2-19 もう一度
夕日を遮っていた雲は蝶が過去へ飛んでいく時に、一緒に連れ去っていったのだろうか、夜空には星が輝き三日月からは光の雫がこぼれている。夜の散歩やロードワークには最適な飽きの来ない夜空。ただ、その夜空の下を歩く蕪木の表情に明るさはない。
掌の痛みを我慢しながら蕪木の隣で自転車を押す自分は、その理由をひたすらに考えていた。そして、安宅の海を出てから約一時間、ようやく自分はその理由へとたどり着く。
土居原先生の時のように想いが無事伝わったのか、確認する方法がなかったからだ。小説のあとがきにメッセージが残されるわけでも、過去から現在に手紙が届けられるわけでもない。ましてや、直接蕪木から部長に電話をするわけにもいかない。
何よりもだ、受け止めた部長が、蕪木の唯一の親友が、蕪木の想いに応えてくれるのかは部長次第。
「…………」
自分は星空を見上げる。
願わくは、どうか自分の隣を歩く友だち(仮)に心の救済を。
と星に願いを込めてみるけれど、星は美しく輝くばかりで願いを聞き入れてはくれないようで、ズボンのポケットに入れているスマホを手で触ってみるけれど、通知の音もメッセージを映し出す明かりも表れたりはしない。
そのまま歩き続けた自分たちだったが、交差点に差し掛かったところで蕪木は突然立ち止まり堅く閉ざしていた口を開いた。
「もうすぐ家に着くから。ここで別れましょう」
「最後まで送らせてはくれないのか?」
「……今の酷い顔、わたしの両親に見られたらあなたが真っ先に疑われるわよ」
「そりゃ困った」
「最悪の場合殴られるかも」
と心配にも取れる冗談を言う蕪木。
自分はその冗談が本当になれば良い。と思っていた。
蕪木の百合の花のような顔をこのようにしてしまったのは間違いなく自分であり、殴られた方が心は晴れる。
「悪いがひねくれものが素直に忠告を受け入れることはないんだわ。だから、最後まで送らせてもらうよ」
「……そう」
受け入れてくれたのか蕪木は再び歩き出した。
傷つく時は一緒に傷つく。あの時自分は確かに蕪木に言ったのだ。その言葉を嘘にはしない。
そう心に堅く誓ったとき、蕪木が再び立ち止まった。
目前に見えた蕪木家。その前に立つ街灯の下にしゃがみ込んでいる人影が目に入ったからだ。
「大ちゃん……」
「なっ」
蕪木が口にした名前に自分は驚き、急いで蕪木の視線の先を見た。
街灯の下とはいえ辺りは夜の暗闇に包まれている。そのため、
その部長は生まれたての雛を抱えるように、そっと両手の中に蝶を収めている。その蝶はまるで自分たちを待っていたかのように自分たちと部長が
「部長」
「梅ちゃん……わたちゃん」
立ち上がった部長は蕪木の名前を呼ぶと、いつもの姿からは考えられない不器用な笑みがこぼれた。
「まったくー、卑怯だぞ、梅ちゃん。椿に蝶のこと黙っていたでしょ。信頼していたのに、まったくだよ、もー」
「部長。あの」
「それに卑怯なのはわたちゃんもだぞ。わたちゃんばっかり椿に言ったきりでさ、椿だって……椿だってわたちゃんに言いたいこと、たくさんあるんだよ」
「大ちゃん……」
「もう、何でそこで泣きそうになるのさ……泣きたいのは椿も同じで」
と言い切ろうとした部長の頬はもう、濡れていた。
「ごめんね、わたちゃん。ずっと、言えなくて」
雫がこぼれる。
星明かりに照らされた雫が頬の器から溢れ、熱を持ったコンクリートの地面に落ちていく。
何粒も、何粒も落ちていく雫たちに、ずっと溜め込まれていた部長の想いが包まれていた。
「本当はね、想像したらすぐ分かったよ、わたちゃんが何であんなこと言ったのかって。何であんなことを言わせてしまったのかって。椿は賢くないけどわたちゃんのことは誰よりも知っているつもりだから。だからすぐに分かった」
「大ちゃん」
「分かっていたからね、本当は想像することも駄目だって分かっていたんだよ。でも、ずっと想像していたんだ。もし、あんなことがなくてわたちゃんと同じ学校に通うことができていたらって。何度も何度も想像して」
「違うの! 違うの、大ちゃん。わたしが、わたしだけが伝えてしまったの。ずるをしてしまったの」
「……わたちゃん」
熱を帯びる蕪木の目元。その目元よりもずっと熱い雫が蕪木の瞳から溢れ出した。
「わたしも! わたしも本当は大ちゃんと同じ学校へ行きたかった。一緒に授業を受けて、大ちゃんが分からないところをわたしが教えてあげて。そのかわり大ちゃんがわたしの知らない世界へと連れ出してくれる。そんな高校生活を想像していたの。でも、わたしが……言ってしまったから。あなたを傷つけてしまったから」
「蕪木」
「ごめんなさい、大ちゃん。傷つけて、ごめんなさい」
蕪木は頭を下げた。部長に、親友だった大領中椿に向けて。何度目かの涙と共に。確かに謝罪の言葉を部長へと伝えた。
今なら素直に伝えられる気持ちを蕪木は伝えたのだ。
だけど、全部じゃない。全てじゃない。
それじゃあ足りないだろ。
「そうじゃないだろ、蕪木!」
「っ!」
振り返る蕪木。
その表情には戸惑いが溢れていて、自分の言葉を受け止めるのは難しいのかもしれない。
それでも自分は言葉を紡ぐ。
「確かにお前は、大切な友だちを傷つけるような発言をしてとても後悔をしている。だから、あの紙を飛ばして本当に言いたかったことを伝えて、謝った。だけどな、それじゃまだ足りないだろ。お前の後悔はそんなもんじゃ消えたりしないだろ」
「……何を言っているの、本多」
「っ。分かんねえのかよ! お前は一番大切な友だちを失ったこと、後悔しているんだろ!? 友だちの側を離れてしまったことを悔やんでいるんだろ!? だったら、言えよ。もう一度後悔しないように。今なら素直に伝えられる気持ちを!」
言ってくれよ、蕪木。
「……本多」
「なんだ?」
「ありがとう」
「っ」
自分に礼を言った蕪木は瞳を潤ませたまま、微笑んだ。
そして、再び部長へ向き直る。
「大ちゃん、虫の良い話だと言うことは分かっているわ。許さなくて良いなんて言った手前、こんなことを言うのはおかしいと言うことも。でもね、わたしはもう後悔したくないの。わたしの背中を押してくれる、もう一人の友だちのためにもね。だから」
だから、
「もう一度。もう一度だけ、わたしと友だちになってください」
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