第8話

 手を引かれるまま村上君の家にあがると、玄関に入った瞬間から焦げ臭さが鼻についた。

 同じマンションだから部屋の構造はうちと同じようだった。

 玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の左手側にはトイレや浴室に繋がる扉がある。

 急かされながら靴を脱いでいると、見慣れた廊下を進んだ先にあるリビングダイニングに繋がる扉を、先に向かった彼が勢いよく開けた。

「ええと……」

 状況についていけない私は、どうして連れてこられたのか、今どういう状況なのか村上君に疑問を投げかけることもできなかった。

 村上家のダイニングには焦げた臭いと硫黄のような臭いが充満していた。

「電子レンジが爆発した」

 真剣な顔で彼は言った。

 電子レンジが、爆発した。

 頭の中で村上君の言葉を繰り返すが腑に落ちない。ただ、先程までの緊迫感と現実の落差に呆れてしまった。

 キッチンに目を向けると、電子レンジの扉がぱっかりと開いたままになっている。

 床を見ると白い破片――多分、卵の殻であったもの。と、黄色い液体状のもの――恐らく、卵の黄身だったはずのもの。が散乱していた。

 視覚情報によって、理解したくないのだがどうにか私は薄々状況を察してしまった。

「……電子レンジで何を温めました?」

「卵。ゆで卵ぐらいなら作れるかと思って」

 衝動的に頭を抱えたくなった。噂では聞いていたが本当に実行してしまう人がいるなんて思いもしなかったのだ。

「あのですね」

「何?」

「料理って……今までしたことありましたか?」

 答えが分かりきってはいたが念のため聞くと、彼は腕を組み顎を少し上げ自信満々にこう言った。

「あるわけない」

 そうだろうなと思いました。口には出さず心の中でだけ相槌を打つ。

 ため息をのみこんで私は冷静に状況を説明することにした。

「卵って電子レンジで加熱すると爆発するんですよ」

「え! 何で? 卵焼きとかお弁当についてるやつは爆発しないじゃん」

 この人、もしや何も教えなければお米を洗剤でとぐのだろうか。

「それはすでに加工されているから平気なだけです。生卵は液体だから水分が沸騰して爆発してしまうんですよ」

 状況を理解した彼はショックを受けた様子で、口をぽかんとあけたまま固まってしまった。

 凄い。こんなにまぬけな表情なのに格好いい。

 綺麗な人は何をしていても綺麗なんだなあ。そんな風にまじまじと私が眺めていても彼は微動だにしなかった。

 どうしたものかと悩んでいると、焦げた臭いも汚れた台所も気になり出してしまった。卵特有の臭いは、一度気になってしまうと無視できるものではなかった。

「とりあえず掃除をしませんか?」

「…………する」

「さすがに掃除道具は……ありますよね?」

 無くても驚かないと思いながらも恐る恐る聞くと、無言のまま彼は一度部屋を出て掃除機とティッシュ箱を持って戻ってきた。

「これでどうにかなる?」

「ええ……まあ……なりますけど……」

 環境には優しくないな。雑巾とかは多分無いかあっても場所が分からないんだろう。仕方ない。

 すぐに結論を出すと、私は村上君に簡単な作業をしてもらうため指示を出した。

 掃除機は最後にかけることにして、まずは爆散した卵黄と卵白を拭き取らなくてはならない。

「うわあ。これ本当に片付け終わるの?」

「終わらせるんですよ」

 ああ……私はどうして人様の家の掃除をしているのだろう……。村上君といるといつもペースを奪われている気がする。

「あー、もう。今日の夕飯どうすればいいんだよ……」

「これまで食事はどうしていたんですか?」

「コンビニか外食」

 悪びれた様子もなく、しれっと言われた。

「じゃあ今後も無理な自炊をやろうとしないでそうすればいいんじゃないですか?」

「飽きた」

「………………そうですか」

 百万語を飲み下し、相槌だけ打つ。ちょっとこいつ殴りたいと思ったのは多分間違った感情じゃない。

「君の家さ、親が帰ってくるの遅いよね?」

 急な話題の転換に掃除の手が止まった。

 どうしてそれを知っているのか、どうしてそんなことを今聞くのだろうか、疑問が浮かぶ。

「あやしまないでよ。聞こえるんだよ普通に、ドアの開閉音が。寝ようかなって時にいつも聞こえるから余計にさ」

 私が彼の家のドアの開閉音が聞こえているとすれば、逆もまたしかりということだ。当たり前のことを失念していた。

「それは、ご迷惑を、おかけしまして」

「そんなのは別に良いから。で、君は親が帰って来るまで一人なわけ?」

「そう、です、けど」

 嫌な予感がする。

 とてもとても嫌な予感がした。そして多分私はそれに抗えない。

「君ってさあ、毎日夕飯一人で食べてるってことだよね? それって用意されてるの? それとも自分で作ってるの?」

「用意されてる日と、作ってる日と、ありますけど」

「ふうん。じゃあさ……」

 どうにか回避しないといけない。回避しないといけないのに、その方法は分からなかった。

「材料費は出すから、僕の分も作ってくれない?」

 嫌な予感的中。回避ならず。

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