木曜日

 汗で張り付いたTシャツは非常に気持ちが悪い。彼女は今すぐに着替えたいと思っていた。いや、着替えたいという感情が脳内の8割を占めていた。しかし、状況がそれを許してはくれない。彼女が立っていたのは駅の改札付近。こんな場所で着替えだしたら、すぐに通報されてしまうのは目に見えている。だが、着替えたい気持ちは拭えないだろう。


 彼女は茅原佳那というフリーの写真家だ。今日彼女がここにいるのはとある人物との待ち合わせ。顔を隠した人たちがあふれるその中で、お目当ての人物を探す。「あ、いた」彼女は近くに駆け寄り、その男性に声をかける。「よ、久しぶり」彼女と同じぐらいの背丈でキャップを被ったその男性は笑う。ため息をつきながら彼女は「ほら、行くよ。こんな蒸し暑い場所にはあまり留まりたくない」と言ってその場を後にする。男性は一つ息を吐き、半ば駆け足で彼女を追いかけた。


 チリン、チリン。二人が入ったのは趣のある喫茶店などではなく、今や灰の帳が下りた商店街だった。未だに営業している服屋は夏の準備を始めているが、やはり侘しく二人は見向きもせず歩いていく。二人の会話はたわいもない内容ばかり。写真家である彼女の仕事は、安定しているというわけではない。だから、男はつい聞いてしまうのだ。

「仕事の調子はどう?」

「まぁまぁかな。そっちは?昇進したんでしょ、その年齢だと大変だ」

「そうだな。けど気苦労ばっかり。給料はいいからまだましだけど、これもいつまで続くかわからないから、今が踏ん張り時だな」

 佳那は変わっていない彼の姿を見て、つい注意してしまう。

「それでもいいけど、体壊しそうなら実家に戻ればいいから、気をつけて」

「大丈夫、姉さんのようにはならないよ」

「油断しないこと」

「へいへい」


 彼らが目指していたのは一軒のラーメン屋。建物はそのままに、何回も潰れて経営者が変わって看板がコロコロ変わった店だった。彼女たちの思い出の味の店はとっくに潰れており、そこに立っていたのはまた違うラーメン店だった。彼女は「どうする?お昼ここでいい?」と後ろを振り向く。「姉さんは来たことあるの?美味しいならここでいい」彼はどこでも良かったみたいだ。「無いけど、お腹空いたし、ここでいいや」カラカラ扉を開けて彼女は店内に入っていった。変わっていない姉の姿を見て弟は「本当に適当だな。それでいいけど」と言って暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませー」

 愛想のよい店員は彼らをテーブル席に案内する。開かれたメニューに描かれているのはこってりしたラーメンばかり。ニンニクましましが店のおすすめでメニュー表にはニンニク量の度合いを示したメモリが大量に刻まれている。一部には唐辛子のアイコンもあり、こんな蒸し暑い日に食べると服が大変になってしまうだろう。

「店員さーん。このニンニクトウガラシヤサイマシマシラーメン二つくださーい」

「何て言った?呪文じゃん」

「それよりさ、あんた。彼女とはどうなの?結構いい感じだったじゃん。結婚式にはこのねぇさまを呼んでおくれよ」

「まだ、先だな。いくら何でも今は忙しすぎる。流石にもう少し落ち着いてからじゃないと、家庭に仕事を持って来ちまう」

「はい!ニンニクトウガラシヤサイマシマシラーメン二つ!」

 佳那が返答する前に店員が呪文を唱えた。召喚された魔物はおびただしい熱気と存在感を放ち、彼らの前に顕現する。

「ほら!食べるぞ弟よ!」

「あの、姉さん?話は?」

「私があんたの結婚式の写真撮るから。以上!食べるぞ!」

「ちょっと、え、はぁ、まあいいか」

 テンション爆上げとなった彼女に置いていかれる弟、いつものことなので気にしない。それよりも、姉は何度かこのラーメン屋に来ているだろう。テンションの上がり方がさっきと違い過ぎる。さて、ラーメン好きの姉の舌を唸らせるラーメンの実力はこれ如何に。

 上に乗っている野菜自体は鶏油とニンニクで炒めたのだろうか、ほのかに香りがある。しかし、スープが放つ強烈なニンニク臭が鼻を突き、ドロドロのスープが細麺と絡みつく。野菜はラーメン自体を融和させており、バランスの良い一杯となっている。

「あ、言うの忘れてた。底にトウガラシとニンニクが沢山入っているからかき混ぜてみな」

「やっぱり姉さんここに来たことあるだろ。えーっと、底か」

 かき混ぜてみると大量にスライスされたニンニクの下に丸々数本のトウガラシが入っていた。これを佳那は全体的にかき混ぜ、弟もそれに倣った。食べてみると強烈なうまみが口を攻撃し始め、さらにトウガラシが追い打ちをかける。攻撃にさらされた二人の箸は一向に止まる気配はなく、結局あっという間に食べ終わってしまった。


「ごちそうさま。姉さんが選んだ店なのに珍しく美味かった」

「あまりこのお姉さまを侮らないこと、くれぐれも忘れなさんな!」


 彼女はどこか自慢げに話すが、それを聞いた弟はこのラーメン屋での一部始終を思い出しながら『だから、いつまでも侮られているんだよ』と心の中で突っ込んでいた。実は彼女とその父親は進路について大喧嘩し、それから彼女は実家に帰っていない。彼はそんな彼女の様子を母から見てきて欲しいと頼まれたのだ。ここ数時間で思ったことは、自分の姉が苦労しながらもきちんと生活しているということ、そして今を楽しんでいることがなんとなくわかった。

「今日、これからどうする?俺は時間あるし、何か重たいものでも買うか?」

「いいや、いいかな。あ、でも―」

 言いかけた彼女は、カバンの中から何かを取り出して弟に渡した。

「どうせ、今日はあんた、お母さんに頼まれて来たんでしょ?ならこれ渡しておいてくれる?開ければわかるから」

 弟の手にはティッシュの箱よりも、一回り大きい何が乗っていた。中身の確認はせず、自身のカバンに入れる。彼女の様子を見るに、もう今日はこれでお開きということを察し、息を吸う。

「じゃあ正月には帰ってこいよ。姉さんの好きなお雑煮、用意しておくから」

「あんたのじゃなくてお母さんの雑煮食べたい」

 ラーメン屋にて別れの挨拶を済ませ、二人はそれぞれの帰路につく。日はまだ高く、これから暑くなるだろう。暑くなってしまえ。二人は考える、彼女は太陽が邪魔だと思っていた。彼は雲一つなくて良かったと思っていた。

「変わってなくて安心した」

 心から思うその言葉を胸に留め、これからも二人はそれぞれの道を歩いていく。迷子になりながら進んでいくのだろう。それでも、道を歩いているのには変わらない。そんな姉弟が歩いてきた道は、歩いた後は、泥まみれで輝いて見えるようだった。


「さて、二軒目行くか」

 佳那は弟のことを気にしながらも、まだ食べたりなかった。さて、次はどの店に行こうかな。蕎麦でいいか。駅前の立ち食い蕎麦屋が彼女のお気に入りなのだ。想像するだけでもうお腹が空いてくる。何事もまず食べなければ始まらないのだ。感傷に浸る気持ちでさえ、食べないと頭が回らない。おっと、お腹は気持ちが先走って叫んでしまった。駅前までもう少し、彼女はある種の出汁の香る思い出深い、その秘密基地を目指した。

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