第8話
そして、叶内ひとみさんはゆっくりと肩の力を抜いて、大成くんを異世界旅行に連れていきたい理由について、簡単に話し始めた。
「私の息子である大成は、生まれつき目が全く見えないんです。だから、怪我のないよう、いつも家の中で遊ばせることしか出来なくて……。それでも、家では出来ない遊びを、1度でいいから外でさせてあげたいという気持ちは、ずっと私の心の中にありました」
普通の子どもならば誰だって経験する外遊び。それをしたくないという理由からではなく、したくても出来ないという理由でやったことがない大成くんは、外遊びをどのようなものだと認識しているのだろう。
「そのため、何か良い方法はないものかと懸命に探していたところ、ゲート・ナビゲーターという存在を知りました。その時に、異世界旅行先として夢世界があることも分かったんです。夢の中なら、現実世界では叶いそうにない外遊びをさせてあげられるかもしれない。それが大成くんを夢世界に連れて行ってあげたい理由です」
確かに夢世界であれば、現実世界で出来なかったことでもできるようになる。だが、全盲のお客さんを異世界へ案内したことは、これまでに1度もない。したがって、夢世界旅行に大成くんを連れていくとなった場合に、どんな事態が想定されるのか見当もつかない浜野は、さらに質問を行うことにした。
「夢世界で、どんな外遊びを大成くんにさせてあげたいですか?」
「私はキャッチボールをさせてあげたいです」
「キャッチボールですか……」
僕は考え込んだ。動体視力が必要な遊びを全盲の大成くんにさせてあげるのは、いくら夢世界でも難しいのではないだろうか。
「厳しいでしょうか?」
不安な顔をして尋ねる、叶内ひとみさんの声のトーンは明らかに下がっていた。
「はい、厳しいと思います。夢世界において視覚的な夢を見られるのは、過去に目が見えていた方と、現在も目が見えている方だけです。残念ながら、大成くんはどちらにも当てはまりません。それに加えて、どのようにして、ボールの立体的な形を視覚的情報なしで大成くんに正確に伝えるのかという問題もあります」
「私は、言葉や触感だけで、大成くんに、ボールの形を正しく認識させてあげられる自信が全くないです。キャッチボールはあきらめた方が良いんでしょうか」
叶内ひとみさんは、すっかり落ち込んでいる。ゲート・ナビゲーターとして、自分が力になることで、大成くんに、夢世界でキャッチボールをさせてあげたい。そうは思うものの、それが無理であることは浜野自身、よく分かっていた。夢世界は、人間の脳が作り出す世界だが、そこで形成される物が、夢を見る人の想像力を超えることはないからである。それゆえ、叶内ひとみさんにはキャッチボールを諦めるように伝えた後、代わりに別の提案を行った。
「夢の中で、匂いの塊を投げ合うというのはどうでしょう」
「匂いの塊を投げ合う?」
叶内ひとみさんは、浜野が言っていることの意味をすぐには理解できなかった。
「つまり、夢世界で匂いの元となる気体を出して、それを塊にするということを大成くんにしてもらいたいんです。もちろん、匂いの塊を綺麗な形にしようとする必要は全くありません」
「それなら、できるかもしれません。でも、まずは聞いてみないと」
叶内ひとみさんは、大成くんに呼びかけ、質問を投げかけた。
「大成くん。大成くんは、匂いが強かったり、弱かったりっていうのを、ここで感じたことはある?」
叶内ひとみさんが、大成くんの鼻に指先で優しく触れる。
「ぼくはあるよ!お母さんがね、料理を作りだすと、今日は何かなーってときに」
「そうなんだ。じゃあ、閉じこもっていた匂いが広がるのは分かるかな?」
「うん、なんとなくだけど分かるよ」
僕は、大成くんの言いたいことが理解できる気がした。匂いは、鍋のふたを持ち上げた時や、液体せっけんの詰め替え用袋を開けた時などに一気に広がる。大成くんが、なんとなくという言葉を使ったのは、嗅覚で感じたことはあるものの、それを上手く自分の言葉で表現できなかったからだと思う。
「大成くん、答えてくれてありがとう。最後にもう1つだけ聞くね」
「なあに?」
「大成くんには、異世界旅行で行く夢世界の中で、好きな匂いを出してもらって、それを空気中で1つの塊にしてほしんだけど、出来そう?」
「うーん。分かんないけど、がんばってみる」
大成くんがそう答え、自然な笑顔を浮かべる。叶内ひとみさんは、大成くんに全ての質問を聞き終えたことを告げてから、浜野の方へ視線を戻した。
「出来るかどうかは分からないけど、挑戦してみるそうです」
キャッチボールの代わりに匂いの塊を投げ合う。そのために必要な匂いの元の生成を、夢世界の中で、大成くんが試みることになった。しかし、匂いの元の生成が成功したとして、誰が大成くんと一緒に、夢世界で匂いの塊を投げ合うのか。僕は、この疑問を解消するため、叶内ひとみさんに問いかけた。
「仮に匂いの生成ができた場合、夢世界の中で、大成くんと一緒に遊ぶ相手は、どなたになるのでしょうか?」
「私の夫であり、大成くんの父親でもある
「
浜野は手帳を取り出し、中身を開く。既に幾つかの曜日には、他のお客さんとの予定が書き記されていた。
「では、夢世界に叶内大成くんと
「夫の休日が土日なので、今週か来週の土曜日が良いです」
僕は、再度、手帳に目を通した。今週の土曜日は空いていない。
「そうしましたら、来週の土曜日でよろしいですか?」
「はい、来週の土曜日でお願いします」
叶内ひとみさんからの返答を受けて、僕は、来週の土曜日の欄にペンで予定を入れた。予定を紙の手帳に書くという行為は、僕が自分から始めたことではない。それにも関わらず、今では、完全に習慣として定着している。僕は、携帯よりも紙の手帳に予定を書く方が、お客さんに誠実さが伝わるからという理由で、助言をくれた上司の清水さんに心から感謝をしていた。
叶内ひとみさんとのお話が終わり、コーヒーカップに口をつける。半分ほど残っていたカプチーノは既に冷めていた。空になったコーヒーカップを、テーブルに静かに戻す。そうしてから、視線を前に向けると、僕は、叶内ひとみさんにお礼を言われた。
「今日は、大成くんのために、お話を聞いてくれてありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。来週の土曜日に、叶内大成くんと
叶内ひとみさんが椅子から立ち上がり、お辞儀をする。そのため、僕もそれに応じるかたちで直立した後、頭を下げた。そうして、叶内ひとみさんは、大成くんの手を引くと、そのまま珈琲店の外へ出た。
テーブルの反対側には、カフェラテの入ったコーヒーカップと、溶けかけた氷で満たされたグラスが置かれている。僕はテーブル席に1人座って、現実にはない喫茶店に祖父母を連れて行き、そこで楽しく会話をした夢のことを思い出していた。
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