episode3☆ぬいと、歌ってみた
3-p01 録音スタジオのぬい
10畳ほどの部屋を肌色の起毛布が覆っている。繭の中みたいな、反響の少ない空間。
シンタローのヘッドフォンから音が流れてくる。作りかけの頃から数えれば百回か二百回かそれ以上か、繰り返し聞いて空気みたいに馴染んだ音楽。電子メトロノームの冷徹な音が薄くずっと混ざっている。
ここはスタジオの中の、静かで孤独な録音ブース。数歩離れた場所には誰も座っていないドラムセットがある。左横には分厚いガラスの二重窓。その向こうに所属バンド「
指がリズムを刻む。ベースの音色は弦を弾くだけではなんだか頼りなく儚い。それがケーブルを伝わりいくつかの装置を通して重い音に変貌して空気を震わせ耳に届く。
情緒は音波の渦に巻き込まれる。歌詞があって、その曖昧な言い回しの中にくっ付いて昇華する感情があって、だけど絶対掬いきれない何かもあった。
他人事のようにそれを感じていた。今の自分は、本当はこの歌に相応しくない。それでも弾き続けてる。仕事だから。罪悪感を音にして外に追い出さないと息ができない。
最後の一音が終わった。
トークバックスピーカーから、
「いい感じだけど。プレイバックする?」
とレコーディングディレクターの声がした。
「はい。一度聞いてみます」
とシンタローは応えた。
そしてあるものが目に入った。
楽器ケースの上に置いたボディバッグの間からこちらを覗いている。シンタローの視線に気付くと、「よぉ」と挨拶でもするように片手をバッグの外に出して振って見せた。
「まじか」
思わず声が出た。この部屋の音はマイクで拾われている。部屋の様子をモニターするカメラもある。下手な動きはできない。
ぬい発見のインパクトのせいで、プレイバックの確認がいい加減になってしまった。とにかく冴えないことだけは把握できたので、雑念を払ってもう一回録り直すことを、二重ガラスの向こう側の人たちに伝えた。
ヘッドフォンの中で再び音源の再生が始まる。
短いイントロの間に
***
同じ頃。
ヒデアキが持っている小型マイクから、碧生のもとに音声が飛んでくる。今日の題材は芥川龍之介の短編集だ。『地獄変』。
地獄、と言われて
……というのが「レコステ」のキャラとしての設定だ。
ゲームの過去エピソードに出てくる「地獄」は、レコステ沼にいるオタクの間では「聖地」という扱いになる。ナツミが生きていたら、この夏訪れていたかもしれない。ヒデアキやシンタローとは言葉を交わさず、ただのぬいのフリをして。
急に寂しくなってキョロキョロと辺りを見回した。
「兄さん。おれ、今日は行かずに授業を受ける」
と告げると
「そうだな。その方がいい。教養は大事だ。おまえ、偉いな」
とシミジミとした顔で……そしてなぜかちょっと動揺した様子で、
アヤトがリビングに来た。
雑念のせいで、授業の解説をちょっと聞き逃してしまった。
昔の難しい言い回しの解説を聞いていると、アヤトが紅茶をぬいサイズの小さなカップに入れて、
一方、教室にいるヒデアキは、どちらかというとボンヤリしていた。
夏の日、眩しい陽ざしの下で「地獄に連れて行ってくれ」と
夕方の光が教室の奥の方まで差し込んでくる。秋分も過ぎ、いつの間にか明るい時間が短くなっていく。
秋の夕日が赤いのはなぜ? なんて疑問がふと浮かんだ。母に聞いたら喜んで教えてくれただろう。もういないけど。
あかいひ。
キラキラした赤いものが心の奥で翻る。
コウイチローが立って教科書を音読している。
「……一人娘の断末魔を嬉しそうに眺めていた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思われない」
心は半分教室から離れて違う場所に行ってしまう。気になっている紅く光るものを、捕まえた。
金魚だ。
昔、家で飼ってた。
「夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳かさが……」
いつもの明るい声なのに、頭の中で映像になって心がザワザワする。
これに似た気持ちを、昔々どこかで既に知っていた。それはきっと触れずにそっとしておいた方がいいことなんだけれども……
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