片頭痛

増田朋美

片頭痛

やっと涼しくなってきた、というか急に寒い日が続いてしまった。なんだか夏から一気に冬になっていくようで、なんだか、春と秋が消滅してしまうようなそんな気候が続いている。それが当たり前になってしまったら、どうなるのかなと不安になってしまう気がする。

その日、由紀子は、仕事が休みだったので、製鉄所にポンコツの車を走らせて行ってみることにした。というより、製鉄所に行かなければ、彼女の気がすまなかった。

由紀子が車を走らせている間に、製鉄所では、杉ちゃんが水穂さんにご飯を食べさせようとしているところだった。実は、製鉄所では、ちょっと困った事が起きていた。製鉄所の利用者で、3日前から頭痛が続いていて、今日に至っては、頭の奥で音が鳴るといいだしたので、それでは脳神経外科に行ったほうがいいと言うことになって、精密検査を受けに行った利用者がいたのである。杉ちゃんも、彼女が苦しんでいるところを目撃したので、ちょっと心配な気がしたのだった。それよりも、杉ちゃんは、水穂さんに再度ご飯を差し出したが、水穂さんは食べなかった。

「ほらあ、なんで食べないんだ。頼むから、食べてくれ。食べないと、本当に、大変な事になっちまうぞ。」

「食べる気がしないんだ。」

水穂さんは、小さな声で言った。それと同時に、由紀子が今日はと言って製鉄所の入り口を開けた。由紀子は製鉄所の入り口をあけて、製鉄所の中に、なにか嫌な空気が流れていることに気がつく。それがなんだかわからないけれど、そんな気がしたのだった。

「おい、食べる気がしないじゃなくてさ。本当に、食べないと動けなくなっちまうぞ。ガソリンが無いと車が全く動かないのとおんなじだよ。人間は、食べ物を食べないと、何も、動けなくなるんだよ。」

杉ちゃんはちょっと語勢を強くして言った。ところが返事の代わりに返ってくるものは咳である。由紀子は、急いで四畳半にはいった。部屋に入ると、水穂さんがひどく咳き込んでいたのが見える。由紀子が水穂さん大丈夫と言って、そばに駆け寄ると、同時に水穂さんの口元から、赤い液体がぐわっと姿を現した。由紀子は急いでそれを、ちり紙で拭き取った。水穂さんは、拭き取っても、なお咳き込むのである。由紀子は、水穂さんが、もしかしたら、中身を吐き出せず、窒息するのではないかと思ってしまった。急いで水穂さんの背中を叩いたりさすったりする。杉ちゃんが、枕元にあった水のみを、水穂さんの口元に無理やり突っ込んで中身を飲ませた。これに酔ってやっと、咳き込むのは止まって、水穂さんは肩で大きな息をした。それほど苦しかったに違いない。

「はあ、全く、日が立つごとにひどくなるな。いちいち止めるのに人手が要るんじゃ、困ったもんだぜ。」

杉ちゃんが、水のみを片付けながら、そういう事を言った。

「そして、ご飯は薬で眠ってしまうので、食べないと。」

確かにそういう通り、水穂さんは、静かに眠りだしてしまうのであった。眠りだしたのを確認して杉ちゃんは、真っ赤に汚れてしまった、枕に敷いたタオルを取り外し、別のタオルに取り替えてやった。由紀子もそれを手伝った。嫌そうな顔をして、杉ちゃんは、また着物を縫う作業に戻ってしまった。由紀子は、眠っている水穂さんの布団をかけ直してやった。

「由紀子さんどうしたの?多分夕方まで目を覚まさないよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「水穂さんのそばに居たいの私。」

と、由紀子はそう答えた。本当は、時間の流れなどどうでも良かった。由紀子は、とにかく水穂さんのそばにいたい。そう思ってしまうのだった。

「それにしても、困っちまうよな。日が立つごとに悪くなっちまうんだから。今までは一進一退で、ちょっといいかなって言うときもあったんだけど。なんだか、今日は悪くなるばっかりだぜ。」

杉ちゃんの言い方は明るいが、由紀子はその裏に、重大なものが隠されているのではないかと思った。水穂さんは、余計に自分から遠ざかってしまう。そして、自分たちには手の届かないところに逝ってしまう、、、。そう考えると怖くなった。

不意に杉ちゃんのスマートフォンがなった。

「はいはい、もしもし。おう、あ、ジョチさん。で、星野さんは大丈夫だったか?ああ、ああ、そうか。わかったよ。ということは、脳腫瘍とか、脳卒中とか、そういうものではなかったんだね。それで、ああ、精神科に紹介状書いてもらったのね。で、いつ行く?明日ね。わかった。それで、精神科に行くときのタクシーの予約は?ああ、もう小薗さんに頼んだのね。わかったよ。」

杉ちゃんは、そういう事を言っていた。由紀子は思わず、

「なにかあったんですか?」

と、杉ちゃんに聞いてみる。杉ちゃんは電話を切って、

「ああ、星野節子という利用者が、頭痛がひどいと言っていて、今日になったら、頭がなっていると言い出したのでね。大きな病院で調べてもらったんだよ。それで、頭のCTも撮ってもらったらしいんだけど、ただの片頭痛でね。それがひどいので、精神科に言ったほうがいいっていわれたんだって。紹介状も書いてもらって、明日行くってさ。ま、よくある話だけど、流石にびっくりしたよ。動けないほどの頭痛が続いて、頭が鳴るなんて言い出すんだもの。ま、片頭痛で良かったな。」

杉ちゃんはカラカラと笑っているが、由紀子は行き場のない怒りが生じた。何故かわからないけれど、怒りの気持ちが湧いてきた。

「なんで、、、?」

「どうしたの由紀子さん。何かあったの?」

杉ちゃんがそう言うと、由紀子は涙をこぼして泣き出してしまった。

「なんで、その人は片頭痛ごときで、頭のCTも撮ってもらって、精神科まで紹介してもらえるの?」

「え?それは、医者がしたことだから、それに従うしか無いだろう。そういうことじゃないか?」

杉ちゃんが由紀子の話にそう答えると、由紀子は思わず逆上した。

「なんで、その人は、精神科を紹介してもらう事ができて、水穂さんは何もできないのよ!」

「まあ、怒るな怒るな。そう思ってしまうのも無理はないと思うが、水穂さんを医者に見せたら、銘仙の着物を着ているやつを見るなんて、自分の名誉に傷がつくとかなんとか、そういう事をいわれるだけだよ。それに、連れて行く手段だって何も無いでしょ。介護タクシーにのっけようとも、こんなやつを乗せたくないなんていう事業者が大半でしょ。まあ、そういう事情がほとんどだからさ。連れて行かないほうが、賢明というもんだ。もし、診察を断られて、ほかの病院にたらい回しにされている間におかしくなったらそれこそ大変だよ。診察ができたとしても、明治とか大正からタイムスリップしたのかといわれるのが大半でしょ。だから、ここにいさせたほうがいいと思うんだよね。」

杉ちゃんが急いでそう言うと、由紀子は、そんな事、と涙をこぼしていった。

「そんな事絶対にないわ。誰かが、見てくれないと、水穂さんは、生きていかれないわ。杉ちゃんたちが言っているのは、こういう事じゃないかしら。私は、口に出して言うのも嫌だけど。」

「そうか、そうならそう言ってみな。こういうことで片付けちゃいけないぜ。僕はちゃんと言ったんだから、お前さんだって、同じことをやってもらわないと困る。」

と、杉ちゃんにいわれて由紀子は、流れてくる涙を止められないような気持ちになって、

「杉ちゃんたちが望んでいるのは水穂さんに消えてほしいと言っているのと、同じよ!」

と、言った。

「まあ、最終的にはそうなるだろうな。そうなるしか、水穂さんが同和問題から解放されることは、まず無いと思うよ。本人だってそれを望んでいると思う。だからこそご飯を食べるきにならないんだろうし。でもねえ、事実そうだからねえ。」

杉ちゃんにそういわれて、由紀子はそれでは私が水穂さんを愛しているという気持ちはどうなるんだと言おうとしたが、杉ちゃんの方は口笛を吹いているので、言えなくなってしまった。それと同時に、只今戻りましたと言って、ジョチさんが、利用者の星野節子さんと一緒に帰ってきた。杉ちゃんの方は、おう、帰ってきたかと言っている。

「明日、精神科の大病院で見てもらうことになりました。彼女が、そこを希望したんです。個人病院より、すぐに大規模な検査ができるところがいいと言うことで。まあ、ただの片頭痛では、さほど心配ないと僕は言ったんですけどね。でも、彼女はとてもつらいようで、たしかに頭痛というのは、本人にしかわからないところもあるから、そのとおりにしたんです。」

と、ジョチさんは、杉ちゃんに説明した。

「まあそうだわな。片頭痛は、たしかに痛いもんね。ひどい人では、吐いてしまう人もいるみたいんだし。多分ストレスとか、そういう事が原因だと思うけど、うまく休める環境を作ってあげることが大事だよね。」

と。杉ちゃんが言っているのを聞いて、由紀子は、思わず、

「休める環境が必要なら、水穂さんにも作ってあげてください!体をしっかり直してあげられる、これ以上悪くならないで済む場所を用意してあげてください!」

と怒鳴ってしまった。

「由紀子さん、怒鳴るのは良くないよ。」

と、杉ちゃんがいうが、それが由紀子の怒りを大きくしてしまうようであった。

「まあ、休む場所を用意させてあげたいと思うのはわかるんですけど、そのような場所はどこにも無いという事もまた事実でしょう。もし、それを実行するのであれば、国を変えるしか無いですね。しかも、弱い人に優しいところでないとだめでしょうね。それをしようとすれば、あなた、日本から追い出す気かと言って、激怒なさったことはご存知ですよね?」

ジョチさんはあくまでも冷静に言った。こういうときは、相手も感情的にならないで冷静に話すのが一番である。何もいわないでそっとしてあげることも必要であるが、事実を伝えなければならないときは、簡潔な言葉で言うのが、一番なのだ。

「だから、結局、水穂さんをなんとかする方法は何も無いと言うことです。それが同和問題ということですからね。それをなんとかするには、日本の歴史も絡んできますから、非常に難しいでしょう。」

杉ちゃんもジョチさんも、なんでこんな言い方ができるんだろうかと、由紀子は二人の言うことを、聞きたくないというか、有る種の恐怖まで感じてしまうのだった。水穂さんは、本当に、姿を消すしか、解決方法が無いのだろうか。そんなことはない。医者だって、偉い人であれば、病気を治そうとしてくるはず。だって、テレビやアニメなどではみんなそうしているじゃない。それに、テレビの健康番組には、多くの医者が登場している。そういう人たちは、しっかり患者さんを治しているのではないか。由紀子はそう思ってしまった。誰か、水穂さんをなんとかしてくれる人物はいるのではないか。自分がまだ探していないだけで。多分テレビに出てくるような人物であれば、なんとかしてくれるのではないか。由紀子は、自分で探してみることにした。

「もういいわ。私、なんとか、してみることにするから。」

「なんとかするって言ってもね、多分無理だと思うよ。だって、偉いやつほど、、、。」

と、杉ちゃんが言いかけたが、ジョチさんがそれを止めた。そんな事言っても、わからないときが女性には有るのだ。

次の日、由紀子は、仕事を休むことにした。そして、欠勤の電話を岳南鉄道にして相手が何を言っているのか全く気にせず、電話を切って、三島市内の大規模な病院に向かう。ここに、有名な女性の先生がと、昨日徹夜で調べ上げた。もう寝ていないことだって何も気にしないで病院に向かって、ポンコツの車を走らせる。一時間くらい走ると、その病院はあった。由紀子は、医療相談なのだがと言って、この病院の木山友子という先生にあわせて貰えないだろうか、と、受付に行った。この先生、名前は単純な名前だけど、呼吸器内科の医者としては、すごい腕が有るということを、由紀子は調べ上げていた。

「はあ、あなた予約もしてないんですよね。それで、木山先生にあわせてくれですって?何をお考えなのでしょうかね。」

呆れた顔をしていう受けつけに、由紀子は、お願いしますと頭を下げた。そうすることが、一番自分にできることでは無いかと思うのだ。由紀子はそう思った。頭をさげたまま、そこを動こうとしない由紀子を見て、受付は、守衛を呼ぼうかと電話に手を伸ばしたが、そのときに、出世街道とは大幅に出遅れている様に見える、一人の女性がやってきて、由紀子を通してやれといった。由紀子は、その女性の顔をしげしげとみた。確かに首にぶら下げてある名札には、医師石井富子と書かれているのであるが、医者というより掃除のおばさんというような感じの女性である。

「いいんですか、石井先生。この人、予約もしてないんですよ。」

と受付は言うのであるが、

「もし、なにかあったなら私が責任を取ります。」

と、石井富子先生は言った。木山友子とは名前が似ているようでちょっと違う。でも、もしかしたらと思い、由紀子はお願いしますといった。石井先生は、こちらにいらしてくださいと言って、由紀子をロビーのテーブルに座らせた。そして、今日はどちらかお悪いのと聞いた。

「私じゃありません。私の大事な人なんです。私が、一番愛していると言ったほうが正確かもしれません。だれも手を差し伸べない、居場所をなくした男性で。私も、なんとかしてあげたいんですけど、どうしても、何もできなくて。」

由紀子は、急いで言った。

「できれば、できるだけ早く、診察にいらしてもらいたいんです。周りの人達は、その人が、この世から消えるしか解決方法が無いと思ってるんです。でも、私は違うと思うんです。私は、元気になって、もう一度社会に戻ってほしい。そうすればきっと、彼の事を必要としてくれる人は、いるはずなんです。」

由紀子が一生懸命訴えると、石井先生は、にこやかに笑って、じゃあその男性をすぐに見ましょうと言ってくれた。由紀子は、ほんとうですかと驚いた。同時に、銘仙の着物を処分させる時間があったら良かったのにと思ったが、石井先生は、患者さんはどちらにと聞いてくるので、由紀子は、すぐに、先生を連れて行くことにした。

製鉄所では、水穂さんが相変わらず咳き込んで、布団を汚していた。杉ちゃんもジョチさんも、明らかに悪化していることを、薄々気づいていたが、口に出すことはしなかった。しても無駄であることは、はっきりしていたのだから。

と、同時に、玄関のドアがガラガラっと開いて、由紀子が戻ってきた。由紀子さんは何をやってるのかなと杉ちゃんもジョチさんも、変な顔をしていたが、由紀子は、こちらですと言って、石井先生を四畳半まで案内した。杉ちゃんなんかは、医者を本当に連れてきたのかと、思わず口にしてしまったが、ジョチさんが、それはいわないほうがいいと言ってやめさせた。

石井先生は、水穂さんの様子をしげしげと眺めて、そして、寝たままで構わないから、聴診させてくれといった。由紀子は、布団を剥ぎ取ると、銘仙の着物がもろに見えた。これを見せたら、絶対だれでもたじろいでしまうと思われたが、石井先生は、何もいわなかった。そして、水穂さんの兵児帯を解いて、ほとんど肋骨でできている胸や背中などに聴診器を当て始めた。杉ちゃんなんかはもう結果がわかっているような顔をして、口笛を吹いているが、由紀子は真剣な顔をしていた。石井先生は、水穂さんの体を触ったり、叩いたりして、様子を見ていたが、やがて結論が出たようで、水穂さんの着物を丁寧に着付け、元に戻してくれた。

「どうですか。なにか、わかったことはありましたでしょうか?」

由紀子は、急いでそうきくと、

「ええ。かなり進行しているわね。これでは、根本的な治療は全くできないわよ。」

と、石井先生はいうのだった。

「ほらやっぱり。だから、僕はやめろといったのに。また無駄骨折しちまったな。」

と、杉ちゃんはいうが、石井先生は話を続けた。

「でも、彼に残された時間は、あと僅かしかないとはいえ、彼のできることをできるだけさせてあげてください。」

「そんなもの無いよ。まあ、無理なものは、無理だと言うことはわかったよ。どうせ、お前さんだって、こいつは、銘仙のきもの着てるから、ろくなやつじゃないと思ってるんだろ。だったら、来ないでもらいたいな。じゃあ、帰った帰った!」

と、杉ちゃんはそういう事をいうが、由紀子は思わず、

「どういうつもりよ!」

と言って、杉ちゃんに突っかかりそうになった。

「わかったわよ。あなたも彼のことを気にかけてくれているから、そういう事を言っているんでしょう。わざときついことを言っているけど。それだって、彼の事に全く関心が無いのなら何もしないで放置しておくはずよね。」

石井先生は、杉ちゃんに言った。

「まあ、そういうことだよな。僕達は、そう思っているんだよなあ。それは、由紀子さんにもわかってもらったかな。」

と、杉ちゃんはカラカラと笑って言うと、由紀子はこれが、水穂さんに対する愛情を持った言葉なのかと思うのであるが、石井先生はそう思っているようだ。由紀子は、昨日の片頭痛で病院に言った女性と同じような言葉をかけてやることが一番の愛情なのかと思っていたのだが、、、水穂さんには、こういう言葉しか無いと言うことを、受け入れることはできなかったのであった。

「本当にありがとうございました。わざわざ来てくださって。なんだか、こんなところに来ていただいて申し訳ありません。僕達がお送りいたしますから、道順など仰っていただければ。」

と、ジョチさんは、小薗さんに電話をかけ始めた。由紀子は、これで終わりなのかと、悔しい気持ちになったが、石井先生は、にこやかに笑って、

「あなたにも、いつかわかる日が来るわよ。どうしようもないことが有るってことに。」

と、由紀子に優しく言って、四畳半をあとにした。由紀子は、私はわからなくても良いと思い直した。だって、水穂さんを愛しているのだから。









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