十話~「実は女の子にモテ過ぎて困ってるんだ」~


 俺が寝ぼけ眼でモソモソと朝食のパンをかじっていると、インターホンの軽快な音が鳴った。

 こんな朝早くから誰だろうと思って、玄関先を映しているモニターの方に視線を向けたが、丁度その近くを通った姉ちゃんが通話ボタンを押していた。


「どうしたの? こんな朝早くから」


 姉ちゃんがモニターの方に顔を向けながら、不思議そうに言った。姉ちゃんの影に隠れてモニターが見えないから誰が来てるか分からないけど、この感じだと姉ちゃんの友達かな。

 そう思って俺が食パンを胃に詰め込む作業に戻ろうとすると、モニターの方から聞きなれた明るい声が飛んできた。


『あ! なっちゃん! ハルくんいる?』


 これはひまりちゃんの声ですね。何しに来たんだろう。


「え? 晴斗? いるけどウチの愚弟になんか用? セクハラされたとかなら早く警察行った方がいいよ?」


 いや愚弟って……。日常会話で出す語彙じゃないでしょう姉よ。あと弟に対する信頼が無さすぎませんかね?


『ううん、そういうんじゃなくてね。ひまりとハルくん付き合うことになったから、早速今日から一緒に登校しようかなって、えへへ』


「え?」


 姉ちゃんが驚いたように振り返って俺を見る。


「え?」


 姉に追及の視線を突き刺されて首を傾げる俺。何その視線。ダメだ寝起きで頭が回ってない。そう言えば昨日、悪い虫を追っ払うために、ひまりちゃんとニセの彼氏になることを了承したんだった。


「え?」


 姉ちゃんがもう一度モニターに視線を戻して間抜けな声を上げた。


『だから、ひまりね、ハルくんと恋人同士になったの……』


 少し照れたような、それでいて甘い声が聞こえてくる。かわいい声だなぁ……。癒される。思わずニヤけていると、俺の側に寄って来た姉が俺の胸倉を掴み上げていた。

 

 え? ちょ! なに!? 痛い! 苦しい!


「晴斗あんた!? ひまりちゃんに手ぇ出したの!?」


「待って! 姉ちゃん待って! これには深い事情があってですね!」


「あ゛?」


 ギロリと睨まれる。怖い! 姉ちゃんこわい!


『あ、ハルくーん! 昨日のことは誰にも言っちゃダメだからね、もし言ったらハルくんのこと嫌いになるから』


 モニターの方からひまりちゃんの少し間延びした声が聞こえてくる。え、言っちゃダメなの!? 姉ちゃんにも!?


「なに? どういうこと?」


 姉ちゃんが胸倉を掴んだまま俺をにらむ。

 この暴力ゴリラめ……。いつまでもそんな安い脅しで弟が姉に屈服すると思うなよ。俺の脳裏に蘇るのは、これまでの人生で姉ちゃんが俺を奴隷のように扱ってきた屈辱の日々たち。思い出すだけで泣ける。


 が、今の俺は無敵だ。ひまりちゃんに嫌われる訳にはいかない。


「い、言わない……」


 そう言って口を引き結ぶ俺。姉ちゃんの目付きが鋭くなる。ひぃ……怖い。でも言ってやる。今日こそは言ってやるぞ。


「暴力に頼ることしかできない原始人め……、だからモテないんだ。弟に先を越されるんだ。俺とひまりちゃんの愛は誰にも引き裂けない。姉ちゃんは動物園のゴリラとお見合いでもしとけ! へっ! 結婚式にはニュージーランド産のバナナを送ってやるよぉぉ!」


「……よーし分かった、覚悟しなよあんた」


 地獄の底から響くような冷え切った声だった。姉ちゃんの額に青筋が浮かんでいる。リアルに青筋浮いてる人初めて見た。すげぇ、本物か?


 そう思った次の瞬間、俺は硬いフローリングの床に倒れていた。そして姉ちゃんの腕が背後から俺の首に巻き付き、胴体が両脚で絞められる。俗にいう『裸絞め』という寝技が完璧にキマっていた。


 殺す気だ。この姉、実の弟を殺す気だ。本気で首を絞められているため、上手く声が出せない。

 俺はギブアップを宣言するつもりでバンバンと床を叩く。


 ギブ! ギブだって姉ちゃん! 死ぬから! ほんとに死ぬから! 姉ちゃんごめん! 謝る! 謝るから!


 そんな感じで姉弟仲良く戯れていると、あまりの騒がしさに起きてきた母親がキレて俺は一命を取り留めた。

 

 〇

 

 命からがら姉ちゃんから逃げ出し、学校に行く準備を整えた俺は、ひまりちゃんと一緒に登校していた。


「あの、ひまりちゃん」


「何ですか? 晴斗先輩♡」


「いや、何というか……」


 俺は改めて自らが置かれている状況を確認する。


 隣にいるひまりちゃんはにっこりと花が咲いたような笑みを浮かべ、俺の腕を抱きしめるようにして密着している。

 人目をはばからず「先輩♡ せんぱい♡」とべったり甘えてくるひまりちゃんと、甘えられている俺に、「何だアイツら朝っぱらから盛りやがって……」という不穏な視線が集中している。

 俺とひまりちゃんが通う高校――花白高校に近付くにつれ、制服を着た学生が増えていき、俺に向けられる視線の数も増える。色んな意味で落ち着かない。


「ここまでする必要ある?」


 ひまりちゃんだけに聞こえるよう抑えた声で言うと、「当たり前じゃないですか」とひまりちゃんが頬を膨らませた。


「村上先輩にひまりを諦めてもらうなら、誰の目にも恋人同士って思わせるくらいじゃないとダメです。やるなら徹底的にやりましょう。だからもちろん、このことはひまりと晴斗先輩だけの秘密ですよ?」


 芝居がかかったように人差し指を唇に当て、片目を閉じるひまりちゃん。実にあざとい。あざといが、やけに様になっている。ちなみに村上というのは、ひまりちゃんに言い寄っている男の名前だ。三年生らしい。たぶんロリコン。


「まぁ、確かにやるからにはちゃんとやるべきってのも分かるけど……。じゃあその口調もその一環なの?」


「そういうことですね、晴斗先輩」


 敬語口調で俺を先輩呼びするひまりちゃんは頷く。


「だって、こっちの方がもえるじゃないですか。今のひまりたちは、昔馴染みの兄妹みたいに仲睦まじい二人じゃなくて、初々しくて熱々の先輩後輩カップルです。分かりましたか? 晴斗せんぱい♡」


「分かりました」


「じゃあ、先輩もちゃんと彼氏らしく振舞ってくださいね?」


 ひまりちゃんが上目遣いで俺を見る。


「……」


 彼氏らしく……か。彼氏らしくって何だろう。恥ずかしながら、俺は『彼氏』という生き物の生態を知らない。中学生の頃に一度だけ、クラスメイトの女の子に告白され、周りの友人に乗せられて『彼氏』たる役目を負ったことがあるが、よく分からないままぼうっとしてたら、その一週間後に「なんか違う」と言われフラれた。なんか違うって何だよ……。君から告白してきたんじゃん……。いや俺も悪かったんだろうけどさ……。


 しかしながら、俺とてもう立派な高校二年生、あの頃より男女の恋人関係に対する知識は増えている。要するに相手の女の子が喜ぶことをすればいんだ。

 んで、女の子って何したら喜ぶの?


 とりあえず、何かを期待するように俺を見ているひまりちゃんのちょうどいい高さにある頭を撫でてみた。なでなで。少しねこっ毛感のあるやわらかい髪質。ふわふわしてる。素晴らしい手触りだ。ずっと撫でていたい。


 いいのか? これでいいのか?


 そう思って恐る恐るひまりちゃんの方を確認すると、ひまりちゃんがふいっと視線を逸らしてしまった。彼女が今どんな顔をしているか分からないが、心なし耳が赤い気がする。もしかして照れてるのか?


「ひまりちゃん照れてる?」


「照れてないから」


「ははーん、さては照れてるな? かわいいやつめ」


 そう言った瞬間、俺のおしりの辺りにひまりちゃんの膝蹴りが炸裂した。


「おぉぉ……」


 ケツを押さえて呻いていると、ひまりちゃんが少し上気した顔で俺をにらんだ。


「ハルくんのクセに調子乗らないで」


「はぃ……、すみません……」


 どうすりゃよかったんだ……。


 〇


 ひまりちゃんとイチャイチャしながら登校した。


 一年生のフロアは一階、二年生のフロアは三階なので、階段を上がるところでひまりちゃんとは別れて、俺は自分の教室に向かう。


 教室に入って窓際後ろの自席に座り一息吐いていると、隣で談笑していた小山さんと光希が話しかけてきた。


「河合くんおはよう」


「おはよう小山さん」


「晴斗おはよ」


「おう」


「晴斗なんか疲れてる?」


 光希が俺の顔を見て、小さく首を捻った。

 その仕草があまりにイケメン過ぎてムカついたので、俺は真面目くさった顔でこう言ってやる。


「実は女の子にモテ過ぎて困ってるんだ」


「……」


「…………」


 無言になる光希と小山さん。やべ、滑ったかも。恥ずか死にたい殺せ。


「……河合くんが?」


 思わずこぼれてしまったという口調で、小山さんが言った。

 小山さんに悪意はないと信じたい。


「それは……、大変だね」


 同情的に光希が言った。そこはかとなく実感がこもった物言いだった。コイツの場合、マジでモテ過ぎて困ってそうだからいつか殴り蹴り絞め上げ地獄に落とす。


「でも晴斗って彼女いなかったよね?」


「いや、いる」


 見栄を張った。それにあながち間違いでもない。ひまりちゃんも恋人のフリをやるなら徹底的にって言ってたし、だからここは俺がこう言ったとしても、何も問題ないのだ。そう、これはひまりちゃんの為なのだ。


「え、いるの? 誰? この前言ってた幼なじみのしおりちゃんって子?」


「いや、しおりではない」


「え、河合くん、それ騙されたりとかしてる訳じゃないよね?」


 小山さんが俺を真剣に心配するような顔で言った。ねぇ小山さん、本当に悪意はないんですよね? ね?


「そこらへんは大丈夫だから安心して小山さん」


 そもそも本当に付き合ってるという訳じゃないから騙されるも騙されないもない。


「そっか。でも河合くん、放課後はしおりちゃんとも二人で会ってるんでしょ? 彼女さん怒らないの?」


「それも大丈夫、全て了承済みだから」


 むしろしおりと二人でゆっくり話すために、ひまりちゃんのニセ彼氏という役割を引き受けたのだ。何も問題はない。


「それ、しおりちゃんは河合くんに彼女がいるって知ってるの?」


「いや、それは知らないと思うけど」


「うーん……」


 どことなく納得いってなさそうな小山さん。


 いやでも、どうせ偽物の恋人関係だし、例の村上先輩をひまりちゃんから追っ払えたらそこで終わる話だし、わざわざしおりに話して混乱させる必要は無いよな……?

 しおりからしても、俺とひまりちゃんが付き合ってるなんて聞かされても、困るだけだろう。


「そのしおりちゃんの様子は、今の所どんな感じ?」 


 光希が純粋に気になったというように、俺に尋ねた。


「順調だ。昨日はしおりの部屋でお喋りもしたし、もうすぐにでもしおりは学校への復帰を達成するだろう」


「そっか」


 ふっ、とやわらかく光希が笑った。


「もし、しおりちゃんが学校に来ようと思える日が来たら言ってね、僕も笑瑞も、できる限りサポートするつもりだから」


 「ね?」と光希が小山さんに視線を向けると、小山さんは朗らかに頷いた。


 このリア充美男美女カップルめ……。眩しすぎて目が潰れそう。


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