第6話第二部第3章罪
第一節 水曜日
昨日シモーヌが泣き叫びながら話してくれた後、情けないが、仕事の疲れで気づいたら俺は寝てしまっていた。朝からシモーヌは昨日のやりとりを引きずっていて、不貞腐れながら弁当を渡してくれた。馬鹿晴れてる。4月の陽気がここ最近続く。朝5時半に目を覚まして、6時半にはトラックに乗り込み、七時過ぎから現場近くでコーヒーを飲みながら段取り確認して、8時から仕事。いたって真面目などこにでもいる大工だ。マキコからは古いラップが流れていた。エミネムのlose yourself。朝からこんなの聞かされたらテンション上がるどころか古臭過ぎて、イライラする。チャンネルを変えたかった。
You better lose yourself in the music, the moment
You own it, you better never let it go
You only get one shot, do not miss your chance to blow
This opportunity comes once in a lifetime yo
You can do anything you set your mind to, man
「一回こっきりの人生、チャンスを逃すなよ、音に身を委ねた方が良い。」みたいな、説教じみた昔のラップ。一回り違う長男の兄貴に昔小学生の頃、クソほど聴かされた。シモーヌと結婚した時は般若の「家訓」を熱唱してくれた。昼にはシモーヌの弁当を食べ、3時の休憩には、近所の知らないおばあちゃんから話しかけられて、謎の洗濯機運びと排水溝の掃除。段取り狂いまくりで、発狂しかけながら内部造作を暗くなるまで。家に戻って、風呂飯終わらせて、作業場で見積もりと請求書を間違いのないように精査しながら作成。気付けば、0時過ぎ。
至ってフツーの小さな工務店の工期後半の大工さん。明日も5時半起きの俺、シモーヌとはセックスどころじゃない。リサは時折起きて、海岸へ暖かい格好して抱っこし、寝かしつける。子育てに疲れていそうだし、川嶋さんがどうとか、金魚に夢中で疲れたのか、リサが夜中に泣いても起きやしない。俺の日常。フツーの水曜日。
せめてさ、金魚で悩むのやめようや、今日もそう言った。
「むり、あなたにはわからないのよ」
背を向けて寝る俺ら。
シモーヌが静かに泣いてたのも知ってる。でも、ほっといた。
それでも泣き止まない。俺の前で2度と泣かせない為に黙らせた。深くて静かすぎる沈黙がやってきた。
『泣きたいのはこっちだ。金魚ばっか考えれて羨ましいわ。俺は日々戦ってるのに。笑顔で、お疲れ様、頑張ってるね。からのぶちゅーからの風呂飯、見積もり請求書からの、寝るまでヨシヨシされてーわ、俺だって。勝手に泣いとれや。』
とか、言えたら楽になれたのかもしれない。
そんな風に考えながらも、金魚のサルトルに確かに俺も惹かれている。
「お前ってさ、俺なん?全身溶けるの待つよりさっさと一気にやられちまいたいよな。」
『はー、呑気に俺も異世界ラブリーでワンダフルな魔法少女クララと冒険してたら、おひさまのシモーヌに出会ってハッピーセットみたいなありきたりの安っぽい生活感のない物語の中でパパになってました、的な暮らしてーよ。』
不意に時間が気になって時計を見た。まだ夜9時半。さっきも9時半。
ナイチンゲールも今日はやってこない。何かが静かに変わり始めたのか、終わり始めたのか、とにかく、時間が動かなくなった。完全に。
第二節 告白
時計が多分壊れただけだ。ソファの肘掛け近くに投げ出したG-SHOCKを見る。21:30、止まっている。時計ではなくて、俺の存在が止まったんだ。まあ、そんな時もある。大事のようであまりにも非現実。そんな時などあってはならない。でも、まあ、そんな時もある。寝室のリサが息をしているか確認しに行く。寝息を立ててリサは平和そうに眠っている。俺は、死んでいない。なら、特に問題ない。俺だけが、9時半で止まっているんだ。ソファに身体を投げ出し仰向けになって、横目で金魚のサルトルを見る。金魚のサルトルだってまだ、泳いでいる。iPhoneの時計も9時半だし、SNSの更新もあるか見たが、一様に9時半以前のものしかない。フォロワー数は止まっておらず、しっかり減少。別にいい。俺だって三流官能小説まがいの長ったらしい創作小説とは名ばかりの個人的な回想録を毎回更新されたらヒトラーのわが闘争並みに反吐がでる。
とにかく、俺は今、時間の直線ベクトル上のある地点で止まっただけのことだ。要するに、死んだのかも知れない。どうせ死んだのなら、シモーヌが大事そうに取っているシャンボールミュジニィレザムールとかいうグランクリュのブルゴーニュワイン、ここまで書くのに一苦労した、彼女的に一番好きなワインらしいから銘柄を覚えさせられた、そのワインを開けたところでバチも当たらないだろう。
ワインを開けて、リーデルのこれまた、シモーヌお気に入りのブルゴーニュワイン用のとても良い音のする、グラスを勝手に箱から取り出して、並々と注ぎ、一口飲んだ。ワインのコルクはシャトーラギヨールとかいうフランス製の牛角の柄でよく使い込まれたソムリエナイフで抜いた。これも、シモーヌのものだ。もし、俺が死んだのだとしたら、ワインは飲めないに決まっているし、仮に何かが閾値を超えてしまい、注げたとしてもワインの量は減らない。これは、「サルトルの定理」だ。最新の宇宙物理学のさらに先を行く、今、俺の編み出した定理。時間が止まったのならそうであるべき。ありがたいことに、シモーヌのお気に入りは、ものすごく美味しい。金魚のサルトルに薬も塗っておくべきであろう。昨日は塗り忘れた。尾は溶け切る寸前まできていて、痛そうですらある。ワインやワインの道具をこうして眺めるのは初めてだった。俺の知らないシモーヌがそこにかすかな何かを残しているような感覚すら覚える。大体、好きなものはクラシック音楽卍で「ティファニーとルイヴィトンがこの世の中で一番しっくりくる」とか抜かす23歳の脳内お花畑な世間知らずでエロいだけの、でも、無邪気で純真な、金ばかりかかる資本主義の象徴みたいな反吐が出そうな女だった。もっと何かないかと思い、シモーヌが実家から運び入れたグランドピアノの前に立った。ベーゼンドルファーとかいうやつだ。シモーヌママが若い頃、誰かに貢がれたもので、それをシモーヌが譲り受けた。値段は教えてくれなかった。ベンツのいいやつが2台は買えるとか言ってにやりとしていたのは覚えている。ピアノの蓋を開けて鍵盤を触ってみた。象牙の鍵盤。とにかく俺はシモーヌが弾いているのを隣で聴いたことは何度もあるが、自分が触ったことは一度もなかった。触るなら手をきちんと洗ってね。と毎回弾き終えると言っていた。ヤマハでもスタインウェイでもなくて、ベーゼンドルファーだ。きっととんでもなく高いのだろう。それでも、俺は死んだかもしれないから、手を洗わずに鍵盤を触ったところで、責められやしない。蓋は綺麗にワックスがかけられている。教授が映っている。
『何か弾けるなら、ショパンのバラード4番で。アシュケナージ風。シモーヌが失敗したやつだ。サルトルなら弾けるだろ?』
弾ける訳がない。大体俺は楽譜が読めない。
『なら、バッハのゴルドベルクのアリアの主旋律だけでいい。グールド風じゃないのを頼む。』
「お前、ええ加減にさらせや、ほんましばく。あんまごちゃごちゃ言わんといて。頭おかしくなるわ。」
俺はグリンカのひばりの出だしだけ弾ける。弾けると言ってもシモーヌがいつも弾いて聴かせてくれていたやつを耳コピーでこんな感じだったっていう程度だ。
「死にかけのシモーヌの曲なら弾いてやるよ。あとラフマニノフのヴォカリーズのメロディーのとこ。それもかなり絶望的に朝焼けが眩しそうな感じのやつな?」
もしかしたら、シモーヌが隣に座って、さっきのことなんてなかったかのように無邪気で屈託のない笑顔をふりまきながら、俺をこんな非現実的な状況から救ってくれるかも知れない。
「大丈夫よ、それは夢だから。」
あの時もそう言って俺が金魚になりかけたところを救ってくれた。
第二部完
ここまで辛抱強く読んでくれた読者にはわかっているだろう。まさしく俺は、妻を殺した。
俺の愛するシモーヌを死んだまま終わらせるわけにはいかない。死んだことが事実だとしても俺は物語の中で彼女の生を賛美し、彼女を俺の僅かな記憶の中にとどめておかなくてはならない。だからもう少し、この回想録に付き合って欲しい。
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