黄泉の国
第2話
汗でむしばむ夏の日に、その電話は鳴った。かけてきたのは総合病院の看護師。話によると依頼人は看護師本人ではなく入院患者だという。
「ゲート・ナビゲーター同行による異世界旅行を希望しているのは、そちらの病院で入院していらっしゃる橋本様ですね。どういった世界をご希望なのか代わりに教えていただけませんか?」
と言って、ゲート・ナビゲーターである浜野は回答を待った。電話口の向こうから看護師の小さい声が聞こえてくる。
「
「ちなみに、どんな病気を患っていらっしゃるのか、念のために聞いてもいいですか?」
「胃がんです。それもステージ4の」
僕は、頭を抱えた。胃がん。それ自体は珍しい病気ではない。重要なのは、胃がんと共に生きる患者さんが、異世界旅行に耐えられるかどうかだ。異世界にいるときに、吐き気や胸やけを訴えられても僕は看護師ではないのでどうすることもできない。断ろうか。僕は、重い口を開き、
「橋本様の場合、持病である胃がんの症状が
と言ったが、看護師はまだ諦めていないようだった。一生に一度のお願いでもするかの如く語気を強めて、
「橋本さんの強い希望なんです!」
と大きな声を出した後、またもや小さな声で、
「無理を言っているのは分かっています。でも、橋本さんの余命はあとわずかなんです。最後のわがままだと思って、叶えてあげることはできませんか?」
と言ってきた。通常であれば、利用することはできないお客様。しかし、依頼主である本人が生きられる日数は長くない。ゆえに、独断で決めていいことではないはずだ。僕は、
「今すぐ快諾することはできません。後日、返事を差し上げるので、それまでお待ちください」
と伝えて電話を切った。上司に報告せねば。僕は、席を立ち、上司のデスクに向かった。体躯の良い、がっしりとした上司が僕を迎える。
「おう、浜野。どうした?」
「実は、うちのサービスを使いたいとおっしゃる依頼人の相談をしたくて。聞いてくれますか?」
上司の清水は、空いていた椅子の座面を手でポンポンと数回叩くと、身体ごとこちらに顔を向けた。僕は、
「失礼します」
と一礼し、ゆっくり座った。どう話そうか。いくつもの考えが頭の中を支配する。僕は、その中から最も適していると思われるものを選び出し、話すことで、清水自身の判断を仰ぐことにした。
「依頼主は79歳の橋本進さん。ステージ4の胃がんを患っていることから、本来であればゲート・ナビゲーターの利用は不可能です。けれども、本人自身は直に死ぬことを自覚しているからか、異世界旅行を渇望しているようです。これは、電話をしてきた看護師さんが教えてくれました。清水さんなら、どのように対応しますか?」
浜野の相談を聞き終えた清水は、大きく深呼吸をすると真剣な表情でこう答えた。
「まずは、橋本進さんに直接会って改めて事情を聴く。話はそれからだろうな」
「分かりました」
死を連想させるような黒色の雲が空を支配する中、僕は総合病院を訪れた。病室では、例の看護師と橋本進さんが2人して待っているはずだ。確か、310号室だったか。エレベーターに乗りながら、そんなことを考える。気づけば、3階に着いていた。廊下をずっと歩いて突き当たり左に行ったところの一番奥にある病室には、橋本進様というプレートが付けられていた。スライド式の扉を慎重に開ける。すると、僕の来訪を感じ取った看護師さんが、笑顔で出迎えてくれた。
「今日は、わざわざここまでお越しいただいてありがとうございます。さあ、どうぞこちらへ」
と言って、直前まで自分が座っていたであろう背もたれなしの椅子を勧めてきた。僕は、
「お気持ちだけで大丈夫ですよ」
と言って断り、
「改めてお伺いします。なぜ、ゲート・ナビゲーターを使って
そう尋ねると、橋本進さんは、最初に胃がんになった経緯から話してくれた。
「実は私、大のお酒好きだったんです。それこそ、周りから酒豪って呼ばれるくらいには。加えて、酒のつまみはコロッケとか唐揚げみたいな脂っこいものばかり。身体に悪いとは思ってたんですが、やめられなくてね。ある日、胸が苦しくなったんですけど、ただの飲みすぎだと思って、いつものように数日間放置したんです。大抵の場合はそれで治ったものですから。でも治らなかったんです。これは、病気かもしれないと思って、思い切って病院で検査することにしました。何で検査したと思います?」
生まれてから20年ちょっとしか経過していない僕には全く分からなかった。これまで入院が必要になるほどの病気にかかったこともない。
「分かりません。どんな検査をしたんですか?」
「人間ドッグです。1度は聞いたことありませんか?私は、この検査によって胃がんであることが判明しました」
「その時の心境はどうでしたか?どうしても答えたくない質問なら、これに関しては回答しなくてもいいですよ」
橋本進さんは、遠い過去を振り返るような細い目つきをしてから、
「ショックで言葉が出ませんでした。残酷な真実を突きつけられてもなお、それを否定したかった自分がいたからじゃないでしょうかね。それでも、少しずつ時間が経過していくごとに、病気の存在そのものを受け入れて生きようという気になりました。いわゆる共生という考え方です。闘病ではありません」
と答えた。少し間を開けてから、橋本進さんが会話を続ける。
「でも、私はがんとの共生に失敗しました。なにせ、私の身体は日に日に衰えていくばかりですからね。そこで、せめて黄泉の国を死ぬ前に見ることで、死に対する恐怖感を幾ばくか和らげようと思ったんです」
死んだらどうなるだろう。死ぬのが怖い。そんな思いを目の前の橋本進さんは感じている。僕も年老いたら、そんなことを日常的に考える人間になるのだろうか。
「最後に、確認しておきたいことが2つあります。まず、異世界旅行中に橋本様の体調が悪化しても、我々、ゲート・ナビゲーターは何もしてあげられません。その点は問題ないでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
そう返事を返す橋本進さんの眼差しから、強い決意のようなものが読み取れた。
「では、もう1つ。ゲート・ナビゲーターを活用した黄泉の国旅行は、いつがよろしいですか?」
橋本進さんは、少し考えるそぶりを見せた後、こう言った。
「じゃあ、今度の日曜日にお願いしようかな」
僕は、看護師さんと橋本進さんにお辞儀して、病室を後にした。ふと病院の窓から外を見れば、土砂降りの雨が降っていた。次の日曜日、何も悪いことが起きなければいいんだけど。
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