第3話 佐伯くんは良い匂いがする

 しばらくそのまんまの格好で歩いて、大通りを通る。肩に置かれた佐伯くんの手、おっきい。すごいあったかい。……そしていたたまれない。

 佐伯くんは、まっすぐ前を向いて歩きながら

「谷口さん、ほんとにナンパに引っかかってるとは思わなかった。絶滅危惧種みたいなやつらだったな」

と、なにを考えているんだかよくわからない顔で言った。相変わらず表情筋が仕事をしない。

「佐伯くんもしかして、追いかけてきてくれたの?」

 私が佐伯くんの顔を見上げると、佐伯くんも私を見下ろしてきた。

「いや、そこの本屋に寄って出てきたら、店の前で谷口さんが絡まれてただけ」

「ああ……」

 そっか。違ったのか。ちょっと勘違いしそうになったのがすごく恥ずかしい。

「女子は、帰るだけでも大変なんだな」

「ええ〜……ああ、いや、みんなじゃないと思うよ、私ほら、よくぼーっとしてるから絡みやすいんだと思う」

 もしかして心配はしてくれてるのかな。

「あ、さっき谷口さんのこと呼び捨てにしてごめん。あれが一番いろいろと早いかと思って」

 佐伯くんが思い出したように謝ってくるから、私もついさっきのことをより鮮明に思い出してしまった。あれはやばい。めちゃくちゃ恥ずかしい。

「あっううん、気にしないで! むしろ助けてくれてありがとう」

「さっき島谷が谷口さんの名前呼んどいてくれて良かった。苗字で呼ぶよりそれらしいかと思ったから」

「あ、うん、そだね」

 そうなんだよね、名前で呼ばれてしまった。夕梨香、って。それらしいって、それってつまり、かれし……うわあああああいなんてこったーい!! よく考えたら未だに肩を抱かれてるこの状況!! かれしじゃん!! ナンパから助けてくれた上に家まで送ってくれるとかなんていう――

「じゃ、あいつら見えなくなったから、俺はこれで」

「えっ、送ってくれるんじゃ……」

 言うと同時にすっと肩から手が外されて、あったかさと少しの重さが遠のいていく。あれおかしいな?

「あんな悪質そうなの、一日に何度も遭うことはないでしょ。もう大丈夫だと思うよ。じゃ」

「あ、ハイ。お疲れさまです。ありがとうございました」

 きょとんとしてしまっているうちに、佐伯くんはくるりと向きを変えて、すたすたともと来た道を歩いていく。その背中を見送りながら私は、私は――

 勘違いはなはだしい自分が本当に恥ずかしい!!


 それから本当になにごともなく家に帰って、帰ってからずっとうわの空で過ごした。そう、これがまさしくうわの空。

 でもお風呂のなかで今日のことを思い出すと、なんかもうじっとしていられなくて、足をばたばたさせながら暴れてしまった。ばしゃばしゃと大きな音を立てていたらドアの外からママに怒られた。

 ベッドのなかで、どうしてもあのぎゅってされたときのことを思い出してしまう。男子にあんなぎゅってされたの初めてだった。しかも佐伯くん、ブレザーの前が開いてたからシャツがそのまま当たって……だからなんかほんとにあったかかったし、ほんとにちょっとだけ良い匂いがして……。

 あれなんだろう、香水なのかな。えっ、佐伯くん香水つけてんの? でもなんか、いいな。明日えっちゃんに買い物付き合ってもらおう。靴と、香水。……だめだ、疲れてもう眠気に勝てない。






「で? 結局佐伯が送ってくれなかったから、夕梨香は残念でたまらないの?」

 えっちゃんが私の前の、最前列ど真ん中の席に座って、椅子ごとこっちに向き直って、お昼に購買で買ったパンをかじりながらにやにやする。私は一緒に購買で買ったオムライスに割り箸を突き立てた。

「ちがうもん! ただなんか、すごい体験をしてしまったというか、佐伯くんってあんな感じなんだって思って」

 突き立てた箸を引っこ抜いて、端っこから割って食べる。箸を動かすと透明なプラスチックの容器がパキッと小さく音を立てた。オムライスの上に乗ったケチャップがいつもと変わらず甘酸っぱい。

「へーえ、佐伯ってそんなことするんだね。なーんか意外」

 えっちゃんはやっぱりにやにやしたままで、こそっと私の後ろのほうの席に座る佐伯くんを覗き見た。

「ねえ、えっちゃん、あんまりじろじろ見ないでよう。噂してるのばれるじゃん」

「気づきゃしないって。佐伯は直人のほう向いてるし。しっかし、誰にでもそうやってすんのかね、あいつは」

「知らないけど……」

 もぐもぐしながらえっちゃんと話していると、後ろで

「佐伯くーん」

と高い声がした。

 気になってこそっと振り返ってみると、佐伯くんは池田 直人くんとお昼を食べていて、そこに染井 雅ちゃんが近寄って声をかけていた。雅ちゃんが佐伯くんに声をかけているのは、四月で新クラスになってから時々見かける光景だった。佐伯くんの机のそばでちょこんと小さく座り込んだ雅ちゃんは、後ろ姿でも可愛い。長い髪の毛がさらさら。

 えっちゃんのほうに向き直って聞き耳を立てていると、雅ちゃんは佐伯くんに弾んだ声で話しかけていた。

「ねえねえ佐伯くんさあ、土曜日ってなにか予定がある?」

「ああ、土曜はちょっと。なに?」

「そっかあ、もし空いてたら一緒に遊ばないかな〜って思ってて」

「ごめん、図書館行くから」

「あっ、図書館? それ雅も一緒に行っていい?」

「あ、いや、」

 佐伯くんは、そこでちょっと困ったみたいに言葉を詰まらせていた。それから、

「谷口さんと行くから」

と、言った。ように聞こえた。

 んんん?

「あちゃあ……」

と、えっちゃんが目の前で頭を抱える。なんか、すごく、なにかに巻き込まれたような気が……。

「え? 谷口さん? って、夕梨香ちゃん? 夕梨香ちゃんと図書館行くの?」

 案の定というかなんというか、雅ちゃんのびっくりした声が聞こえる。私もびっくりしている。なにかに巻き込まれた気がしないでもないから、ちょっともう一度振り返る勇気は出てこなかった。

 そんな私の気持ちをまったく知らないであろう佐伯くんは、

「そう。だからごめん」

と、素っ気なく雅ちゃんの誘いを完全に断った。

「あーあ。どうなることやら」

と、えっちゃんは私の肩をぽんぽんしてきた。

 染井 雅ちゃんは、クラス内カーストの上位、いや、ほぼ頂点だ。






 雅ちゃんは可愛い。

 ちょっと小柄で、大きな目がくりっとしてて、肌の色が白くて、髪の毛長くてさらさらで、お人形さんみたいなお顔をしている。

 誰にでもにこにこしてて、とっても優しくて、明るくて、元気で、そして……

 裏でめっちゃ人の悪口を言う……。

 やばい。


「佐伯、さえき」

 五限目が終わって、廊下の隅で私の隣にいるえっちゃんがこそこそ佐伯くんを呼ぶ。

 佐伯くんは、きょろっと一度周りを見渡してから、私たちのほうにやってきた。

「やらかしたな佐伯。ちゃんと説明しなよ」

 廊下の壁に据え付けられたロッカーに寄りかかってえっちゃんが怠そうに腕組みをする。脚が長い。羨ましい。

「谷口さんごめん、うっかり」

 佐伯くんとえっちゃんの話によるとこうだ。

 雅ちゃんは多分、佐伯くんのことが好き。でも佐伯くんは、雅ちゃんがずっと横で話しかけてくるのが鬱陶しい。で、いつも遊ぼうと誘われるのをのらりくらり躱していたんだけど、さっきは思いつきで図書館に行くって言ったあとで、次の土曜日は友だちの直人くんがバスケ部の練習試合があるから、話を合わせてもらうわけにいかないことを思い出した。で、咄嗟に出たのが昨日初めて話したばっかりの私だった、と。

「な、なるほどね……」

「勝手に名前使ってごめん谷口さん」

 佐伯くん、謝るときにも無表情なんだな。やっぱり表情筋が仕事してない。

「仕方ないよ、咄嗟に出たんだから、ね? 土曜日は私、家にいるから、雅ちゃんに会うことがなければそれで――」

「雅さあ、行くんじゃない? 図書館。だってそこに佐伯がいるって思ってんだから。いなかったらまーた面倒くさいよ」

「えっちゃん……」

「まじか島谷……」

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