2-18 叫び
蕪木を背に乗せて自転車を漕ぐのが二回目だったからなのか、それとも風の神様が背を押してくれたおかげなのか、自分たちは予想の半分の時間で目的地までたどり着いた。おかげでまだ夕日は沈み切っていない。
「海?」
荷台から降りた蕪木は、風になびく髪を抑えながら自分に尋ねる。対し自分は膝に手を置き肩で息をしながら頷いた。
そう、ここは安宅の海だ。
部長と自分が出会ったあの浜辺。
『砂浜や岸辺もまたこの世とあの世の境界なのさ。深い闇を生み出す海はあの世。太陽の光が降り注ぐ大地はこの世。その境目にあるのが砂浜や岸辺。だからこの世とあの世の境界なのさ。覚えておくと良いことがあるかもしれないよ』
自分と部長が出会ったあの日、万次郎は自分に向けそう言った。
いったいどこまでそれを見越していたのかは分からないし、本当にただの偶然だったのかもしれないけれど、今はその言葉だけが頼みの綱だった。
「はあ、はあ、はあ……万次郎が言うにはな、ここもこの世とあの世の境界になるらしい。幽霊も現れやすいくらいのな。そんな場所が
「もしかして、ここなら」
「ああ」
飛ばせるかもしれない。
もちろん、確証はなかった。雲は相変わらず空に漂っていて、夕日は海の中に沈みかけている。浜辺を焼く光の量は限りなく少ない。飛ばすことのできなかったさっきよりも条件は悪くなっている。
博打も良いところだ。普段の蕪木ならきっと話すら聞いてくれないだろう。だけど、
「蕪木」
「……お願い、本多」
蕪木は自分を信じてくれる。
それだけで、賭けるに値するってものだ。
自分はズボンのポケットに乱暴に押し込んでいた
「汝なんじに願う。蝶の姿を借りて、想いをあるべき場所へ!」
自分と蕪木、二人だけの砂浜に声が響く。祝詞に反応した繭の蝋が再び溶け出すと、ぐつぐつと泡を立て煮えだした。
目の前の出来事に自分は心の中でガッツポーズをした。だが、次第に熱は上がっていき掌が焼かれるような感覚に襲われる。
「ぐうっ」
強烈な熱の痛みから自分は顔をゆがめる。その姿を見て蕪木が繭を手放させるため自分の手首を掴んだ。
「本多! 放して」
「……断る」
「断るって、あなた、手が」
「分かっていないなあ、蕪木。おれはひねくれものなんだぜ。放せって言われたらむしろ放したくなくなるんだわ」
「っ! そんな、冗談は」
「言えるタイプだと思うかい?」
「…………」
不器用な笑顔だっただろう。苦痛が隠しきれない顔で笑った自分だったけれど、自分の覚悟を受け止めた蕪木は口を
その瞬間、浜辺をわずかに焼いていた夕日の光が途切れた。
「っ!」
ひびが入った。繭の上部に五センチほどの亀裂ができたのだ。
だけど蝶が出てくるにはまだ不十分で、閉じられた透明の羽がかろうじて見えるくらいだった。
「くそっ!」
自分は砂浜に膝をつき繭を持つに手に再び力を込める。そんなことしても亀裂が大きくならないことは分かっていても、だ。
「くそ、くそ、くそ!」
広がらない亀裂と広がっていく掌の痛み。自分の膝元まで打ち寄せる波があきらめろと自分に囁く。
夕日はもう完全に消え、空は若紫の色に染まり始めている。もう、どうしようもないのだと、波が、海が囁くのだ。
それでも自分は諦められるわけがなくて、繭を額にぶつけると閉じ込まっている蝶に向け波音をかき消すように自分は叫んだ。
「届けよ。届けろよ! 大切な想いなんだよ! 蕪木の親友に届けないといけない言葉なんだよ!!」
「……本多」
「ちゃんと向き合おうとしているんだよ。後悔に、親友に、蕪木はちゃんと向き合おうって歩み出したんだよ。それなのに、お前が、羽を持つお前がいつまでもこんなところにいるな!!」
自分でも驚いてしまうくらい、ひねくれていない言葉を。真っ直ぐな言葉を蝶に届けた。
そんな真っ直ぐな言葉には深海の水でも冷やすことのできない熱があって、蝶の羽化を塞いでいた蝋を溶かしたのだろう、止まってしまったはずの亀裂がだんだんと大きくなっていく。
そして、再び入りだした亀裂は繭の全体にわたり、
「っ! 本多!」
「……ああ」
蝶が生まれた。
想いの大きさが大きければ大きいほど生まれる蝶の姿は大きくなる。
これまで見てきた蝶たちは皆雀ほどの大きさであり、両手で充分に包み込めるほどであった。だけど、今生まれた蝶はイヌワシのように大きく、同時に優雅であった。
その大きな蝶は自分の胸の中でゆっくりと羽を広げると、まるで重力が無くなってしまったかのように、ポン。と浮き上がった。
そして、力強い羽ばたきを繰り返し、飛び出していく!
「うっ!」
蝶が飛び出していくと同時に、自分と蕪木は砂浜に尻餅を着いた。
過去へはばたく蝶が起こす風は、いつもなら肌を撫でるほどの柔らかな風。だけど、今日の風は立っているのが難しいほどの荒々しい風で、まともに踏ん張ることも出来なかった。更に、その風は自分たちの視界を奪わんとばかりに浜辺の砂を巻き上げるのだけれど、自分は視界を手で覆い指の隙間から何とか蝶の姿を追う。
蝶は、蕪木の想いは、その大きな羽をゆっくりと羽ばたかせながら若紫の空へと飛んでいった。そして、蝶はまばゆい光を放つと自分たちを包み込みわずかな視界を完全に奪った。
自分たちの元に視界が戻った時、雲は消え、若紫の空には星が瞬いていた。
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