十九話~「え?」~


 一限目の授業が終わり小休憩の時間になると、しおりが俺の元に駆け寄ってきた。まるで小動物のような動きで、椅子に座る俺の肩に手を置いてくる。


 ふうと背後で一息ついているしおりに、俺は声をかける。


「久しぶりの授業はどうだったよ。今の内容理解できたか?」


 ちなみに一限目は数学だった。さらに言えば俺はよく分からなかった。


「だ、大丈夫……。ちゃんと家で、勉強は、してるから」


「え、理解できたの?」


「え……? う、うん」


 まるで理解できるのは当たり前、みたいな表情で頷かれる。……もしかして、しおりって俺より頭いい?


「へーっ、すごい。一人で全部できるなら授業中寝てても困らないね。羨ましいな」


 右斜め前の席に座る光希が、こちらに体を向けながら冗談めかして言った。


「そ、そこまでの、ことじゃ」


 俺の陰に身を隠しながら、しおりは控えめに手を振って照れている。


「しおりちゃん、中学の時も頭良かったもんね」


 隣の席でそう言ったのは小山さんだ。


「でも、学校に来てなかった時のことで、もしよく分からないことがあったら言ってね。私も、勉強にはそこそこ自信あるから」


 ふふ、と自慢げに微笑む小山さん。わー、俺と違って頼りになるー。


 そんな感じで、小休憩の時間は雑談をして過ごした。


 身も蓋もなく言わせてもらえば、しおりは人見知りな上に引っ込み思案で、人とコミュケーションを取るのがあまり得意ではないタイプだと思う。

 しかしながら、俺の隣にいるこの美男美女二人のコミュニケーション能力がRPGでいうラスボス魔王レベルであったため、しおり相手でも驚くほどスムーズに会話が進んだ。


 ほんとこの二人が居てくれてよかったと思う。感謝。


 会話を続けている内にしおりの緊張が解けていくのが、俺の肩に置かれた手にかかる力加減から分かった。


 二限目、三限目が終わった後も同じようにお喋りをして過ごして、四限後の昼休みが訪れた頃合いには、しおりは光希や小山さんが相手ならだいぶリラックスして話せるようになっていた。


 恐るべしコミュ強美男美女。

 俺なんて久しぶりに顔を合わせたしおりとまともに会話できるようになるまで四日くらいかかったんだぜ?


「晴斗、お昼はどうするの? この四人で食堂でも行く?」


 光希にそう尋ねられ、俺はどうしようかと悩む。


 この一週間ずっと、俺はひまりちゃんと一緒にお昼を取っていた。

 しかしながら、昨日にひまりちゃんを怒らせてしまった感があるので、ちょっとだけ気まずい。もちろん、光希がそんなことを知っている訳がないのだが、光希は光希で、脱不登校初日のしおりの側には俺がいた方が良いというのを何となく察して、わざわざそんな問いかけをしたのだろう。コイツはそういう気遣いができるタイプのイケメンである。


 さて、どうしたものか。


 俺の気持ちとしては、少しひまりちゃんの様子を見に行きたい。拗ねたひまりちゃんに機嫌を直してもらうなら、なるべく早い方がいい(経験則)。あと、例の村上先輩のこともあるし。


 しおりが想像以上にすんなり光希と小山さんと打ち解けてくれたので、案外この二人と一緒ならお昼くらいは大丈夫なんじゃないかと思う。しおりが少なからず俺に依存しているのだとしても、学校にいる間は常に俺が彼女の側に居なきゃいけないなんてのは、自意識過剰だ。

 それに、俺抜きで過ごす時間があった方が、脱引きこもりの練習にもなるだろう。


「すまん、俺ちょっと用事があるから三人で昼は済ませといてくれ」


 しかし俺がそう言った瞬間、しおりの表情が一変した。


「え?」


 しおりは、俺が何を言ったのか分からないとでも言いたげにポカンと呆けてた。


「は、晴斗、どこ行くの……?」


「いや、ちょっとな」


「え、え、いや」


 しおりは酷く不安げに瞳を揺らして、俺の服の裾を握った。


「そんな顔すんなって。光希と小山さんもいるんだから、そんな不安にならなくても大丈夫だろ」


「い、いや、行かないで」


 しおりの声は震えていた。瞳には涙が溜まり始め、縋るように俺を見つめている。なんだこれは。別に俺が引っ越して転校する訳でもないんだし。


「あー……でも、な」


 困惑しつつ、俺は隣にいる光希と小山さんを見やる。二人も急に様子が変わったしおりを困ったように見つめていた。


 小山さんがしおりを安心させるように笑いかけて、口を開く。


「しおりちゃん、河合くんは用事があるみたいだし、私たちと一緒にご飯食べよ? ほら、さっき話してくれた本の話、もっと詳しく聞かせて欲しいな」


「そうだね、晴斗もそんなに長くかかる用事って訳じゃないんでしょ?」


「あ、あぁ、すぐ帰って来る、と思う」


 たぶん?


「え、え、でも……わたし……え、え、いやぁ……っ」


 しおりはその細い肩を震わせながら、俺の側に張り付いてくる。そのまましおりは俺の腰に手を回すように抱き着いて、絶対に離さないとでもいうように強く力を込めてくる。


「…………」


 俺は少し思い違いをしていたのかもしれない。


 かおりさんが言っていた『しおりが俺と離れた後何もできなくなった』という言葉を、もっと真剣に受け止めるべきだった。あの時、かおりさんは本当に冗談を言っていた訳でも、誇張して表現した訳でもなかった。


 しおりが、今日一日で光希や小山さんと話せるようになったのは、二人のコミュケーション能力が高かったから訳じゃなくて(もちろんその要因もあるだろうが)、俺が側にいたからなのかもしれない。


 俺が四日ほどでしおりと以前のように話せるようになったのは、俺だからだったのかもしれない。


 激しい温度差を感じた。俺がしおりに向けている感情と、しおりが俺に向けている感情の間に、大きな隔たりがあった。何かが致命的に違う。

 この際言っておくと、俺はしおりの事が好きだ。昔から好きだったし、しおりと疎遠になってしまったのも少し寂しかったし、この一週間でまた前のようにしおりと接することができて楽しかった。それがいわゆる恋愛的な意味での好きかどうなのかは置いておいて、俺はとてもしおりのことを好ましく思っている。


 だが、しおりのこれは――――。


「しおり……」


「……っ」


 しおりが俺の腰に回した腕に、さらに力を込めた。


 その時だ。


 俺の耳に、ここの所毎日聞いていた明るい声が届いた。


「晴斗せんぱーいっ! 一緒にお昼しましょ! 先輩が全然中庭に来ないから、世界一かわいい晴斗先輩の彼女であるひまりが、迎えに来てあげましたよ!」


 声が聞こえた方に視線をやると、つくったように朗らかで可憐な笑みを湛え、ひまりちゃんが俺に手を振っていた。

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