第3話

 橋本進さんと約束した日曜日は、天気予報とは裏腹によく晴れていた。これなら、雨の心配はしなくても良さそうだ。浜野は、総合病院の1階にある3人掛けソファーの1つに腰掛けた。橋本進さんとは、ここで待ち合わせることになっている。僕は、橋本進さんが現れるまで今日行う異世界旅行の予定を、もう一度おさらいすることにした。 


 橋本進さんが、看護師さんに支えられる形でエレベーターから降りる。すると、僕を発見した橋本進さんは、嬉しそうに手を振りながら、ゆっくりと近づいてきた。僕は、にこやかな表情を浮かべると、静かに手を振り返した。目の前までやってきた橋本進さんは、病衣ではなく私服を着ている。そのせいか、今日は身体のラインが細く、そして、くっきりと強調されていた。


 僕は、橋本進さんを外に連れ出した。これから、ゲートのある、やすらぎ広場に向かうつもりだが、橋本進さんの体調は大丈夫だろうか。それとなく本人に訊いてみる。


「昨晩はよく眠れましたか?」

「はい、よく寝ることができました。と言いたいところですが、胃痛のせいでやや寝不足です」

「まだ痛みますか?」

「いえ、もう治まっています」


 そう返す橋本進さんは、穏やかな顔をしていた。僕は、それを見て少しだけ安心した。


 やすらぎ広場に着くと、中にいる人々の姿が見えた。誰もが、思い思いの時間を過ごしている。僕たちは、彼らの横を通り過ぎるようにして、ゲートがある場所を目指した。

 

 ゲートのところまで到着する。ここからは、ゲート・ナビゲーターである僕の出番だ。僕は普段通りに、ゲートの電源を入れて、行き先を設定。その後、開かれたゲートの下を橋本進さんと共にかいくぐるようにして、黄泉よみの国に移動した。


「どうです、黄泉の国は?」

「なんと表現したらいいんでしょうか。まるで、魂のためのテーマパークに来た気分です」


 そう話す僕たちの前には、生者には想像もつかないほどの光景が広がっていた。穢れた手で食べ物を口に運ぶ男性や、身体の周りを浮遊する現世の記憶の塊を消している女性などは、黄泉よみの国を構成するその一部にしか過ぎない。


「それでは、今から橋本様には好きなだけ、ここでの時間を過ごしてもらいます。ただ、守って欲しいルールもあるんです」

「何でしょうか?」


 不安そうな声色で橋本進さんが問いかける。


「まず、黄泉の国では、死者と会話しないでください。そして、黄泉の国の食べ物を食べることも禁止です。これらのことを行うと、生きた人でもこの国の住人になってしまいます」

「分かりました」


 そう言うと、橋本進さんは、決して速くはない速度で歩き始めた。すぐに追いついて、横に並んで歩くことを提案したが断られた。誰にも邪魔されることなく、思う存分、この世界を楽しみたいということだった。


 そのため、僕は橋本進さんの数メートル後ろまで下がった。数えきれないくらいの死者が暮らす場所で、生者2人の足音が小さく響く。今、この瞬間、橋本進さんは何を考え、誰を想っているのか。気になりはしたけど、聞くことはしなかった。誰しも、胸に秘めておきたいことの1つや2つはあるからだ。


 黄泉よみの国は、広いところに多くの人間が暮らすという意味で、現実世界とよく似ている。だけど、異なる部分もある。現実世界の人々は、自分をよく見せるために、化粧をする。逆に、黄泉の国の住人たちは、生前のあらゆる活動によって、不浄となった顔や手を隠すことなく生活している。初めてそこに気づいた時は、その違いに驚きを覚えたものだ。


 一定の距離を保っての散策は、その後もしばらく続いた。橋本進さんはとある大きなドーム状の建造物の前で足を止め、振り返ると小さくお礼をした。


「おかげさまで今日は思い切り楽しめました。ありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそ」

「現世に帰る前に、浜野さんにどうしても聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「僕でよければ、答えられる範囲で答えますよ」

「では質問しますね。生まれ変わりって本当にあると思いますか?」


 そう聞いてきた橋本進さんの目はとても真剣だった。それゆえ、僕は、黄泉の国の空を見上げながら真面目に考えた。


「そうですね……。あると思いますよ。ただ、その生まれ変わりというのが自分の意思によるものなのか、それとも神様などの自分以外の存在の意思によるものなのかは僕は分かりません。でも、ここで生活を営む死者たちは皆、その答えを知っているんじゃないでしょうか」


 それから、僕たちは、元来た道を引き返し、現実世界へと戻った。残すは病院までの同行だけだ。そう考えていたら、隣から低いうめき声が聞こえた。とっさに、顔をそちらの方向に向けると、胃のあたりを押さえて苦しそうな表情をする橋本進さんの姿があった。僕は、すぐさま、総合病院に電話をかけた。


「もしもし、こちら、〇〇総合病院です。ご用件は何でしょうか?」

「もしもし、ゲート・ナビゲーターの浜野です。本日、そちらに入院していらっしゃる橋本進様のご要望で、異世界旅行に行ってきたのですが、こちらの世界に帰ってきた後に、橋本様が体調を悪くされています。今からでいいので、誰か、至急、迎えに来てあげてください。場所は、やすらぎ広場です」

「分かりました。誰か手の空いている方を急いで、やすらぎ公園に派遣するので、それまでお待ちください。それでは、失礼します」

「はい、失礼いたします」


 僕は、そう言ってから通話モードを終了し、携帯電話をポケットにしまった。病院の方が駆けつけてくれるまでの間、橋本進さんを見守ろう。そう思っていたら、橋本進さんが、黄泉の国で考えていたことを打ち明け始めた。


「私、黄泉の国で、先に旅立っていった最愛の妻のことを想っていたんです。死後の世界でも元気にしているだろうかと。だから、黄泉の国で穏やかに過ごす妻を目にすることで、心のどこかで安心したかったんです。結局、見つかりませんでしたけどね」


 黄泉の国の人口は何十億とも何百億とも言われている。そんな大勢の人々が住む黄泉の国で、自分の想う人が発見できなかったとしても無理はない。


 橋本さんが持病による症状に苦しむ中、看護師2名が、やすらぎ公園に現れた。そのうちの1人は、橋本進さんのために電話をくれたあの看護師。もう一方のベテランらしき看護師が、


「私たちが来たので、後のことはお任せください」


 と言うと、彼らは手際よく、橋本進さんを車いすに乗せて、目と鼻の先にある総合病院の方に向かっていった。そうして、やすらぎ広場に1人、取り残された僕は、しばし考え込んでいた。僕が恋しく思う人は、誰なのだろうかと。

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