……え?」

「いいんじゃない別に。仲良くはしなくたって」 

 先程までクラスメイトとの関係性を改善した方が良いと言われていた気がしていたのに、急に真逆のことを言われて思考が追い付かない。

「仲良くはしなくても良いけれど、当たり障りなく場に馴染む努力はした方が良いと思うよ」

「大人のような、ことを、言いますね」

「まあね。子どもだから許されることもあるけど、人間関係なんていつどこでまた巡ってくるのか分からないから。好かれなくてもいいけど嫌われないでいた方がいいよね」

「……そうかなあ」

 人の繋がりとか、そういうの。感じられるような経験したことない。

 そんなのは、学校から配られる形式だけのお知らせのプリントよりもぺらぺらに思えてしまう。

 縁とか絆とか言葉としては綺麗に聞こえるけれど、誰かが口にするその言葉よりも、人間関係なんてものは薄情だし希薄なんじゃないかと私は思うのだ。

「いつか分かるよ」

 諭すように私に言った村上君は、さっきと同じように妙に大人びた顔をしていた。

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