二十一話~「修羅場だ……」~
教室の開け放たれた戸口の所に立って、ひまりちゃんは俺に手を振っていた。もう片方の手には、いつものようにお弁当の袋を持っている。
ひまりちゃんの視線は俺と、俺に抱き着いているしおりに向けられていて、その口元には朗らかな笑みが浮かべられていた。不自然なほど明るい笑顔。
怖すぎる。ひまりちゃん、ちょっとそれは怖すぎるよ。
ひまりちゃんは躊躇なく教室に足を踏み入れると、俺の側まで駆け寄って来て、俺の手を握った。
「ほら、行きましょ? 晴斗せーんぱい♡」
とろけそうなほど甘ったるい猫なで声で言って、ひまりちゃんが上目に俺を見つめる。
「――――――」
今この瞬間の、この教室の空気を、何と表現すればいいだろう。
気付けば教室にいる生徒たちの視線は、残らず俺に向けられていて、誰も言葉を発していなかった。シンと教室は静まり返って、皆が固唾を呑んで、こちらの様子をうかがっている。
しおりに背後から抱き着かれている俺、正面からひまりちゃんに笑顔で手を引かれてる俺。なにこれ、昼ドラ? あーっ、ちょうど今お昼休みだもんね! 納得(現実逃避)。
「修羅場だ……」と誰かが呟いた。こらこらスマホのカメラをこっちに向けるな。楽しそうにひそひそ会話するな。
「ね? ほら、行こうハルくん、そんなの置いといてさ」
ひまりちゃんがグイと俺を引っ張る。しかし、しおりがその小さな体全部を使って俺を抱き留め、持っていかれまいと抵抗する。
「……っ、だ、ダメぇ……っ」
「ねぇ、ハルくん、ってば!」
「ちょ……ちょっと、しおりもひまりちゃんも……っ」
やめて! 私のために争わないでッ!
「ねえハルくん、ハルくんはさ、ひまりの彼氏でしょ?」
「え」
え……、今それを言う?
「いや、彼氏って言ってもニセ――」
「ハルくん?」
「あ、いやっ、そう、確かにそうかもしれないけど……」
「だったら、ハルくんは彼女のひまりと一緒にお昼ご飯を食べるべきじゃない? ほら、せっかくひまりもお弁当作ってきたんだし。今日もハルくんの好きな物いっぱい入れたんだよ?」
「それは物凄くありがたいんですけども、ちょっと落ち着いて欲しいというか」
「ち、違う……っ」
背後にいたしおりが、震える声で、しかしかなり大きな声で言った。静寂に包まれているこの教室内で、その声はやけに強く響いた。
「違う……。違う……から」
「何が違うの? 言いたいことがあるならハッキリこっち見て言ってよね、お姉ちゃん」
ひまりちゃんが一瞬にして冷めたような顔になり、冷えた声音でしおりを挑発した。
やめて……っ! やめて! 怖いからやめて!
すると、しおりがおずおずと俺の背中から顔を出して、真っ直ぐひまりちゃんを見た。
「ち、違う……んでしょ? ひまりは、晴斗の、彼女じゃない。わ、わたし、知ってるから。どうせ、ひまりが晴斗に無理やり言って、恋人のフリ、とかしてもらってるだけ」
「……っ!」
ひまりちゃんは驚いたように目を見張ったが、次の瞬間、敵意剥き出しの眼でしおりをにらんだ。
「だからなに!? そんなのお姉ちゃんに関係ないじゃん! お姉ちゃんは卑怯だよ! そんな弱ったふりしてハルくんに面倒見てもらって! お姉ちゃんこそハルくんの恋人じゃないし、ハルくんだってお姉ちゃんの保護者でも何でもないのに!」
「ち、ちが……っ、わたしは、晴斗が……っ」
「ねえハルくん!」
ひまりちゃんが癇癪を起こしたように叫んで、俺を見た。その幼さの残る顔に浮かべられた拗ねたような表情は、昔と何も変わらない。
成長した、と思っていた。
ひまりちゃんは大きくなって、オシャレにも気を遣うようになって、ちょっとませた事も覚えて、女の子らしくなったと。
でもその幼い顔を見て、ひまりちゃんが変わっていない事に気付く。昔から変わらないワガママな子供のままだと。
そしてそれは多分、しおりも、俺も、似たようなものなのだ。
まるっきり成長していない訳ではなかったとしても、本質は変わっていない。ただ、だからと言っていつまでも昔の、仲の良い幼なじみの気分ではいられないのかもしれないと悟る。
成長していなくても、俺たちは成長しているのだから。
「ハルくんは、ひまりとお姉ちゃんのどっちが好きなの?」
当然、こういう事になる。
今ここで、俺がどちらかを優先したとして、それが優先しなかったもう一人よりも、優先した相手の方が好き、ということにはならない。でも、そういうことじゃないのだ。
ひまりちゃんやしおりは、そんな言い訳じみた正論で納得はしないだろう。
納得はしないだろうが、しかし俺は俺で、少なくとも今この場でひまりちゃんが望んでいるであろう事も、しおりが望んでいるであろう事も、言うことはできない。
だって俺どっちも好きだし(泣)。
いや別に二股かけようとか、そういう事でもないんだけども。
あーっ、めんどくせぇ! もうなるようになってくれ。
「ひまりちゃん、一旦落ち着こう」
思考放棄した俺は、とりあえず興奮しているひまりちゃんに冷静な声をかける。
「ほら、一回深呼吸してさ」
「ひまり……、ハルくんにそうやって子供扱いされるのきらい」
ひまりちゃんに涙目で見上げられる。
「ひまりは、ひまりは、ハルくんがお姉ちゃんとひまりのどっちが好きなのか、聞きたいだけなのに……」
「ひまりちゃん……」
つくづく、人ってのはめんどくさい生き物だ。
ひまりちゃんだって、これが理にかなった行いじゃないというのは、理解していると思う。それでも。そうせざるを得ないのだろう。こんなに人目が付く場所でも、一度感情が爆発してしまったから。
それを理性でどうにか抑え込むのが『大人』という生き物なんだろうけど、ひまりちゃんは俺に子供扱いされたくないと言ったけれど、たぶんまだ子供だから。
「――ひまりは、ハルくんのこと好きだから」
いじけたように、瞳を涙で濡らして、ひまりちゃんは言った。
そしてひまりちゃんは手に持っていた弁当箱を床に落とすと、背伸びをして、その小さな両手で、俺の顔を包み込む。
――桜色のかわいらしい唇が、その驚くほどのやわらかさを俺の唇に直接伝えてきた瞬間、時が止まったかと思った。
ひまりちゃんとのキスが何秒続いたのか、正確な時間は分からない。一瞬のような気もしたし、たっぷり十秒くらいあったような気もする。
その時の俺が考えていたことは二つ。
あぁ、キスってこんな感じなんだ、ということ。
もう一つは、あぁ、確かにひまりちゃんは大人ではないけど、子供でもないんだな、ということ。
「これで分かった? ずっと好きだったんだから、……ハルくんのばか」
ひまりちゃんは真っ赤にした顔で俺にそう言い残すと、クルリと踵を返して教室を飛び出して行った。
「――――――」
俺が唖然としてその場で硬直していると、不意に、背中にあった温もりが離れた感覚があった。
タタッと床を蹴る足音が聞こえて、視界の端でしおりも教室を出て行くのが見えた。
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