水曜日
舐めるような湿度にふと目を覚ます。早く起きてしまったのか、外はまだ薄暗い。寝ぼけながら時計を確認しようと左手を伸ばした。だが、押し出したそれはそのまま置いていた台から落ちてしまった。” ガシャ” 落ちた衝撃は私の耳元に嫌な音を配達し、それに呼応するように、ため息をつきながらふとんから這い出た。
「…電池が外れただけか」
元に戻し、そのままふとんに戻るのもいい。だけれど私は窓辺に寄って、湿ったカーテンを開ける。
うん、やっぱりいい天気。外は久方ぶりの雨で、公園の紫陽花が綺麗に映っていた。このチャンスを逃すわけにはいかない。身支度を整えて、私が唯一持つ武器を手に取った。玄関で傘を持つか、合羽を持つか、長靴を履くか、スニーカーを履くか。うーんどれにしよう。少し悩んだが合羽とスニーカーの組み合わせに決めた。理由は簡単で、カメラは両手に持ちたいし、長靴はどうしても痒くなってしまうから性に合わない。
雨、ほとんどの人は大体暗い気分になる。五月病、梅雨はだるい。そんな言葉はいくらでも聞いてきたけど、私はあまり嫌いではなかった。きっと、今は連絡を取っていない先輩の影響だろう。紫陽花を写し、彼女のことを少しだけ思い出していた。
「佳那ちゃんの写真さ、明るいね」
苦手だったその人に写真を見せ、出た感想はあまり理解できなかった。綺麗に見せたいから写真を明るく撮ってはいけないのだろうか。それとも私に対する当てつけなのだろうか、その時はそれぐらいの認識だった。
「太陽は人が簡単に扱えるものではない。この写真達の持つエネルギーは大きすぎる」
言わんとしていることが、頭の中でぐるぐる回って気持ち悪い。大体わかったけど、あと一つ足りないのだ。私はどうすればいいのか聞いた。先輩は少し間を開けて―
「曇り、いや雨の中で撮るといい。佳那ちゃんの撮り方ならそれぐらいでちょうどいいと思う」
そう言ってカメラを私に返した。その言葉は思春期の私には中々届かなった。頭ごなしに否定したのだろう。それから数年は雨の中で写真を撮ろうとしなかったものだ。だけれど転機というものは本当に気まぐれで、たまたま通り雨が注ぎ、そしてカメラを持っていた日に私は烏の写真を撮った。濡れた体を屋根の下で乾かしていた姿に見惚れた。黒がより黒く見える様が美しく感じたことを瞳に焼き付けた。気がつくと、傘もささずにシャッターを切って、撮って、人差し指を押し続ける。撮っていた時は夢中で気がつかなかったけど、我に返ったときに通行人に物凄い白い目で見られていた。さすがにちょっと恥ずかしかったものだ。うわー懐かしいな。
それから、少しずつ雨の日にもカメラを持つようになった。濡れながら撮る写真は、次第に私の写真全体の質を上げていた。たぶん、この時からカメラと共に生きたいと思うようになったのだろう。まるで雨が上がったように気分が晴れたものだ。その感覚はまだ微かに残っている。雨が染みこむときに、私に染みこんでいったのだ。あの気持ちは忘れたくない、このまま、ずっと。死ぬまで忘れたくない。
考え事をしていたら時間はとっくに過ぎてしまっていた。もう、終わりか。雨が止み始め、朝日が雲の隙間からこれまで被写体だった紫陽花を照らす。まだ晴れなくてもよかったのに、私はまだ撮り足りない。この雨を飲み干せていない。でも、今は打ち止め。空が言っているのだから間違いなんてない。私は水を通さないローブを外し、家に戻ることにした。
濡れた服を洗濯機に投げ込み、今度は温い雨を浴びる。もう完全に目が冷め切っていて、こんなものは一刻も早く忘れたかった。体は軽くしか拭かず、ある程度。そしてふとんに飛び込んだ。ボフッ。どうせ夜には乾くし、たまにはいい。らしさなんかもういい。眠し、非常に眠し。目が覚めていたはずなのに、洗い流されてしまったのだろうか。ふとんに沈んでいってしまった。
「デンワ、デンワ!デンワ、デンワ!」
友達に笑われた着信音が部屋に鳴り響く。
「はい、茅原です」
何とかスマホを手に取り、応答する。声が出るか心配だったが、上手く声が出てよかった。着信の相手は私の写真に対して、良くしてくれる担当の人。如何にもできる人って感じで私はどこか苦手意識を持っているのだ。ただ、これは仕事である。我慢しなければいけないのだ。ちなみに担当の人は低い声で、次の雑誌の中で取り扱いたい写真が変更になったことから連絡をくれたらしい。どのような写真に変更になるのかと聞くと、都会の中にいる鳥の写真が欲しいらしい。元々花の予定だったのに、何がどうなってそうなったんだ。それもしかして企画段階から変わっていないか?大丈夫なのだろうか。まぁ別に関係ないし、いいか。色々と細かい調整をして、通話を切る。
「はぁ。つーかーれーたー」
ため息をついている間に、外から聞いたことのない鳥のさえずりが聞こえる。雨上がりのコンサートかな。
「よいしょっと!」
私は窓辺に寄って景色を見る。外はすっかり晴れていて、降った雨がそれにいい味を加えている。鳥はいないな。え、どこで鳴いているの?窓を開けて見渡すが、それらしき影は無かった。まだ濡れたままのサッシに肘をついて考えると、自然とこの先の漠然とした不安と希望が頭を濡らす。これからどんな写真に出会えるのだろうか。目の前の電線に、私は話しかける。
「できる限り皆様の感性に近い写真を撮ることを心がけていきます。だから、しばしお待ちください。私が撮りたい写真はどうやらあなた達との齟齬があるみたいです。これから精進していきます。とでも言うと思ったか。私は好きなように撮るだけだ!だからいつまでも、変わらないままで、どうかそのままで。私の瞳を見守ってください」
目の前の電線に、白っぽい鳥がとまっていた。
「あ、聞かれちゃった」
部屋に私の半身を取りに戻る。あれが、私の撮りたいものなのだ。
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