episode2☆ぬいと鍵付きアカウント

2-p01 アカチャンとぬい

  地獄


 スマホに現れた文字をヒデアキは神妙な気持ちで見下ろす。

 碧生あおいの手がスマホをテシテシと叩いて、検索窓に更に文字を追加する。

 フェルト製の手はヒデアキの小指ぐらいの大きさしかない。

 変換文字リストから碧生が選んだのは、


  温泉


 それで検索ボタンを押すと、池のようなものから湯気があがっている画像がいくつも出てきた。

 水色の池、赤い池、白く濁った池……。それが薄雲の中にあり、なかなか美しい光景だ。ヒデアキはあることに気づく。


「これ、昔行ったことある。地獄めぐり」


 地獄、とは。

 温泉地に存在する、特に地熱の高温な場所。湯が珍しい色をしていたり、間欠泉が吹き上がったりする自然風景が珍しいので観光スポットになっていることも多い。


「大分、おじーちゃんちがあったんだよ」


 ヒデアキは幼い頃の、母の実家で過ごした夏休みを懐かしく思い出した。

 大分県別府の温泉宿は今年の家族旅行で行く予定にもなっていた。

 母のナツミは一人っ子だった。ナツミの両親、つまりヒデアキの祖父母は既にこの世にいない。お葬式にはナツミの叔父叔母と従兄妹にあたる人が来た。従兄妹は子供の頃に何度か会って遊んだという。大人になってからは冠婚葬祭の儀式で会う以外親しい交流はなかったようだ。でもナツミの葬式のこまごましたことを手伝ってくれた。いい人たちだった。

 で、大分の地獄の話だ。


「ここに行くと何かあるの?」

「俺たち兄弟はここに住んでた……って設定だ」


 千景ちかげからそれを聞いてヒデアキは目を瞬かせた。

 碧生が千景の隣でこくこくと頷いている。


「2人とも九州の人だったんだね。全然そんな感じに見えない」

「生まれたのは東京だ。大分にいたのは2年ぐらいだったな。俺がバイトしてたって設定の研究所は、ヒデアキのじーちゃんがいた会社」


と千景。


「へー。世間は狭いねえ」


 ヒデアキがしみじみ言うと彼はぷっと笑った。


「お前その言い方、おもしれーな」

「そっかな。……地獄かあ。行けたらよかったな……みんなで…………」


 いけない、また湿っぽくなってしまった……

 ヒデアキは碧生の出した検索結果をスワイプした。


「ぬいも温泉に入れる?」

「硫黄で色変わっちまうんじゃねーかな」

「そっか。でも、お風呂は入ってたよね」


 母のツイッターにそういう写真があった。小さい洗面器で泡にまみれている千景と碧生の写真が。


「ああ、汚れたら洗う。でも人間みたいに毎日風呂ってことはねーな」


と千景。

 今は千景も碧生も黒いぬい服を纏って、足元は汚れないように小さな靴を履いている。だから家の外を歩いても汚れない、ということのようだった。


「そういえば、服とかも洗った方がいいよね」


 ヒデアキが改めてぬいの服に視線を落とすと碧生が、


「洗ってるから大丈夫だぞ」


と言って飛行機の箱に座った。気に入ったらしい。


「靴ってどこかに売ってるの?」

「これはネットで買った」


 そんなことをわいわい言い合っていたら、屋上に通じるドアが開いて誰かが来た。

 ぬい兄弟は「スンッ」と倒れて飛行機の箱に背中を預け、動かなくなった。


「ヒデくん」


 現れたのは父方の従姉のタマコお姉ちゃんと1歳のタッくん。

 父のアヤトには三人の姉がいる。すぐ上のお姉さん・ケイコの娘がこのタマコさんだった。


「きてたんだ? 伯父さんと伯母さんもいるの?」

「今日はお母さんだけ。ここ、屋上あるんだねえ。いいね」

「うん」


 部屋に戻らないから心配されたのかな……と考えているヒデアキのすぐ横で、抱っこから降りたタッくんが千景をむんずと掴んで、


「ぎょ!」


と声を発した。


「タッくん、ダメ。お人形ちゃん、お兄ちゃんのだよ」

「ぎょぉちゃ!」


 両手で持ち上げて力いっぱいむぎゅむぎゅ押している。


「えっと、タッくん、放してあげて……可哀想だから……」


 ヒデアキは赤ちゃんの小さな手にそっと触れたが、


「んぎょ」

 むぎゅむぎゅむぎゅ


 ますます力強く弄ばれている。


(千景くん────!)


 ヒデアキは心の中でめちゃくちゃ焦っていた。

 千景は虚無の顔のままだ。

 一方、碧生の方が眉間に「むっ」と皺を寄せている。手にはいつのまにかアメを持っていた。さっき写真を撮りながら飛行機の箱から出したやつだ。

 こっちの方が危険な感じがする。


(待って待って、それ投げないで)


 ヒデアキが碧生に気を取られている間に、千景はというと……


(相手が赤子だとやりづれえな。碧生! アレを呼ぶぞ)

(わかった)


 千景と碧生はぬい同士テレパシーで会話し合って、密かにある力を発動させた。


「にゃー」


 どこからともなく現れた可愛いネコの姿にみんな釘付けになった。

 ネコは寄ってきてタッくんに体を擦り付ける。


「にゃん……にゃん」


 可愛い鳴き声だった。

 1歳児の興味はそちらに移った。


「にゃんにゃん!」


と叫んでアカチャンの容赦ない手の力が緩んだ。

 その隙に千景は自力でスポッと飛び上がるようにして脱出した。

 スンッと静まったジト目の無表情のまま、小さな体が地面に落ちていく。

 ヒデアキが慌ててキャッチした。


(おっ。ナイスキャッチ!)


という千景と碧生の声なき声がヒデアキの方に飛んできた。

 ネコはひとしきりタッくんと戯れたあと、ぷいっと背を向けて階段の方に走り去った。


「にゃんにゃん!」


 タッくんがヨチヨチと歩いて、タマコが、


「タッくん! 危ないとこ行かないでよ!」


と追いかけていく。

 ネコ、どこから来たんだろう?

 気になってヒデアキもぬいを掌に抱いてなんとなくネコのことを追いかけた。

 ちょっと先でタマコが、


「あれ? いなくなっちゃったね~」


と言っていた。


「どこかの家のネコかなあ」


とヒデアキはネコの消えた階段を見下ろした。

 迷い込んだ野良猫か、脱走した飼い猫か……

 このマンションは結構広い。迷子にならずに家に戻れただろうか。

 ちょっと心配になっていると、千景と碧生がツンツンとヒデアキの手をつついた。

 2人揃って小さな口を動かして口パクで何か言っている。

 大丈夫、ということのようだ。

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