前髪の向こう
橘暮四
第1話
店の奥の時計を見やる。13時23分だ。もうそろそろ、予約のお客様が来るだろう。うちには初めて来るお客様だ。最近、このように新規のお客様が増えてきた。半年前に妻と始めたしがない美容院だけど、この頃ようやく仕事が軌道に乗り始めたのを感じる。
「こんにちは、予約していた者です」
そんなことをぼんやりと考えていると、そのお客様が来店した。俺は意識して笑顔を作る。
「いらっしゃいませ、お待ちしてました」
「すみません、早く来すぎたでしょうか?」
「そんなことはありません、先の一時間ほどは他のお客様もいらっしゃいませんでしたから」
すると彼は良かった、と呟いてふっと微笑んだ。背はすらっと高く、色白な肌とくっきりとした顔立ち。前髪で少し隠れた薄い目は、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた。学校で密かな人気がありそうだ、と思った。
俺は彼から手荷物や上着を預かり、代わりにアンケートを手渡す。生年月日や氏名の確認と、髪型についての悩み、よく読む雑誌を答えてもらってよりよいサービスに繋げるためだ。彼は手早く書き上げ、俺に返した。彼の名前は、何故か秋の美しい空をイメージさせた。秋に直結するような漢字も無いのに不思議だ。髪型については、癖毛のセットに悩んでいるらしい。よく読む雑誌の欄には、「ねこのきもち」と書かれていた。正直なのかひねくれているのかよく分からない回答だ。
俺は彼をカット用の席に案内し、カットの要望を尋ねた。
「髪が耳や首に掛かって鬱陶しいから、ある程度さっぱり切り揃えて下さい。だけど前髪は長いほうがいい。眉毛に掛かる程度にお願いします」
彼は澱みなく答えた。やはりこういうものは事前に考えておくものなのだろう。
俺はサイドから切り始める。それと同時に、何個か当たり障りのない質問をする。高校何年生?部活はやっているの?校則は厳しくない?など。高校生以下のお客様には、とりあえずタメ口で話すようにしている。彼は全ての質問に真摯に答えたけれど、前髪の奥で目を瞑り、あまり積極的に話そうとはしていなかった。確認のため、控えめに尋ねる。
「もしかして、あまり話しかけない方がいいかな?」
「そんなことはないです。店員さんと話すのも好きですが、目を瞑ってぼんやりと考え事をするのも同じくらい好きなだけです。」
「考え事をしてるんだ。」
「えぇ、ほとんどは下らない事ですが。」
耳の周りを切り揃えながら、ほとんどは、と心の中で反復してみる。
「ときどき大事な事を考えてるんだね」
「えぇ、まぁ」
「どんな事?」
少し迷ったけど、尋ねてみることにした。彼の話し方には、何故か惹かれる。すると彼は目を瞑ったまま微笑み、
「そりゃ、秘密ですよ。大事な事なんだから。」
と答えた。俺はそっか、と返し、カットに集中する。雑談の域を超えすぎたな、と反省しながら。サイドはいい感じになってきたな、と思っていると、
「例えば、小さい頃読んだ本の事ですよ。」
と彼がにわかに呟いた。一瞬なんの事か分からなかったが、俺の質問に答えてくれたのだと分かった。
「秘密じゃなかったの?」
「店員さん、知りたそうだったから。少しくらいだったら教えても問題はないですよ。映画のタイトルが内容のネタバレにならないみたいに。」
「なるほどね。それにしても、その小さい頃読んだ本が大事な事なんだ。」
大事な事、が何なのか具体的にはイメージしていなかったが、高校生にとって小さい頃読んだ本が大事な事だとは考えにくかった。
「当たり前ですよ。将来の進路とか、隣のクラスの可愛い子とかよりも、そっちの方がよほど大事だ。」
「よく分からないな。」
「だって、幼少期読む本はその人の人格形成に大きく影響しますから。それがベースなら、今の僕のあれこれはただの結果でしかない。」
少し割り切りすぎではないかとも思ったが、確かに説得力のある話だ。
ハサミを襟足へ移す。さっきから質問してばかりなので、自分の話もしようと思った。そうやって、どんどん彼の話を引き出したい。前髪に隠れた彼の瞳には、何が映っているのだろうか。
「俺は、小さい頃宮沢賢治をよく読んでいたな。銀河鉄道の夜みたいなポピュラーなやつだけじゃなくて、図書館にある話全部読み漁った。とにかく彼の独特の世界観に惹かれていたな」
すると彼は興味ありげに目を半分開いた。その表情は、少し猫に似ていた。
「それで、美容師さんはそれらに影響を受けましたか?」
「そりゃまぁ、多少影響は受けただろうね。もしかしたら人に比べて電信柱を見上げる回数が多いのかもしれない。でもその程度だね。」
「そうですよね。もしも彼の物語の理想をそのまま人生観に取り入れてる人なんていたら、そんなもの悲劇でしかない。」
「どうして?」
「宮沢賢治の理想、というか優しさっいうのは概念上の存在でしかないからです。それを追いかけるのは、遠い星を想っているのと変わりません。」
「星は概念だけじゃない。実在しているよ。」
「今地球に降っている星の光は、過去に出た光でしょう?星によっては何万年と前の。だから、今でも星が実在しているなんて確証はありません。そんな曖昧なもの、概念でしかないですよ。」
とても難しいことを言う。俺は襟足も切り揃え、サイドと襟足を鏡で映す。いかがですか?と訊くと、とてもいいです、と返ってきた。
ついに前髪にハサミを入れる。どれだけ慣れてもやはり緊張する。また目を瞑る彼に、俺は意地の悪い笑みを浮かべる。
「さぁ、俺が小さい頃読んだ本を言ったんだから、君も言ってほしいな。」
「ずいぶん強引ですね。」
彼はそう苦笑するが、別に満更でもなさそうだ。なんとなくだけど、彼はそれを話したがっているようだったのだ。
「いいですよ。話します。とても印象に残っているお話がひとつあるんですが、題名は忘れてしまいました。いいですか?」
俺はもちろん、と答える。彼の繊細な部分に触れるように、前髪も慎重に切っていく。
「むかしむかし、丘の上におじいさんが住んでいました。おばあさんを数年前に亡くし、彼自身も腰が悪くなり家から出られません。ですが、おばあさんと長年暮らした丘の上の家を離れるつもりもありませんでした。そんな可哀想なおじいさんの助けとなったのが、一匹の犬でした。その犬はたいそうおじいさん想いで、おじいさんの代わりに、よく財布を咥えて丘の下の城下町へお使いに行っていました。城下町の人々もその犬を可愛がり、パンをおまけしたりしていました。そうやって犬と寄り添って暮らしていたおじいさんには、ひとつ大切な宝物がありました。それは、昔おばあさんに送ったダイヤモンドの指輪です。おばあさんが亡くなってから、おじいさんは毎日のようにそれを見つめてはおばあさんのことを思い出していました。ある日のことです、強欲で有名なお妃様が、王国にある全てのダイヤモンドを私の元へ集めよと命令しました。おじいさんのダイヤモンドの指輪ももちろん回収されてしまいました。それからというもの、おじいさんは毎夜毎夜泣き続け、やせ細っていきました。見るに見兼ねたおじいさん想いの犬は、単身城に乗り込み、なんとおじいさんの指輪を取り返すことに成功しました。しかしお妃様が黙っているはずがありません。お妃様は従順な狼を放ち、犬に大怪我を負わせたのです。ぼろぼろになった犬がどうにか丘の上の家に帰ったときには、おじいさんは神経衰弱しベッドに横たわっていました。犬は駆け寄り、必死で守った指輪をおじいさんに渡しました。おじいさんはふっと微笑み、犬を抱き寄せました。静かな星の夜、2人は同時に息を引き取りました。」
彼はハスキーな声で、ストーリーテラーを務めあげた。俺は思わず顔をしかめる。
「ずいぶん酷い話だ。」
「それは犬に肩入れしすぎですよ。」
「だって主人公は犬でしょ。」
「狼の人生は狼のものだ。」
俺は答え方が分からず、無言で前髪を切り続けた。切り終えるとシャンプー台へ彼を案内し、彼の顔に乾いたタオルを乗せた。そしてさっぱりした彼の髪を洗っていく。なんだか気まずいような気がして、無理に明るい口調で話す。
「そういえば、結局全部話させちゃったね。ごめんね、秘密にしていたのに。」
すると、彼は声になっていないような声を出した。中途半端に口を開けている。タオルで隠れている彼の目を見てみたいと思った。
「物語の本質は、あらすじじゃないですよ。僕が秘密にしているのは、それをどう感じ、どう思ってるかです。」
シャワーを止めて彼の顔からタオルを取り除くと、彼はゆっくりと目を開いた。初めて彼の瞳がはっきりと見えた。その瞳は深い夜の湖のように、何も映してはいなかった。もう、彼の秘密も言葉も引き出したいとは思わなかった。
ドライヤーをかけ終わり、ワックスを付けると全てのメニューが終わった。手荷物や上着を返し、代金を受け取る。彼がドアに手を掛けた時、にわかに彼が振り返った。
「ありがとうございました、理想通りの髪型になりました。また来ますよ。」
と笑った。作った笑顔を浮かべて、お待ちしております、と言おうとしたところ、
「あぁ、ひとつ謝らないといけません。さっきの物語、全て即興で考えた作り話です。」
と彼は言い、また笑った。さっきよりは幼い笑いに見えた。俺もつられて、
「俺も謝らないといけない。実はこの店なかなか軌道に乗らなくて、君の髪が伸びてくる頃には潰れているかもしれない。」
と笑った。自然に出た笑いだった。彼は、それは残念だと呟き、去っていった。きっと彼には全てお見通しなのだろう。
前髪の向こう 橘暮四 @hosai
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