第6話 〜ヒカルの場合〜
〜ヒカルの場合〜
ずいぶん遅くなってしまった。
俺は珍しく仕事が遅くまでかかり、すっかり日付が変わってしまった。
その中の依頼の1つに、居抜き店舗を譲り受けたが、なかなか売却できず、今日は一旦、持ち帰ることにした。
仕事が増えるのは、利益になってありがたいことだ。
しかし今日は、1人では流石にこなしていくには手が足りなかったな。
臨時で誰かに手伝って貰えばよかったと、今更後悔だ。
今日はカフェにも行けずじまいだった。
オフィスのあるビルを出ると、雨がしとしと降り出していた。
天気予報が当たったな。
そういうと、俺はカバンから折りたたみ傘を出す。
しとしとと降る雨は、空気が冷たかった。
「ん?」
いつものカフェを通り過ぎ、歩いて家路に向かうのだが、カフェの入り口の前にうずくまる人影が見えた。
俺に気づいたようで、顔をあげてこっちを見てきた。
「ヒカル?」
俺は慌てて近づき、傘をさしてあげた。
「どうしたんだこんなところで、カフェはもう閉まってるぞ。」
ヒカルは、捨て犬のような侘しい表情で、ずっとこっちをみていた。
「カフェの店長には、俺は今日は来れないと伝えたんだが、閉まった後に来たのか?」
「ううん…」
俺は着ていたジャケットをヒカルに着せた。
「とりあえず、ウチに来い。」
ゆっくりと立ち上がらせ、肩を抱き歩き出した。
家に着くとヒカルを風呂に入れることにした。
「体、冷えてるから湯に浸かれ。今準備するから、ここで待ってな。」
リビングのソファに座らせようとしたが、ヒカルは座ろうとしなかった。
「濡れちゃう…」
服が雨ですっかり濡れていたので、ヒカルは気にして座らなかった。
「気にするな、濡れても拭けばいい。」そう言うと遠慮気味に座った。
俺はタオルを持ってきて肩と脚にかけ、風呂の準備をしに浴室へ向かう。
ヒカルのことをずいぶん前から知っている。
初めての出会いはこうだ。
ある日、カフェのいつもの席に行くと、ヒカルがテーブルに突っ伏して座っていた。
仕方なく隣の席に座ると、ヒカルはこちらに気づき振り向いた。
ジッと見てくるので俺は話しかけた。
「学生かい?」
まさか優しく話しかけてくるとは思わなかったので、ヒカルは驚いた様な表情をしたが、コクリと頷いた。
「けど、行ってない…」
「ふむ。そういうこともあるな。今は何してるの?」
ずっと見てくるので仕方なく話しかける。
「仕事探してる。働かないと学校いけない…」
「ふむ、俺は…」
俺はヒカルが怪しまない様に自己紹介をし、いつでもここに来れば、俺がいるからと話し名刺を渡した。
「たわいもないことでも話せば気が楽になるだろ。」
ウェイターがコーヒーを持ってきたので、ヒカルに今何が飲みたい?と聞いた。
ヒカルのテーブルには水しかなかった。
「カフェモカ…飲んでみたい」
それを一つ。とウェイターに言った。しばらくするとカフェモカが運ばれ、ヒカルの前に置かれた。
生クリームがトッピングされていたその可愛らしい飲み物を、目を丸くして見ていた。
「初めてかい?」
「うん」
一口クリームを頬張るとヒカルの顔に笑みが広がった。
「ゆっくり飲みな」
俺はスマホを取り出し、あるところに連絡をした。
しばらくすると返事が来たので、それをヒカルに伝えてみた。
「俺の知り合いに、店やってる人がいて、ヒカルそこでウエイトレスやってみないか?」
返事は良く、次の日から働くことになった。
しかし、しばらくして、
「彼女、仕事来ないんだが、どうするかね」
「ふむ…」
彼女がその日の夕方カフェにやって来た。
「人が…怖い。」
彼女は目に一杯涙を溜めて静々と言った。
「そうか。」
「夜働きたい。そしたら学校にも行ける。」
「わかった。」
俺は優しく、なんてことないよと言って微笑んだ。
彼女も、安心した様に少し微笑んだ。
朝は学校に行き、終わるとパン屋の仕込みの仕事に行く。
小さい店だが、家族経営なので、ヒカルもだんだん暖かく受け入れてくれる店の家族に、心を開いていった。
生まれた時から独り身で、すさんだ施設で育ち、人を信じることなどせずに生きて来たが、そんな彼女も人の温かみを知った。
それから3年が経ち、ヒカルは自分の店を持てるほどに、腕に技術を身につけ、資金も溜まった。
久しぶりに連絡があり、店をもうすぐ出せると喜んでいたのに、一体どうしたのか。
「ヒカル、準備できたよ。服は乾燥かけとくから、代わりに、俺の部屋着ですまないが。」
俺はTシャツとスエットのズボンを脱衣所のところに準備しておいた。
ヒカルの肩を支えながら風呂場のドアを開け、
「じゃあ俺は出るから、ゆっくり温まるんだぞ」
リビングに戻ろうとした俺の腕をヒカルは掴んだ。
「ん?」
「力、出ない。1人で入れない…」
「いや、それは…」
どうしようもなく立ち尽くしていると、すがる様に見てくるヒカルの目が悲しかった。
するすると俺のジャケットを脱がしはじめる。
「ヒカル…」
細く震えた体を、力ずくで抵抗すれば壊れそうで、無碍に突き放すこともできず、ジッと立ち尽くすしかなかった。仕方なく共に入ることにした。
「ヒカル、早く湯に入れ。」
「うん…」
「背中合わせでいてあげるから」
湯船の中で、ヒカルは静かに両膝を抱え、俺の背中に少しもたれかかる。
風呂から上がり、ヒカルをリビングのソファに座らせ、俺はキッチンでココアを入れた。
「ほら、これ飲みな。甘くしといたから。」
「うん。」
暖まり落ち着いたのか、さっきよりはやわらかい表情をしていた。
「今日、俺に話したいことがあったんだな」
俺はウイスキーをグラスに注いだ。
元々あまり口かずは少ないが、うつむくヒカルを見て、やはり今は話す感じではなさそうだなと思った。
客室にヒカルを連れて行き、今日は休む様に言った。
俺はソファに座り、ウイスキーを飲みながらヒカルが元いたパン屋の店長に連絡を入れた。
ドアが開く音がしたので振り向くと、ヒカルがドア越しにこちらを見ていた。
「どうしたヒカル?」
俺は立ち上がろうとしたが、ヒカルは素早く俺のところに近づき、追い被さって押し倒して来た。
そのまま俺のシャツのボタンを外し、首筋に自分の唇を這わして来た。
「どうしたヒカル…何してる…」
ヒカルの肩をつかみ体から引き離す。
しばらく俺を見つめてくるヒカル。
「礼のつもりならこんなことしなくていい。」
「……」
「それとも、したいのか?」
冷静にゆっくりとした口調でヒカルに問いかけると、目線を一瞬逸らし、また俺を見つめてきた。
ヒカルの、俺の服を掴む力が、ゆっくりと抜けていく。
「私を利用して、私の全財産を持って彼がいなくなった…終わった、全部なくなった」
専門学校の同級生だった男、そして初めての彼だった。人を信じてもいいと思っていたのに。
「彼のこと、一番好きだった?」
不意に聞いた。
「2番目…」
彼女は俺に跨ったまま、俺の胸に額をつけ、
あなたが一番好き。初めて信じた人だから。
「そうか。」
俺は、ヒカルを包み込む様に抱きしめた。
今日は、これくらいまでならしてもいいと思った。
人の温かみは、どんな人にも必要だ。
必要としてる人に、当たり前のことができる時は、短い時間であれ、してあげたい。
俺にできることであれば。
それから俺は、カフェには毎日行く様になった。
たわいもない話をしに、誰かが必ず来るのだから。
パン屋の店長から返信が来ていた。また働いてもいいとのことだった。
あとは時間が許せば、俺のところでも、助手として働いてもらおう。
落ち着けば、今日の居抜き店舗はヒカルに譲ることにしよう。
完
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