第94話 幕間③

 これは晩餐会が終わった後——ベレトを迎えに来た馬車の中でのこと。


「今晩は本当に悦ばしいお時間となりましたね」

「あ、あはは……。おかげさまでね。って、誰かからそれ聞いたの?」

「距離感や雰囲気でお察しました」

「さすがシアだなぁ……」

 誰よりも目の前の人物を慕っている自信のあるシアは、ニッコリと微笑みを返す。


(よい方向にお進みできて、私もホッとしております……)

『婚約』をしているわけではないため、これからもいろいろな貴族からのアプローチをされるはずのエレナとルーナだが、あの二人がそう簡単に靡くはずがない。

 二人がどれだけ主人のことを思っているのか、その気持ちは十分知っているのだから。

 そして『ベレト以上に素敵な男性はいない!』というのは、シアが心から信じていることでもある。


「あの、ベレト様……」

「どうしたの? 改まって」

「ルクレール家にご宿泊されずでよかったのですか? 私のことを気遣っておりませんか? 一人で帰られるのは……と」

 他の貴族に仕えていたのなら、こんなことを言う機会もなかっただろう。

 自惚れたことを伝えているのは承知していて、ご主人が相手だからこう言うのだ。


「え? なにその宿泊って」

「主催側のエレナ様から、そのような空気を感じておりましたので」

「そ、そうだったの!?」

「はい。お間違いないかと……」

 ご主人らしいです。なんて気持ちを含めて思うことは一つ。

(もしお泊まりをされていたのなら、きっとお身体を重ねられていたことでしょう……。本日は大変貴重な記念日なのですから……)

 慕っている主人が恋人と特別なことをする。

 それは心に余裕のあるシアでもモヤッとすることだが、こればかりは割り切るしかない。

 幸せを邪魔するような存在になるわけにはいかないのだから。


「ま、まあお泊まりするのはさすがに迷惑だから、どのみち断ってたよ。これは気遣うとかそんなのを抜きにして、シアを一人で帰すのは心配だし」

「……あ、ありがとうございます」

(本当にお優しいベレト様です……。自惚れた発言が当たっているのですから……)

 お慕いしている相手と二人きりの空間で、こんなに嬉しいことを言われるのは本当に困る……。

 なにをしても笑って許してくれる。そんなご主人だと知ってしまっているからこそ、どうしても自制が緩くなってしまう。

 立場上は絶対に控えなければならないことをしてしまう……。


「ベレト様……本当に申し訳ございません」

「へ?」

 ご主人の頓狂な声を聞くシアは、ゴツゴツした男性らしい手を、自らの両手を伸ばして包み込むのだ。

 手のひらに伝わるあたたかい温度は、心臓をドキドキと跳ねさせてしまうもの……


「あの、わ、私には一つだけ心配ごとがございます……」

「心配ごと……?」

「ベ、ベレト様は私とのご将来、、についてお話を……覚えていますでしょうか」

 まだ決定したわけではないが、学園を卒業してからも専属としてお側にいられること。

 ——この先もずっと一緒にお過ごしできること。


「もちろんそれは覚えてるよ。って、さすがに忘れないよ」

 優しいご主人だから、嫌な顔をせずに言ってくれる。

 でも。

(エレナ様にルーナ様。本当に魅力的な方をご恋人にされたからこそ——)

「——私とそのようなお約束をされたこと、ご後悔されておりませんか……?」

「ちょっと待って。え……? もしかしてそれが心配ごと?」

「は、はい」

 敬愛している相手だからこそ、自分がお荷物になるようなことはしたくないのだ。

 もしご主人にその気持ちが一ミリでもあるのなら——。


「——っっ!?」

 途端のことだった。

 頬を摘まれる感覚が襲ってきた。

 視線を横に向ければ、それは包んでいる手とは逆のご主人のお手があった。


「その言い分はつまり、この約束を結んだことをシアが後悔してて、なんとか白紙に戻そうと俺を誘導しようとしてるってことかな?」

「っ!! そ、そのような後悔を私がするはずが……!!」

 思わずムキになって顔を合わせれば、ご主人は優しい眼差しを向けていた


「そうでしょ? それと同じこと。俺だって本気でそう思っているんだから、そんなこと言われたら嫌な気持ちになるよ」

「も、申し訳ありませんでした……」

 冷静になれば、わかることだったのかもしれない。

 しかし、不安な気持ちが安心できる言葉を聞きたがってしまったのだ。


「まったくもー……」

 呆れたようなご主人の声に顔を合わせられなくなってしまう。

 包み込んでいた手を離して、目を伏せる結果になってしまう。

 情けない気持ちに包まれ、思わず口を閉ざしてしまう。


「……」

「……」

 反省した気持ちが相手にも伝わったのだろう、ご主人も口を開かない。

 この無言の時間はいつまで続いただろうか。


「ごめんね、シア。いろいろと不安にさせちゃって」

「……えっ」

 静寂を破ったのはご主人で、その声が聞こえたのは耳元。


「ど、どうしてお謝罪を……」

 と、上目遣いで顔を上げた瞬間だった。

「……ぁ……」

 大好きな匂いが鼻腔をくすぐった。動きが取れなくなった。

 両腕を包み込むように、馬車の中で優しく抱き締められるシアがいた。


「あ、え、うぅ……ぁ、ベ、べべべベレト様……」

「ねえシア」

 コクコク。

 頭が真っ白になって言葉が出てこない。今できることで返事をする。


「あ、あのさ? あの、その……シアがよかったらだけど、さっきの約束……正式なものにしてもらう?」

「っっ!?」

 珍しく声を震わせて言うご主人。

「正式になったらもう白紙には戻せないかもだけど……それでもいいのなら、俺はそう動かせてもらうよ」

「……」

 ——恋人を作ったことで、この条件ではずっと不安にさせてしまうと考えたからだろう。

 ——これが一番安心できる策だと考えたからだろう。

 勇気を出してこう言ってくれたのは、全部シアのことを想って。


「シア?」

「は、はい。お願い……いたします……」

 エレナとルーナ、二人と同じところに立てたと思えた瞬間に涙腺がぶわっと緩む。

 ……その止まらぬ涙をご主人の大事な衣装につけてしまったシア。


 侍女としてのあるまじき失態と、幸せな気持ち。その両方を包んでくれるように、気持ちが落ち着くまで抱き締めてくれたご主人だった。

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