第9話
現実逃避をするように無心でキャベツを刻む。とんとんとんと軽快な音が台所で心地好い音楽を奏でる。単純作業はいらない思考を排除する良い方法だ。
「小皿ってこれ使えば良いの?」
私は今、人生で一番美しくキャベツを千切りしている自信がある。
「ねえ聞いてる?」
彼が喋るたびに、包丁がまな板を叩く音が次第に強くなった。
危ないことに包丁を使う私の目の前で「おーい」と言ってひらひらと手を振る生き物は、どうして我が家のキッチンにいるのだろう。
「聞こえてます」
「なら返事しなよ。君って面倒くさいとこがあるね」
殴っていいか、殴っても許されるか。これ。
許される気がする。……村上君は綺麗な顔に産んでくれた親に感謝するべきだ。彼がこの顔じゃなかったら本当に手がでていたかもしれない。
「左様ですか」
「何それ嫌味? 不愉快だったのなら遠回しに伝えるの止めなよ」
この顔じゃなければ……! この顔じゃ! なければ……!
ぐっと感情をのみくだして千切りを終えた包丁をまな板に置く。
「村上君はもう少し言葉をオブラートに包んだ方がいいと思います」
「そうかもね」
分かっていてあえてそうしているのだろうか。確かにクラスでちらほら聞こえてくる会話では、彼は自分が攻撃の的になってしまうような不用意な発言は絶対にしない。
「…………小皿は今手に持っているのを使ってください。暇ならそろそろご飯が炊けるのでよそってもらえると――」
もしやまさかそんなことはないだろうけれどと思いつつ、頭をよぎった可能性に言葉が途中で止まる。
「ん? どうかした?」
「あの……、炊飯器から茶碗にご飯をよそったことって……あります……か……?」
さすがにそれくらいはあるだろうと思いつつも彼は電子レンジを爆発させた男だ。
一般常識の外側で生きている可能性がある。恐る恐る私がそう聞くと、彼は目を見開いてから少し顔を赤くした。
「あるよ! それくらいはあるよ! 小学校の給食当番で普通にそれくらいはやるだろ! 僕をなんだと思っているんだよ!」
「電子レンジを爆発させた男だと思っています」
躊躇いなど欠片もなく村上君の言葉に被せるように返答した。
「させたけど! いやでもさすがにご飯をよそうくらいはできるよ!」
彼がここまで本当の表情で必死に言い募っているのは初めて見た。少し彼を可愛く思う。
「そうですか。良かったです。それでは、ご飯が炊けるので自分と私の分をよそって下さい」
「君……、思ってたよりも良い性格してるねえ」
ふふふ。と自然に口から笑みがこぼれた。久しぶりの感覚だった。
「どうもありがとうございます」
私がそうやってお礼をすると、彼は対抗するように笑みを浮かべた。
「本ッ当に、良い性格してるね」
その笑みは皮肉げだったが、声にはほのかに楽しさが含まれていた。
……不思議だ。彼とこんなにも普通に話していることが。
学校では絶対に私たちがこんな風に会話をすることはない。そもそも挨拶すらしないのだ。
同じ空間にいるだけで、お互いが透明の日々を過ごしてきた。それなのにこんなに普通に、まるで対等であるかのように話している。
不思議だ。
世界の誰とも比べられないような、特別な彼と、まるでただの同い年の友達のように話をしている。
「そろそろ止めない?」
「え?」
「敬語止めなよ。おかしいじゃん同い年のクラスメイトなのに」
クラスメイト、と。私、は。気安く会話を交わすような関係ではない。クラスの人と私はそれこそ敬語で話すような距離感だ。
おかしいよね。知ってるよ。
「……まあでも無理強いはしないから。そういうポリシーとか、敬語が楽なら別に良いよ。そういう人なんだって思うだけだから」
「そう、です、か」
「好きにしなよ。って、僕から敬語止めなよとか言っておきながらあれだけどさ」
彼は特に気にした様子もなく、私があらかじめ出しておいた茶碗を二つ手に取ると、ご飯をよそうために炊飯器へ向かった。
炊飯器の蓋を彼が開けると湯気と米の炊けた良い匂いが強くなった。
彼はご飯をよそうくらいと言ってはいたが、本当に大丈夫だろうかと心配になり様子を伺う。
村上君はしゃもじを軽く水で濡らしてから、よそう前に米をまずかき混ぜていた。どうやら彼の主張は正しかったらしい。
「心配しなくても大丈夫だって……」
凝視する私に気づいた彼は心外だとでも言いたいようだった。
「そうみたい…………だね」
「――そうだよ。これくらいできるんだよ、僕にだって」
あ、笑った。
失態続きだったのを挽回できた気持ちになったのか、肩の力が抜けた穏やかな表情を彼は浮かべていた。
村上君が自然に笑ったのを初めて見た気がした。
「電子レンジは爆発させるけど?」
「電子レンジは爆発させるけどご飯はよそえる」
ちょっとだけからかいたいような気持ちになった。そうしたら彼が真面目な顔をして、誇らしげに言うからあんまりおかしくて私は声をあげて笑ってしまった。
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