第9話

 今日は、叶内大成くんと、叶内心善かのうちしんぜんさんを夢世界に案内する日だ。それなのに、どうして二度寝なんかしてしまったのだろう。浜野は、昨日、夜遅くに寝たことを後悔しながら、大急ぎで家を飛び出した。


 無我夢中で走り続け、自宅近くの最寄り駅にたどり着く。僕は一旦、立ち止まって乱れた呼吸を整えると、すぐさま改札へと繋がる階段を駆け上った。そうして、途中駅で別の電車に乗り換え、揺られ続けること約20分。到着したのは、個人商店がのきを連ねる郊外のまちだった。


 今回、叶内さん夫妻から、待ち合わせ場所として指定された建物は、駅から少し離れたところにある。そこは、快暮かいぐれ市民センターという名前で、市民の健康と暮らしの質の向上を目的に様々な講座を開催している地域コミュニティの拠点として、地元の人々から広く認知されているらしい。


 僕は、駅構内に設置されていた地図案内板を見つけ、快暮かいぐれ市民センターの正確な位置を把握した。駅から歩いていける距離だとはいえあまり時間がない。僕は、周りの人に迷惑がかからない程度のスピードで、駅の出口へ続く階段を下った。


 澄んだ空気を吸い込み、辺りを見渡す。歩道には花壇が並び、道行く人は皆、生き生きとしている。この地域の人々が元気なのは、快暮かいぐれ市民センターが市民の需要に応えた講座を定期的に開いているからなのかもしれない。僕は、個人商店が密集した商店街を素早く通り抜け、快暮かいぐれ市民センターまでの道を急いだ。


 それまで、絶えず動いていた浜野の両足が止まる。僕の視界には、快暮かいぐれ市民センターと書かれた建物が建っていた。袖をまくって、腕時計が示す現在の時刻を確認する。幸い、叶内大成くんや、叶内心善かのうちしんぜんさんとの待ち合わせ時間は過ぎていない。


 センター内に入ると、人々の話し声が重なり合うようにして耳に入り込んできた。会話をしているのは、市民センターで働く職員さんたち、大学生グループ、高齢者団体と多種多様だ。僕は彼らの横を通りすぎて、快暮かいぐれ市民センター1階の奥にある談話室に入室した。


 室内を見渡し、叶内心善かのうちしんぜんたちの姿を探す。叶内さん父子は、和やかな雰囲気に包まれた談話室の片隅に並んで座っていた。ゆっくりと近づき、声をかける。


「こんにちは、ゲート・ナビゲーターの浜野です。叶内心善さんでよろしいでしょうか?」


 叶内大成くんの隣に座る男性が顔を上げて、ニッコリとほほ笑む。


「はい、私が叶内心善かのうちしんぜんです。本日はよろしくお願いします」

「よろしくお願いします」


 お互いに挨拶を行い、握手を交わす。浜野が確認した腕時計は、叶内さん父子との待ち合わせ時間ちょうどを指し示していた。


「時間になりましたので、夢世界への案内を始めたいと思います。お2人とも準備はお済みでしょうか?」

「私は大丈夫ですが、少しお待ちください。息子に準備は出来ているか聞いてみます」


 叶内心善かのうちしんぜんさんは、大成くんに顔を向けて優しく問いかけた。


「大成くん。これから、ゲート・ナビゲーターの方と夢の世界に行くんだけど、心の準備は出来ているかい?」

「うん、できてるよ」


 大成くんが、小さく頷く。叶内心善さんは、大成くんの返事を聞いて浜野がいる方向に向き直った。


「浜野さん、お待たせしました。夢世界に行く準備は整っています」

「分かりました。では、ゲートまで案内しますので、僕の後についてきてください」


 浜野が歩行速度を落とし、叶内さん父子の前を歩いてゲートを目指す。これは、叶内心善さんたちが安心して、後進するための気遣いである同時に、通行人の邪魔にならないようにという浜野なりの配慮でもあった。


 目的地のゲートに着き、電源を立ち上げる。そうしてから、異世界旅行の場所を夢世界に指定した僕は、叶内さん父子がいる後方を振り返った。


「叶内心善さん、夢世界で守ってほしいルールが1つだけあります」

「どんなことでしょうか?」

「夢世界にいる間、どんなことがあっても大成くんに干渉しないでほしいんです」

「忘れることが無いよう、しっかりと心に留めておきます」


 叶内心善さんとの会話が終わって前を向く。ゲートは既に開いていた。早くしなければ、ゲートが閉まってしまう。僕は、叶内さん父子をゲートの中に誘導した後、飛び込むようにゲートに入った。


 ゲートを通過し、叶内大成くんの脳が作りだす夢世界に足を踏み入れる。しかし、近くに佇む叶内さん父子以外は何も見えない。どこまでも広がる明るい光と、空気中にただよう自然の香り。それらだけが、この世界を構成していた。


「ここが、息子の頭の中なんですね」

「はい、ご認識の通りです」


 叶内心善さんがはるか遠くに目を向けたまま、率直な感想を口にする。


「空と大地が一体化している、不思議な光景を見ている気がします。浜野さんも、そうは思いませんか?」

「僕も、叶内心善さんと同じように感じていました」


 現実世界には、確かに存在する空と大地の境目。その境界線が、ここではどこにも見当たらない。したがって、叶内大成くんの形成する夢世界においては、どこからが地面で、どこからが空なのか全く分からなかった。


 遠方から目を逸らし、叶内さん父子のいる方向へ視線を動かす。すると、叶内大成くんが、僕に何か言いたそうにしていることを感じ取った。


「大成くん、どうしたの?」

「ぼく、見えるってことがわかった気がする」

「良かったね。じゃあ、それをお父さんに話すことはできる?」

「うん!」


 叶内大成くんが満面の笑みを見せ、叶内心善さんの元に歩いていく。その足取りは、何か楽しいことが起こると確信している人のように軽く感じられた。


「大成くん。それじゃ、匂いの塊を作ってもらいたいんだけどできるかな?」

「ちょっと待ってね」


 叶内心善さんからのお願いに応えるため、大成くんが、顔に両手を近づけた。意識を視覚以外の感覚に集中するためだろうか。大成くんが、両目をゆっくりと閉じていくのが分かった。


 そうして、少しばかりの時間が経った頃。僕は、空気の流れが変化したことを、自分の肌で感じ取った。空気中を漂っていた匂いの成分が、叶内大成くんの元に集まっているのかもしれない。


 僕と叶内心善さんが、じっと様子を見守る。そんな中、匂いの塊を完成させたらしい大成くんが両目を開けた。


 顔を上げ、徐々に両手を遠ざけていく。大成くんの表情から察するに、おそらく成功したのだろう。けれども、それは現段階において推測でしかない。そのため、叶内心善さんは、匂いの塊ができたのかどうか、大成くんに聞いて確かめる必要があった。


「大成くん、匂いの塊はできた?」

「うん、ここを嗅いでみて」


 大成くんが指差した空間に、叶内心善さんが鼻を近づける。


「ホントだ。成功できて良かったね」

「うん!」

「じゃあ、私が『いいよ』って言ったら、匂いの塊をお父さんに向かって、投げてもらえるかな?」

「わかった」


 大成くんの返事を聞いた叶内心善さんが、背中を向けて歩き出す。そして、5秒と経たないうちに、大成くんのいる方向を振り返った叶内心善さんが、


「いいよ!」


 と、やや大きな声を発した。大成くんが、叶内心善さんの言葉をきっかけに、匂いの塊を投げる動作を行った。しかし、何も起こらない。


「どうしたの?」


 と呼びかける叶内心善さんに対して、大成くんが申し訳なさそうな顔をしながら、口を開いた。


「投げられないの……」

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